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第48回「神の君へ」(復習)

【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 竹千代(後の徳川家康)誕生
天文24年(1555年)3月   竹千代(後の徳川家康)、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月   織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月    徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日  徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月   徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄
              →上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月   松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
天正2年(1574年)2月8日  お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日   大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月16日 鳥居強右衛門勝商、刑死(磔刑)
天正3年(1575年)5月21日 「設楽原の戦い」
天正3年(1575年)12月24日 二俣城、開城
天正3年(1575年)12月27日 水野信元、誅殺。享年不明(50代前半?)。
天正4年(1576年)12月22日 亀姫、奥平信昌と結婚(7月説あり)
天正4年(1576年)3月     五徳、長女・登久姫を生む。
天正5年(1577年)7月     五徳、次女・熊(国)姫を生む。
天正6年(1578年)3月     徳川家康、西郷局と結婚
天正7年(1579年)4月7日  西郷局、長松(長丸、徳川秀忠)を生む。
天正7年(1579年)8月29日   築山殿、殺害さる。享年不明(38?)。
天正7年(1579年)9月15日   松平信康、自害す。享年21。
天正8年(1580年)8月25日   佐久間信盛を追放(「19ヶ条の折檻状」)
天正9年(1581年)3月22日   岡部元信、討死(「高天神城の戦い」)
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、死没(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)4月10日~4月21日 織田信長の凱旋旅行
天正10年(1582年)6月2日  織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
天正10年(1582年)6月5日  徳川家康、三河国へ帰還(神君伊賀越え)
天正10年(1582年)6月27日 清洲会議・秀吉、信長の嫡孫・三法師を擁立
                  ・お市の方、柴田勝家と再婚
天正11年(1583年)3月12日 柴田勝家、敗北(「賤ヶ岳の戦い」)
天正11年(1583年)4月24日 柴田勝家、北ノ庄城にてお市と共に自害。
天正12年(1584年)3月~11月 「小牧・長久手の戦い」
天正12年(1584年)12月12日 徳川家康の次男、羽柴秀吉の養子に。
天正13年(1585年)7月11日 秀吉、関白になる。
天正13年(1585年)11月29日 天正地震
天正14年(1586年)5月14日 朝日姫、徳川家康の正室(継室)に。
天正14年(1586年)9月9日   秀吉、正親町天皇から豊臣の姓を賜る。
天正14年(1586年)10月26日 徳川家康、大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊
天正14年(1586年)10月27日 徳川家康、大坂城において秀吉に謁見。
天正14年(1586年)11月5日 徳川家康、正三位に叙される。
天正14年(1586年)11月12日 大政所を秀吉の元へ送り返す。
天正14年(1586年)12月4日 本城を浜松城から駿河国の駿府城へ移す。
天正16年(1588年)1月13日 足利義昭、将軍を辞して出家。昌山と号す。
天正17年(1589年)5月19日 西郷局(於愛の方)、死没。享年28。
天正17年(1589年)5月27日 茶々、棄(鶴松)を生む。
天正18年(1590年)1月14日 朝日姫、死没。享年47。
天正18年(1590年)2月~7月5日   小田原征伐→徳川家康、関東移封
天正18年(1590年)8月1日   徳川家康(49歳)、江戸城に入城
天正19年(1591年)1月22日 豊臣秀長、死没。享年52。
天正19年(1591年)8月  5日 鶴松、死没。享年3。
天正20年(1592年)~文禄2年(1593年)朝鮮出兵「文禄の役」
天正20年(1592年)7月22日  大政所、死没。享年77。
文禄  2年(1593年)8月  3日  茶々、拾(後の豊臣秀頼)を生む。
慶長元年(1596年)10月28日 酒井忠次、死没。享年70。
慶長元年(1596年)11月14日 服部半蔵、病死。享年56。
慶長  2年(1597年)~慶長3年(1598年)朝鮮出兵「慶長の役」
慶長  3年(1598年)8月18日  豊臣秀吉、死没。享年62。
慶長  4年(1599年)閏3月3日 前田利家、死没。享年62。
慶長  4年(1599年)閏3月4日 「七将襲撃事件」
慶長  4年(1599年)9月  8日 明日(9/9)の徳川家康暗殺計画の発覚。
慶長  5年(1600年)3月16日 リーフデ号、豊後国臼杵の黒島に漂着。
慶長  5年(1600年)4月  1日 西笑承兌、直江兼続へ書状(「承兌書状」)
慶長  5年(1600年)4月14日 直江兼続、西笑承兌へ返信(「直江状」)
慶長  5年(1600年)7月18日~8月1日 「伏見城の戦い」
慶長  5年(1600年)7月25日 「小山評定」
慶長  5年(1600年)9月15日  「関ケ原の戦い」
慶長  5年(1600年)10月1日  石田三成、京都六条河原で斬首。
慶長  7年(1602年)2月  1日    井伊直政 、死去。享年42。
慶長  7年(1602年)8月28日  於大の方(伝通院)、死去。享年75。
慶長  8年(1603年)2月12日  徳川家康、江戸幕府を開設。
慶長  8年(1603年)7月28日  豊臣秀頼、徳川家忠の娘・千姫と結婚。
慶長10年(1605年)4月16日     徳川秀忠、第2代将軍に就任。
慶長11年(1610年)5月14日     榊原康政 、死去。享年59。
慶長15年(1610年)10月18日   本多忠勝 、死去。享年63。
慶長16年(1611年)3月28日徳川家康、豊臣秀頼と会見(「二条城会見」)
慶長17年(1612年)4月14日徳川家康、今川氏真と駿府城で面会
慶長19年(1614年)     「大坂冬の陣」
慶長19年(1614年)12月28日 今川氏真、江戸で死去。享年77。
慶長20年(1615年)  5月  8日 豊臣秀頼と茶々、自害(「大坂夏の陣」)
慶長20年(1615年)  7月13日 「元和」に改元
元和  2年(1616年)  4月17日  徳川家康、駿府で死去。享年75。


 人間、水だけでも生きられるようで、最終回を見ることができた。
 鯉の話の伏線回収と「海老すくい」で終了!
 
 さて、電気を止めなかった電力会社様にも感謝。
 でも、地獄の釜の蓋は開いたまま。
 もう、この世に思い残すことは無い。
 さぁ、飛び込む時が来たようだ。

1.豊臣氏の滅亡


 通説では、「大坂夏の陣」に於いて、大野治長、茶々、豊臣秀頼、国松(「国松丸」とも)、奈阿姫は、大坂城山里丸の干飯蔵に隠れ(ドラマでは千畳敷に集まり)、千姫の助命嘆願が受け入れられるのを待ったが、第2代将軍・徳川家忠が救命を拒否したので、国松と奈阿姫を逃がし、干飯蔵に火を放って自害したとする。まるで本能寺の織田信長のような死に方である。(織田信長同様、遺体は発見されていない。正確には、複数の遺体が発見されたが、黒焦げで、本人かどうか不明であった。)

千姫が徳川家康に助命嘆願をするが、徳川家忠が将軍として死を命じる。

※香原斗志「本当の「鬼」は家康ではなく秀忠だった…千姫による「秀頼の助命嘆願」を父・秀忠がはねつけたワケ」

【自殺説】火を放ち、自害した。(通説)
【他殺説】井伊隊が銃殺し、火を放った。
【生存説】豊臣一族(茶々、豊臣秀頼、国松、奈阿姫)は脱出した。
【長男・国松】脱出に成功するが、伏見で捕らえられて処刑された。
【長女・奈阿姫】出家を条件に助命された。
【次男・求厭(ぐえん)】江戸に隠れ住み、出家した。

◎側室の子
 徳川家康(正室は築山殿)の次男・結城秀康は側室・お万の方の子である。お万の方は、妊娠後、浜松城を離れ、宇布見村の中村家で結城秀康を出産した。結城秀康は徳川家康に会うことが無かったが、それ憐れんだ正室の子・信康が対面させたという。対面後も結城秀康は隔離されていたが、豊臣秀吉に人質を出さなければならない状況になって登場し、羽柴秀康となった。(後に結城家の養子になって結城秀康と名乗った。)
 豊臣秀頼(正室は千姫)の長男・国松は、側室(和期の方とも、小石の方とも)の子で、若狭国の砥石屋弥左衛門の養子となっており、生まれたことを豊臣秀頼は知らなかったといい、「大坂の陣」の時に対面し、対面後は大坂城に住んだ。
 このような状況を、歴史学者は「正室の権限が強く、側室の身分が低いと、子として認知されなかったことがあった」と解釈しているが、歴史家は、家が絶えないために隠した(嫡男が討死でもしたら登場する)のではないかと推測している。

◎豊臣一族生存説:国松は捕らえられて処刑され、奈阿姫は出家を条件に助命された。これはは史実だという。ということは、大坂城からの脱出は可能だったということであり、茶々と豊臣秀頼は、身代わりを殺して、身元が分からないように焼くと、大坂城からの脱出して生き延びたとする説を完全に否定することが出来ない。そもそも豊臣秀頼と茶々の辞世が無いことは奇妙である。(ちなみに、同じような状況で亡くなったお市の方の辞世は「さらぬだにうちぬる程も夏の夜の 別れをさそうほととぎすかな」である。)
 さらに豊臣秀頼は、逃亡先で子を儲けたといい、現地にはご子孫がおられる。
・「天草四郎(馬印は瓢箪)=豊臣秀頼の子」説。
・ご子孫の現在の名字は「豊臣」ですが、「木下」と名乗っているご子孫もおられます。(厳密には、当時、「豊臣」は姓であって、名字は「羽柴」。もしくは「木下(樹下)」(寧々の家)でした。)豊臣埋蔵金は、豊臣秀頼の隠匿地から引越した時に掘り出して使ってしまったらしい。

◎【生存説】には、
・真田信繁(幸村)生存説
・後藤又兵衛生存説
・明石全登生存説
もある。


2.徳川家康の死


 俗説では、「山西(高草山西麓。現・焼津市~藤枝市一帯)へ鷹狩に行き、その時、田中城の清水御殿でタイの天ぷらを食べて気分が悪くなり、駿府城に運ばれ、絶命した」とする。通説は「食中毒説」ではなく、「胃癌説」である。

 山西には「銃殺説」が残る。豊臣氏の滅亡を見た翌年に亡くなるという「出来すぎた筋書き」であるので、「徳川家康=影武者説」では、「徳川家康は、「大坂夏の陣」で討死したので、影武者をたてた。影武者であることがばれないうちに殺した」とする。


 ちなみに「徳川家康=影武者説」には5説あり、それが全て史実であれば、最後に死んだのは「六番目の家康」になる。(それで「六番目の小夜子」の俳優が出てる?)




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