「古代三関」愛発関はどこに?
北陸道の愛発山(あらちやま。「あらち」は、有乳、荒血、荒道、荒茅、阿良知とも表記)には、東海道・伊勢国鈴鹿関、東山道・美濃国不破関と共に「古代三関(さんげん)」の1つの愛発関(あらちのせき)が置かれていた。愛発関は、平安時代に入り、桓武天皇が崩御された時に廃止され、現在、その所在地は不明である。
私は、敦賀市の西部にある関峠(福井県敦賀市と福井県三方郡美浜町の境の峠)が愛発山だとずっと思っていたが、どうも、そうではないらしいので調べてみた。
1.『義経記』の「愛発」
源義経の奥州落ちの当時、愛発山はあったが、愛発関は既になく、『義経記』には、源義経を捕らえるために、「愛発の山の北の腰」(愛発山の北斜面)の「三口」に関所を設け、関屋の前に乱杭を打ったとある。
「口」といえば、平野部と山間部の境界にある出入り口のことであり、「京都七口」といえば、長坂口、鞍馬口、大原口、粟田口、伏見口、鳥羽口、丹波口、「鎌倉七口」といえば、名越切通、朝夷奈切通、巨福路坂、亀ケ谷坂、仮粧坂、大仏切通、極楽寺切通の7ヶ所をいう。敦賀は北が日本海なので、東口、西口(関峠)、南口で「三口」かと思えば、『義経記』には、東へ行く道、西へ行く道、南へ行く道の交差点なので「三口」とある。(それは「三口」ではなく、「三俣」ですよ!)
さらに、この「愛発の山の北の腰」の「三口」は、「道口」(福井県敦賀市道口)のことだというから、『義経記』が正しければ、愛発山も愛発関も福井県敦賀市道口にあったことになる。
■『義経記』(巻第七)「三の口の関通り給ふ事」
夜も既に明けければ、愛発の山を出でて、越前の国へ入り給ふ。愛発の山の北の腰に若狭へ通ふ道あり。能美山に行く道もあり。そこを三(みつ)の口とぞ申まうしける。越前の国の住人敦賀の兵衛、加賀の国の住人井上左衛門両人承りて、愛発の山の関屋を拵(こし)らへて、夜三百人、昼三百人の関守を据ゑて、関屋の前に乱杭を打ちて、色も白く、向歯むかばの反りたるなどしたる者をば、道をも直ぐに遣らず、判官殿とて搦め置きて、糾問してぞひしめきける。
(夜が既に明けていたので、源義経一行は、愛発山を出て、越前国へ入られた。愛発山の北斜面の中腹に(関峠を越えて)若狭国へ通じる道があった。能美山(栃ノ木峠。木ノ芽峠の誤り)に行く道もあった。それで三口と呼ばれていた。越前国の住人敦・賀兵衛、加賀国の住人・井上左衛門の両人は、命を受け、愛発山に関所を設け、夜には300人、昼にも300人の関守を置いて、関屋の前に乱杭を打ち、「肌の色が白く、向歯の反った(前歯が出ている)者を、道をすぐには通さず、判官殿(源義経)だとして搦め置き、糾問せよ」と騒ぎたてていた。)
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