『曳駒拾遺』「洗池」
築山殿の介錯をした野中重政(『どうする家康』では女大鼠)が、使った刀(2尺3寸の相州貞宗)の血を広さ36㎡の池で洗うと、池の水が赤く染まったので「洗ひ池」「太刀洗ひの池」と呼ばれたという。(「太刀洗の池」は昭和30年代の御前谷川改修工事の時に埋め立てられ、湿地帯となった。高柳光寿(浜松市出身の歴史学者)書「史跡御前谷太刀洗池」碑も撤去された。医療センターの駐車場となったが、現在は新館を建設中である。)
『どうする家康』で築山殿が亡くなって、供養に出かけたいものだが、工事中で立ち入り禁止(泣)。
延宝6年(1678年)8月、「百回忌大法要」を行うと、池の水が澄んだので、築山殿の法号を「西来院殿」から「清池院殿」に変えたという。
明治12年(1879年)に300回忌が行われた。
今年(2023年)は444回忌にあたる。
■築山殿の胴塚を西来院に移した時期
①しばらくして徳川家康が移した。(『どうする家康』「大河潤礼」)
②「百回忌大法要」の時、大久保忠朝が移した。(濁っていた池の水が澄んだ。)
③明治時代に初代静岡県知事・関口隆吉(築山殿の父親の子孫)が私財で移した。(『史疑』)
池の水で血を洗うから異変が起こるのであって、御前谷川で洗えばいいのにと野暮なことを考えたらダメ。わざわざ広さ36㎡の小さな池まで行って洗うから池の水が赤くなるのであって、近くの大きな佐鳴湖で洗えばよかった。(一説に、当時は医療センターの前まで佐鳴湖だったという。)
【築山遺跡】
・御前谷 言問へどせむ術も無し昔その 絶えにし跡に似る物や何
・太刀洗池 武士の太刀洗ひ池行けり共 我が身をすらも思はざりけむ
・気落とし坂 追ひし来て入野の坂は越へもあへず 転び落つべく心空也
・比丘尼谷 身を尼に変へてや袖を絞るらむ 舟流したる跡の白波
・御前谷:築山殿の胴塚があった。自然石が置かれ、周囲に殉死した侍女たちの石塔があったという。多分、金地院の岩神(駿河姫の墓)のようであったろう。100回忌の時に無くなったというが、明治まであったという証言もある。その後、御前谷にオートレース場が作られるという噂が飛び交ったが、結局は住宅地になり、現在はYAMAHAの関係者が多く住んでいる。
・太刀洗池:御前谷川が佐鳴湖に注ぎ込む所にあった。後に湿地となり、浜松医療センターの駐車場となっていたが、現在、新館を建設中で、立ち入り禁止である。(下の動画参照)
・気落とし坂:三ッ山と佐鳴湖を結ぶ坂。逃げて、転んで気絶したという。「佐鳴湖八景」の1つである三ッ山は、約50年前、宅地「佐鳴台」の造成で削り取られて消失した。
・比丘尼谷:築山殿の胴塚の墓守をしていた比丘尼の庵があった谷。胴塚の横に庵を建てればいいのに、結構離れている。この比丘尼の正体は、死にきれなかった(佐鳴湖に飛び込んだが生き延びた)築山殿の侍女だとも、殺されたのは身代わりになった侍女であり、この比丘尼こそ死んだはずの築山殿だという。なお、築山殿は殺されずに比丘尼となり、憧れ続けた寿桂尼の墓守をしたとされ、寿桂尼の墓の横の謎の墓が築山殿の墓だという生存説もある。