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鳥居強右衛門磔刑地の位置

 鳥居強右衛門は、武田軍の篠場野陣地(愛知県新城市有海字篠原)の近くで磔刑に処された。その処刑地に大正2年4月16日、石碑(高さ195cm、幅78cm)が建てられた。その後、昭和44年(1969年)、その地を水田にするため、石碑は現在地(寒狭右岸)に130cmの基礎を築いて移された。(ナンバーポール「㉕鳥居強右衛門磔死の跡」は撤去された。木の標柱はある。)

図に「鳥井強右衛門磔場」
「穴山陣所 鳥井を川原弥弥太郎、是にて討」
上の地図の右下の朱書
https://adeac.jp/toyohashi-city/viewer/mp000120-200080/haneda015/

○図に記るす鳥居強右衛門の墓は、滝川の橋のこなたより四十間程奥の方にありて、塚に桜木あり。
「 天正三乙亥年
智海常通居士
 六月十六日 俗名 鳥井強右衛門勝商 行年三十六才
五月十四日の夜 城を出るとて
  わが君の命に替る玉の緒を
    なにいとひけん 武士の道
 宝暦十三癸未暮秋十六日建之」
とあり。按に水戸前中納言斉昭卿の撰可せ玉へる明倫歌集にも此の歌をのせ玉へり。

鳥居強右衛門磔刑地「岩城」の範囲は東西に長い。
大正時代の写真。この石碑は、現在は背後(北側)の林の前に移されている。

鳥居強右衛門の塚は、設楽郡(しだらぐん)有海村(あるみむら)篠場野(一に篠原と云ふ)現今東郷村大字有海字岩城と云ふところ(墓所24歩。官有地)にあり

皆川登一郎『長篠実戦記』大正8
https://dl.ndl.go.jp/pid/960812/1/82

現地案内板によれば、

磔死の石碑は、鉄道工事により移され、さらに圃場整備のために移されて、現在地にあるという。

 確かに磔地はJR飯田線の線路のすぐ横であり、もしここに石碑があったら危険ですね。で、畑の真ん中に移された(上のモノクロ写真)けど、圃場整備のために畑の隅(現在地)に移されたそうです。

 『三河物語』では、鳥居強右衛門は「磔にしてください」と頼み、磔られた状態で「岡崎城へ行ってきたが見つかってしまってこのざまだ。でも、安心してください。援軍は来ますよ」と叫んだので、殺されたとあるが、広まっている話は、「援軍は来る言ったので、磔られた」である。

 然る所に信長御出馬有りて、先手の衆は、はや八幡、一の宮、本野が原に陣を取れば、城之介殿は岡崎へ付かせ給へば、信長は池鯉鮒へ付かせ給ふ。然れ共、長篠の城はきつく攻められて、はや殊の外つまりければ、忍びて鳥居強右衛門と申す者出して、「信長は御出馬か見て参れ」とて出す。城よりはやすやすと出て、此の由を家康へ申し上げれば、信長へ指し越されければ、信長、御悦び成られて、御出馬の由、仰せつかはされければ、強右衛門、お請けを申して、罷り立ちて、武田の逍遥軒の攻め口へ行き、竹束を担ぎて、はや駆け入らんと見合はせける処に、見出されて召し捕られ、勝頼の御前へ引き出す。勝頼は聞き召し、「其の儀ならば、汝が命は助け置き、国へ召し連れ、過分に知行を出すべし。然らば磔にかけて城へ見せべき。其の時、近づき共を呼び出して、『信長は不出候間、城を渡せ』と申し候へ。其の時、汝をも降ろさん」と云ひければ、強右衛門申すは「忝く奉り存知候。命さへ御助け候はば、何たる事を成す共可申候に、あまつさへ御知行を可被下と御意の候へば、目出度き事、何かあらんや。はや、はや城近くに旗物をあげさせ給へ」と、申しければ、其の如く、城近くにかけければ、「城中の衆、出でて、聞き給へ。鳥居強右衛門こそ忍びて入るとて召し捕られ、此の如くに成りて候へ」と申しければ、ことごとく出でて「強右衛門か」と云ふ。其の時、強右衛門申しけるは、「『信長は出させ給はぬと申せ。命を扶(たす)け、其れ故、知行をくれん』とは申すが、信長は、岡崎迄御出馬有るぞ。城之介殿は、八幡迄御出馬成り。先手は、一の宮、本野が原にまんまんと陣取りて有り。家康、信康は野田へ移らせ給ひて有り。『城、堅固に持ち給へ。三日の内に御運を開かせ給ふべし』と、此の由を奥平作州と、同・九八郎殿と、親子の人へよく申せ」と云ひければ、「却って敵の強みを云ふ奴なれば、早く止めを刺せ」とて、止めをぞ刺しける。

『三河物語』「鳥居強右衛門」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906666/1/119

 現地の伝承では、「城の近く(上の赤色立体地図の「呼びかけの地」。木の標柱がある)で叫び、穴山陣所で処刑された」としている。
 上の2枚目の絵図の穴山陣場に「鳥井を川原弥太郎、是にて討つ」とあり、それとは別に「鳥井強右衛門磔場」とある。ということは、「約束に反して『援軍は来る』と言ったので、川原弥太郎に殺され、死後、見せしめのために磔台に縛りつけられた」のであろう。

水も洩らさじと、守り居りければ、鳥ならでは飛びて入るべき様無し。遉(さすが)の強右衛門(すねうえもん)も術を失ひ、「あわれ翼も哉」と暫く猶予しける所に、寄せ手の大将の内、穴山梅雪斉が同心・河原弥太郎、是を見付けて、「怪しき男の体也。味方の者とは見えず。殊に脛巾(はばき)も水に濡れたれば、如何様子細あらん」と捕らえ取り、惣大将の勝頼に達しければ、武田孫六郎信綱入道逍遥軒を以て、其の巨細を尋問る。(後略)

『三州長篠合戦記』

(注)『三州長篠合戦記』や『長篠日記』等では、「鳥強右衛門(とりいすねえもん)」ではなく、「鳥強右衛門(とりいすねえもん)」としています。

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