鳥居強右衛門は、武田軍の篠場野陣地(愛知県新城市有海字篠原)の近くで磔刑に処された。その処刑地に大正2年4月16日、石碑(高さ195cm、幅78cm)が建てられた。その後、昭和44年(1969年)、その地を水田にするため、石碑は現在地(寒狭右岸)に130cmの基礎を築いて移された。(ナンバーポール「㉕鳥居強右衛門磔死の跡」は撤去された。木の標柱はある。)
現地案内板によれば、
磔死の石碑は、鉄道工事により移され、さらに圃場整備のために移されて、現在地にあるという。
確かに磔地はJR飯田線の線路のすぐ横であり、もしここに石碑があったら危険ですね。で、畑の真ん中に移された(上のモノクロ写真)けど、圃場整備のために畑の隅(現在地)に移されたそうです。
『三河物語』では、鳥居強右衛門は「磔にしてください」と頼み、磔られた状態で「岡崎城へ行ってきたが見つかってしまってこのざまだ。でも、安心してください。援軍は来ますよ」と叫んだので、殺されたとあるが、広まっている話は、「援軍は来る言ったので、磔られた」である。
現地の伝承では、「城の近く(上の赤色立体地図の「呼びかけの地」。木の標柱がある)で叫び、穴山陣所で処刑された」としている。
上の2枚目の絵図の穴山陣場に「鳥井を川原弥太郎、是にて討つ」とあり、それとは別に「鳥井強右衛門磔場」とある。ということは、「約束に反して『援軍は来る』と言ったので、川原弥太郎に殺され、死後、見せしめのために磔台に縛りつけられた」のであろう。
(注)『三州長篠合戦記』や『長篠日記』等では、「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」ではなく、「鳥井強右衛門(とりいすねうえもん)」としています。