白羽
遠江国(静岡県西部地方)には「白羽」地名が3ヶ所あります。
──国内に同じ地名はない。
遠江国浜名郡は、郡衙が北から南へ移動しましたので、「中之郷」地名が2つありました。赴任してきた代官が「混同する」として、旧郡衙所在地の「中之郷」を「三ヶ日」と変えてしまいました。このように、混乱を避けるために、「国内に同じ地名はない/なくす」のに、3ヶ所もあるとは、これ、いかに?
遠江国は、山間部の「北遠」と、海岸部の「南遠」に分かれ、「南遠」はさらに「西遠」「中遠」「東遠」に分かれ、それぞれに「白羽」と「白羽神社」があります。(白羽神社自体は遠江国各地にあります。)
・西遠の「白羽(しろわ)」:浜松市南区白羽町
・中遠の「白羽(しろわ)」:磐田市白羽
・東遠の「白羽(しろわ)」:御前崎市白羽
・西遠の「白羽(しろわ)神社」
・御祭神:【春日神社】武甕槌神、經津主神、天之児屋根命
【八幡神社】比賣大神、誉田別之命、帯中比古命
【神明神社】天照皇大神、豊宇気賣神
http://www7b.biglobe.ne.jp/~shirowa_shrine/
http://shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4414073
・中遠の「白羽(しろわ/しらは)神社」
・御祭神:倭建命、長白羽命、他24柱
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・東遠の「白羽(しろわ)神社」
・御祭神:天津日高日子穂々手見命、豊玉毘賣命、玉依毘賣命
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http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4408001
★「白羽」の謎
謎①:なぜ同じ地名が同国内に3ヶ所あるのか?
謎②:なぜ「白羽」を「しらは」ではなく、「しろわ」と読むのか?
謎③:「白羽神社」の祭神がなぜ異なるのか? 「白羽神」の正体は?
回答①:『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、遠江国は3つの国が合併して出来た国だという。(尾張&三河&遠江国は「物部王国」と言われているが、実は中遠までであって、東遠からは、物部氏の神器・銅鐸が発見されていない。東遠は「蘇我王国」?「秦王国」?)
・西遠=遠淡海国(国造:物部連の祖・伊香色雄命の子・印岐美命)
・中遠=久努国(国造:物部連の祖・伊香色雄命の孫・印播足尼)
・東遠=素賀国(国造:神武天皇の従者・美志印命)
つまり、「白羽」は、「遠江国に3ヶ所」あるのではなく、「遠江国を構成する3ヶ国に各1ヶ所」あるのだという。
回答②:「しらは」を「しろわ」と読むのは遠州弁(方言)。
・中遠の「白羽神社」の「白羽」の読み方について、静岡県神社庁の公式サイトには「しらは」とあるが、地元では「しろわ」と読んでいる。
・東遠の地名「白羽」について、『東海道名所図会』に「土人(地元住民)「しろは」といふ」とある。
3ヶ所とも海岸にあるので、語源は「白浜」で、「白浜」地名ライン(海神東進の紀伊-房総ライン)上に乗っていると思われるが、まぁ、本来の表記は「白波(しろわ)」であろう。ただ、「白波」では「しらなみ」と読まれてしまうので、「白羽」に変えたと思われる。
回答③:「白羽神社の白羽神の正体は、天白羽神(長白羽命)のはずであるが、中遠の白羽神社でしか祀られていないというのはおかしい」という謎ですが、「社号が同じだから、ご祭神は同じはず」という発想が間違い。社号「白羽」は地名であって、祭神名ではない。
逆に祭神が異なるので、遠江各地の白羽神社のご祭神を調べることにより土地と土地との関連性が分かるのである。
もし3社が同じ祭神を祀るとしたら、どれも海岸にあるので、御祭神は、海神(綿津見神)の火遠理命(山幸彦)、豊玉姫命(山幸彦の妻で、海神の娘)、玉依姫命(海神の娘で、豊玉姫命の妹)になると思われる。
1.西遠の「白羽」(浜松市南区白羽町)
(1)周囲の様子
諏訪湖から流れ出した天竜川は、徳川信康自刃の地「二俣」で2つに分かれた。西を大天竜(現在の馬込川)、東を小天竜(現在の天竜川)という。(江戸時代には、大小逆になっていた。)
大天竜の河口(敷知郡浜津郷)に白羽湊、小天竜の河口に掛塚湊があったというが、古代の天竜川は、現在の掛塚よりも東を流れていた。(上の地図では、池田庄も掛塚も天竜川の西にあるが、現在の池田も掛塚も天竜川の東にある。)
遠州灘(太平洋)の海岸には、天竜川が運んできた砂で、「南遠大砂丘」(鳥取砂丘、九十九里浜と共に「日本三大砂丘」)が形成されている。
(2)万葉歌碑
※碑文
この1首は、遠州灘を望むこの地域にとって忘れることのできない歌である。これは、防人として築紫に旅立つ丈部川相が「遠江の白羽の磯と築前のにへの浦とが近くにあるならば語らいもできるであろうに」と、故郷遠江を懐かしみ感慨のこもったものである。(後略)
(注)「築紫」「築前」は「筑紫」「筑前」でしょうね。(東遠の万葉歌碑の案内板にも「築紫防衛」とありますが。)そもそも、この歌は、赴任する時に遠江国~難波津間で詠んだ歌であって、北九州に赴任してから望郷の念を詠んだ歌ではありません。ホームシックの歌ではなく、「さぁ、これから北九州へ行くぞ。でも遠いから、故郷(遠江国)で何かあっても、すぐに連絡が届かないし、こちらで何か起こっても、すぐに故郷に伝わらないから、不安だなぁ」という歌です。
(3)白羽神社
現在は、「白羽神社」と称しているが、実は「郷社・春日神社」である。
昭和27年(1952年)1月、宗教法人切替に際し、3社、
・春日神社(承元2年(1208年)創建)
・八幡神社(延宝4年(1676年)創建。本来は春日神明の末社)
・神明神社(寛永6年(1629年)創建)
を合祀し、地名をとって「白羽神社」と社号を変更した神社である。
2.中遠の「白羽」(磐田市白羽)
(1)周囲の様子
掛塚湊の近くである。
「白羽官牧(馬)」の地という。
(2)白羽神社
白羽神社 由緒
創立年代は不明
文武天皇4年3月此の地を牧地として牛馬を放養す 牧官筑紫大伴某本社に奉仕せり
応永年間山下与三郎政忠、信州より移住し牧官大伴の遺志を嗣ぎ奉仕す
元亀年中武田軍の兵火により旧宝物を焼く
慶長13年神殿再建のことあり 安政元年地震に幣殿及び拝殿倒壊し、慶応元年造営せり 徳川氏朱印33石の寄進あり
明治6年3月15日神饌幣料供進指定社となる
明治42年2月1日 法人令により神社設立 登記済(後略)
【御祭神】 中遠の白羽神社は、創建年代不明というが、一説に文武天皇4年(700年)創建で、静岡県内の白羽神社の中では最も古い白羽神社であり、創建時の御祭神は倭建命だという。(長白羽命は、社号に合わせて、江戸時代に祀られたという。)
「ヤマトタケルの東征」では、ヤマトタケルは白羽湊から駿河国に船で向かっており、掛塚湊は使っていない(天竜川を越えていない)と思われるが、社伝によれば、社号「白羽」は、地名ではなく、「倭建命の化身である白鳥の羽根」の意だという。(ようするに「白鳥神社」だということか。)
【『延喜式』「白羽官牧」】 『延喜式』(927年)には、18ヶ国39ヶ所の兵部省管下の官牧(国有の馬と牛の牧場)が記載されている。この白羽神社周辺は「白羽官牧(馬)」だったという。
そして、牧官・筑紫大伴某が白羽神社を建てたという。であれば、白羽神社は官社であり、『延喜式』「神名帳」に載っているはずであるが、載ってはいない。
※『延喜式』(927年)26巻「主税上」遠江国正税
遠江国正税。公廨各廿八万束。国分寺料三万束。大安寺料四万九千束。文殊会料二千束。修理池溝料三万束。救急料六万束。夷俘料二万六千八百束。白羽官牧馬直四千四百六十束。薬分料一万束。
【万葉歌碑】 なぎの木会館(静岡県磐田市豊岡)
3.東遠の「白羽」(御前崎市白羽)
(1)周囲の様子
白羽は、南遠大砂丘の東端に当たり、「白羽海岸」は砂浜である。
「国指定天然記念物 白羽の風媒礫産地」がある。風媒礫(単稜石、三稜石)は、風に飛ばされた海岸の砂によって削られた石で、昔はたくさんあったというが、今は観光客が記念に持ち帰るので、あまりない。(国指定天然記念物は「風媒礫産地」であるので、土地の形を変えたり、建物を建てたりするのは禁止であるが、「風媒礫」は国指定天然記念物ではないので、旅の記念に持ち帰られるのだという。)
(2)万葉歌碑
(3)白羽神社
【御祭神】 白羽神社は、駒形神社の分社だといい、現在の御祭神は、元宮・駒形神社の御祭神同様、海神である。
社号から、本来の祭神は、織物の神・天白羽神であり、『延喜式』「神名帳」に載っている式内・服織田神社だともいう。
【『延喜式』「白羽官牧」】 ここは、『延喜式』に載る「白羽官牧」の地だという。元宮・駒形神社は、その社号から、本来は農耕馬の霊を祀った神社だとも言われていますが、「駒形(こまがた)」は、「木俣(このまた)」の転訛であり、「駒形神社」の本来のご祭神は「木俣大神」だとも。
「名馬は浜辺で育つ」と信じられていたという。草原を走るより、砂浜を走った方が足が鍛えられるのであろうか?(ただ、砂浜には食べ物が少ないかと。)
【駒形岩】 昔、厩崎(現在の御前崎)の沖で遭難した90頭の馬の内、1頭だけが岸にたどりついたという。残りの馬は「駒形岩」(現在の「御前岩」)と化したという。この「駒形岩」の「駒形」が社号になったという。
http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4408002
「白羽海岸」は「砂浜」であるが、すぐ東の「御前崎」(上の写真)は「磯」である。
引き潮の時は、あちこちに岩が見え、89頭(賀茂真淵『岡部日記』の地元住民の話では75頭)の馬の群れに見えるという。
駒形神社には「千羽の鶴」の絵がある。馬ではなく、鶴である。白羽=ヤマトタケルの白鳥と考えて描いたのか?
4.「志留波の磯」「尓閇の浦」考
「志留波の磯」と「尓閇の浦」は、『万葉集』の防人歌(4324番歌)に出てくる地名です。さて、それぞれ、現在のどこなのでしょうか?
【歌番号】巻20-4324番歌
【題詞】(天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
【原文】等倍多保美 志留波乃伊宗等 尓閇乃宇良等 安比弖之阿良<婆> 己等母加由波牟
【訓読】遠江志留波の礒と尓閇の浦と合ひてしあらば言も通はむ
【仮名】とへたほみ しるはのいそと にへのうらと あひてしあらば こともかゆはむ
【左注】右一首同郡丈部川相 (二月六日防人部領使遠江國史生坂本朝臣人上進歌數十八首 但有拙劣歌十一首不取載之)
【校異】波→婆
天平勝宝7歳(755年)2月に、相替りて筑紫に遣(つか)はさえし諸國(くにぐに)の防人等(さきもりたち)の歌
遠江(とへたほみ)の志留波(しるは)の磯と尓閇(にへ)の浦と合ひてしあらば言も通はむ
右一首、遠江国山名郡(袋井市周辺。袋井中学校に万葉歌碑)、丈部川相(はせつかべのかは(あ)ひ)
2月6日、防人部領使(さきもりのことりつかひ)遠江國史生(ししょう)坂本朝臣人上、進歌數十八首。但有拙劣歌十一首不取載之。
(防人部領使(防人を難波津まで送り届ける役人)である遠江国の史生(国司の下級書記)の坂本朝臣人上(さかもとのあそみひとかみ)が進(たてまつ)る18首の内、下手な(つたなき)歌11首を除いた7首の内の1首。)
(1)遠江国の「志留波」の磯
「志留波(しるは)」は、現在の「白羽(しろわ)」だとして、
説①:西遠の「白羽(しろわ)」(浜松市南区白羽町)
説②:中遠の「白羽(しろわ)」(磐田市白羽)
説③:東遠の「白羽(しろわ)」(御前崎市白羽)
説④:地名ではなく、遠州灘一帯(内山真龍『遠江風土記伝』)
の4説があります。
疑問①:「しるは」と「しろわ」は似ていない。
疑問②:「白羽」は南遠大砂丘にあり、「磯」ではなく、「砂浜」です。
回答①:この防人・丈部川相は、自分の国の名すらまともに言えない人(「とほたふみ」を「とへたほみ」としている)であることを考慮する必要がある。
遠州弁では、しばしばオ段がウ段になる。たとえば、「通ふ」は、標準語では「かよ(yo)ふ」であり、「かゆ(yu)ふ」は遠州弁である。「しろわ」の「ro」が、「ru」になって「しるわ」になり、丈部川相は「しるは」と詠んだという。
回答②:御前崎は磯であるので、「志留波の磯」は御前崎のことであろう。(そもそも、遠江国の海岸は、御前崎以外は、全て南遠大砂丘で砂浜!)
江戸時代の大ベストセラー『東海道名所図会』でも、「志留波の磯」を御前崎だとしている。
※『東海道名所図会』「志る波礒」
【画中】志留波礒
土人、「しろは」といふ。
万葉 山名郡丈部
等倍多保美
志留波乃伊宗等
爾閇乃宇良等
安比弖之阿良婆
己等母加由波牟
尓への浦は、筑紫・肥後国にあり。しかとにへと相対(あひたへ)せしは古代の風韻(ふうゐん)ならん。
【本文】 榛原郡横洲賀と相良の間にあり。白羽(しろは)村の御前崎に駒形明神の祠あり。社説云、祭神彦火々出見尊、豊玉姫、玉依姫の3座也。安閑帝元年11月15日鎮座し玉ふ。社頭に燈明台あり。渡海舩の極(めあて)とす。沖に大岩あまたあり。これを御前岩(おまえのいわ)といふ。此地、遠江東南の隅にて、大井川に近し。
真渕云、「志るはの礒も、其また東南にて、横須賀といへる所にちかし。荒海の中に巖のはるばると礒よりならび出て、汐干れば、馬の背のごとくつづきて数々見ゆ。里人は75匹の駒形といいならはし、其所の神を駒形明神と申す。彼遠江の灘とて、舩人の手向けしかしこしとするは、此巖にあたる浪のあらきによりて也」。
沖つ舩手向すらしも岩波の志る者の礒にかゝる白ゆふ 真渕
(注)後半は賀茂真淵『岡部日記』からの引用。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559316/83
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1111439/100
(2)尓閇(にへ)の浦
「尓閇(にへ)の浦」については、次の4説があります。
説①:遠江国の浦:静岡県浜松市北区三ヶ日町鵺代
説②:遠江国~赴任地(北九州)間の浦:三重県南伊勢町の贄湾
説③:赴任地(北九州)の浦:『東海道名所図会』
説④:地名ではない。:辰巳正明(國學院大學名誉教授)
両者の位置関係によって、「遠江の志留波の磯と尓閇の浦と合ひてしあらば言も通はむ」の歌意も数種類あります。
説①A(「志留波の磯」と「尓閇の浦」は近い):遠江国の「志留波の磯」と遠江国の「尓閇の浦」のように近くであれば、すぐに連絡を取り合えるのに、あなたがいる故郷(遠江国)と、私の赴任先(北九州)は遠く離れているので、思うように連絡が取れない。
・「遠江の白羽の磯と贄の浦とのように、ここと故郷とが向かいあっているのなら、言葉も通じあうだろうに。遠くへだたっていては思いがつのるぱかりだ。」(袋井中学校万葉歌碑案内板)
説①B(「志留波の磯」と「尓閇の浦」は遠い):遠江国の地元(袋井市)の「志留波の磯」と遠江国の国府(磐田市)の「尓閇の浦」は遠く離れているので、思うように連絡が取れない。
・「ふるさとの白羽の磯と今船出する贄の浦と一続きであったなら、せめて言葉なりと交わすことができるのに、こんなに遠く離れては、どうすることもできない。」(磐田市立中央図書館『磐田万葉歌碑めぐり』)
https://www.lib-iwata-shizuoka.jp/wp-content/uploads/2016/08/manyou.pdf
説②:あなたがいる故郷(遠江国)の「志留波の磯」と、私が今いる場所(赴任先へ行く途中)の「尓閇の浦」(英虞湾の浦?)とは遠く離れているので、思うように連絡が取れない。
説③:あなたがいる故郷・遠江国の「志留波の磯」と、私がこれから行く場所(赴任先)の北九州の「尓閇の浦」とは遠く離れているので、思うように連絡が取れない。
・「遠江の白羽の磯と筑前のにへの浦とが近くにあるならば語らいもできるであろうに」(浜松市の万葉歌碑の碑文)
説③の可能性は低いと思います。というのも、遠江国の防人は、遠江国府(静岡県磐田市)に集合して、船で難波津へ行き、そこから他国の防人と一緒に船で北九州へ行きます。防人部領使・坂本朝臣人上は、遠江国の防人たちに遠江国府で、歌を詠むように伝えておいて、難波津で回収した(坂本朝臣人上が聞いてメモした)歌なので、出てくる地名は、遠江国の地名である可能性が非常に高く、次に遠江国と難波津の間の地名である可能性が高いと思われます。
(3)「志留波」と「尓閇」(夏目説と城田説)
夏目隆文氏は、歌意からして、「志留波の磯」と「尓閇の浦」は、共に遠江国にあり、とても近く、向かい合っている場所だと考え、共に猪鼻湖の地名だとし、「志留波の磯」を津々崎、「尓閇の浦」を「贄代(にへしろ。現在の鵺代(ぬえしろ))の浦」とした。上の写真は、津々崎から見た「鵺代の浦」。
津々崎は、上の写真のように砂利がゴロゴロ。「砂浜」ではないが、「磯」という感じでもない。ただ津々崎は、大地震で地盤が沈んでこうなったのであり、万葉時代にはもっと沖まで伸びでいた(磯だった)という。
※『濱名惣社神明宮 璽田稲荷神社 神社誌』
遠江 白羽の磯と贄の浦とあひてしあらば言も通はむ 万葉集 巻14
右の歌は、万葉集の巻14にのっている防人の歌で、天平勝宝7歳(755年)、今から1200年前に、静岡県袋井市出身の防人が、遠江防人集団の1人として、北九州(福岡県)の海岸防備のために出征した。いよいよ郷土遠江国を離れる時となり、英多郷(三ヶ日)に泊まった夜にふる里を思って作った歌と伝えられる。
「英多郷(三ヶ日)の白羽(しらはね)の麓の岸と、向こうの鵺代の海岸のように、袋井の家族と自分が近ければ、気持ちを伝えることができるのに、遠く離れた今は、安否を祈るばかりだ」。
城田涼子さんは、「尓閇の浦」を「贄代(鵺代)の浦」とした上で、「志留波の磯」は「知波の磯」であり、それは正太寺鼻であると看破された。
※城田涼子「浜名湖万葉紀行」
https://note.com/ryouko/n/n983cbf726c1a
遠江国の海岸は、御前崎以外は、全て南遠大砂丘で砂浜である。「磯」を探すなら、内陸=浜名湖沿岸を探すしか無い。浜名湖を1周してみたが、その感触は、「尓閇の浦」は「猪鼻湖」で、「志留波の磯」は、「磯」と呼べるは、「猪鼻瀬戸」「正太寺鼻」「舘山」くらい。
気になるのは、読み手が浜名湖がある浜名郡の人ではなく、山名郡(袋井市周辺)の人だということです。袋井市川井在住の丈部川相は、大之浦の海岸にあった遠江国府(磐田市)に呼ばれ、そこからは船で移動したので、浜名湖は通らない(「英多郷(三ヶ日)に泊まった夜にふる里を思って作った歌」とは考えられない)のです。
袋井市といえば、馬伏塚城(袋井市浅名)は、潟湖に突き出した半島上に築かれました。現在、磐田市の大之浦も、袋井市の潟湖も、干拓されて消失しています。とすると、「尓閇の浦」や「志留波の磯」は、この消失した山名郡(袋井市)の浦にあったのかなとも思います。