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司馬遼太郎『覇王の家』を読む ④

徳阿弥は、松平郷に土着した。土着するとともにキコリどもを手なずけ、やがて
「汝(わい)らは、こんな山中でひえやあわを食うて一生不自由していたいか」
 と、けしかけた、とおもわれる。山をくだって里へ出れば米がある。それには途中の山砦(さんさい)や小城を攻めつぶしてゆくという命がけの作業をかさねてゆかねばならないが、松平氏とその族党は、それをやった。二代目の泰親のときに中山七名(なかやましちみょう)という小さな段々畠の土地をうばい、やっと米作地帯にたどりついた。これまた中原(ちゅうげん)の農耕地帯にあこがれて長城に対しピストン運動をくわえてきた北アジアの遊牧民に似ている。
                     ──司馬遼太郎『覇王の家』

※「山砦(さんさい)」は当て字で、「山塞」。戦国時代は「山城」ですが、この時代はまだ「砦」程度の規模だったってことでしょう。
 また、中山七名を奪い取ったのは、「二代目の泰親のとき」ではなく、初代・松平親氏の時とされています。なぜ司馬遼太郎ほどの人が間違えたのでしょうね。新潮社の校閲の方もなぜ見逃したのでしょう?

 徳阿弥(世良田/得川親氏)は、郷主・在原松平信重の娘・水女と結婚し、2男1女を儲け、松平郷に土着したという。
 在原松平信重の子は、娘が2人だけで、嫡男がいなかったので、松平親氏が在原松平家を継ぐことになった。
 大久保忠教(彦左衛門)『三河物語』に、大久保忠教の持論として、
「御慈悲を以て一つ、御武辺を以て一つ、良き御譜代を以て一つ、御情を以て一つ、是に依て御代も末ほど御繁盛、目出度なり」
とある。そして、徳川氏のすごいところは、この御武辺、御情け、御慈悲の3つを歴代松平氏が持ち続いていることとし、松平親氏については、
①【武辺】武芸の達人=家督を継いですぐに中山十七名を平定した。
②【慈悲】慈悲深い人=乞食、非人、前科者に至る迄、哀れんだ。
③【情け】領内を視察して回り、領民への声かけや、道路工事をした。
としている。

 学校の先生は、教育技術に優れている(教え方がうまい)ことが1番であるが、それだけであれば、塾の先生と変わらない。次に求められるのは、学級経営能力である。学級王国にはスクール・カーストが存在し、担任が王と共に最下層の者を見下すと、その学級は崩壊する。担任が最も弱い児童・生徒に情けや慈悲を施せば、その学級はまとまる。
 松平親氏で言えば、武士であるから強いことが1番であるが、強いだけであれば、武者修行中の浪人の方が強いかもしれない。松平親氏は領主であるから国をまとめる統治能力も求められる。領民に慕われる必要があり、その方法としては最下層の領民への情け、慈悲が有効である。『三河物語』によれば、松平親氏のすごい点は、「領地経営はどうあるべきか?」と考えて最下層の領民に接していたのではなく、どの層の領民にも等しく接し、本人は己の慈悲深さを自覚していないのに、領民が「慈悲深いお方だ」と慕っている点にあるという。

■大久保忠教(彦左衛門)『三河物語』
 さて又、後には太郎左衛門尉親氏、御法名は、即ち徳阿弥。如何にいはん哉、弓矢を取りて云ふに計(はか)り無し。早、中山七名を切り取らせ給ふ。殊更、御慈悲におひては並ぶ人無し。民(たみ)百姓、乞食、非人どもに至る迄、哀れみを加えさせ給ひて、或る時は、鎌、鍬、銲(こて)、鉞(まさかり)などを持たせ給ひて出(いで)させ給ひ、山中の事なれば、道細くして、石高し。木の枝の道へ指し出、荷物にかかるをば切り捨て、木の根の出たるをば掘り捨て、狭き道をば広げ、出たる石をば掘り捨て、橋を架け、道を作り、人馬の安穏にと昼夜御油断無く御慈悲を遊ばし給ふ。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/21

在原松平信重─水女
        ‖
世良田長親┬松平①親氏────────────┬松平信広【松平郷松平】
     └松平②泰親┬教然(妙心寺)   └松平③信光【岩津松平】
               ├益親(京都へ)
               ├家久
               ├家弘
               └久親

 松平郷は山に囲まれている。松平親氏が考えていたのは、松平郷の南にある岡崎平野への進出であり、松平泰親は、さらに中央政府とのリンクが必要だと考えた。
 さて、松平郷から岡崎平野への進出には、3つのルートがある。それは、
①松平郷から南下
②松平郷から東へ進んで南下
③松平郷から西へ進んで南下
である。
 松平親氏はまずは松平郷から南下を試み、林添村に進出し、手に入れるが、それ以上の南下は大給城の城主・長坂氏に阻まれた。
 そこで、松平郷から東へ進んで大平郷(岡崎市大平町)への南下を試み、中山七名(中山七郷)=松平郷の南東、額田郡中山庄の7つの村。秦梨、田口、岩戸、麻生、大林、名之内、柳田の7ヶ村(7郷)へ進出して、手にするも、松平親氏は突然、病死した。松平親氏の子はまだ幼かったので、弟・松平泰親が家督を継いだ。
 松平泰親は、松平郷から西へ進んで南下を試みた。まずは岩津城を落とし、次に北上して松平郷と岩津城の間の大給城と保久城を攻め落とした。こうして松平氏の眼前に、広大な岡崎平野が広がった。

 松平泰親は、さらなる発展には、中央政府とのリンクが必要だと考えた。それには裕福な財力を利用しようと、子・益親を京都へ送り、高利貸しをさせ、松平信光を室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官にさせた。(『三河物語』や『徳川実紀』では、洞院中納言実熙(1409-1459)は、正長2年(1429年)、密通が発覚し、勅勘を蒙って解官され、父・満季からも義絶されて、三河国に追い出されて困窮に陥っていた。翌・永享2年(1430年)、赦免されて権中納言に還任する時、松平氏は経済的支援と交換に中央政府へのとりなしを持ちかけ、松平泰親自身は三河国目代、松平信光は伊勢氏被官になったとする。)

■『徳川実紀』
 洞院中納言実熈といへる公卿、三河国に下り、年月閑居ありしに、(世には実熈三河に左遷ありしよし伝ふるといへども、応仁より後は争乱の巷となり、公卿の所領はみな武家に押領せられ、縉紳の徒、都に住わびて、ゆかりもとめ、遠国に身をよせたる者少からず。この卿も、三河国には庄園のありしゆへ、こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし。)泰親この卿の冗淪をあわれみ、懇に扶助せられ、すでに帰洛の時も国人あまたしたがへ都まで送られしかば、卿もあつくその恩に感じ、帰京の後、公武に請ひて、泰親を三河一国の目代に任ぜられしかば、是より三河守と称せらる。
■『浪合記』
 永享11年、洞院大納言実熈、三河国に流され、大河内に在す。
 嘉吉3年、皈落有りて、内大臣に任す。皈落の時、松平太郎左衛門尉泰親、当家の者して、金銀を借し奉りて供奉す。
 泰親女は、実熈の妾なり。此妾に男子一人有り。富永五郎実興と称す。三河国富永の御所と云ふは、実興殿の事なり。三州山本の祖也。又、尾崎、山崎等も此の子孫也。

1.林添村への進出


 林添(はやしぞれ)村には、豪族・薮田源吾忠元がいた。
 松平親氏は、薮田氏を欺くため、鷹狩を装って人を集めて松平館を出発し、林添村に侵入した松平親氏は、不意に薮田源吾を襲い、討ち取った。

・林添館:薮田源吾の居館。林添町井ノ向の竹藪。
・晴暗寺:愛知県豊田市林添町寺脇。薮田源吾の供養塔。
・伝親氏公石橋

 林添村を手中にした親氏は松平郷同様に道普請や橋梁の架設を行い、住民の慰撫に努めたはずである。
 その親氏がせっせと住民のために汗を流したという名残りが林添に存在する。先の晴暗寺の西側に細い川が流れており、この川を100mほど下ったところに石橋が架かっているが、この橋が親氏の架けたものと伝えられているのである。石橋の前に立てられた松平親氏公顕彰会による説明板には「伝親氏石橋」とある。

◆参考:豊田市『松平地域と全22自治区紹介』「林添町」
https://www.city.toyota.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/385/h27/11.pdf

2.中山七名への進出


 松平親氏は、松平郷を宵に発し、夜間に保久、富尾と進軍し、甚五坂を下って、応永22年(1415年)11月17日の夜明けに麻生城に達し、寝込みを襲った。火袋を十数個投げ入れて、麻生内蔵助を討った。
 麻生城が落ちたことを知った大林城の二重栗内記は、鶏頭坂に大木を横たえて松平軍の進行を防いだ。それで松平親氏は、阿弥陀寺(旧・金谷寺(西福寺)。応永元年(1394年)に寺号を改め、現在地に遷座)に本陣を置き、夜を待って襲った。二重栗内記は、夜襲を予想していたが、松平親氏が放った矢を受けると、観念して慈雲寺(現・大空寺。愛知県岡崎市鍛埜町下切)に入って切腹した。
 麻生城と大林城が落ちたことを知った5ヶ村の豪族は降参したので、買い取ったという。

中山七名:岡崎平野の後背地、額田郡中山庄の7つの村をいう。(額田郡の岡崎市と合併により史跡所在地の住所が大きく変わった。)
麻生村:応永22年(1415年)11月17日に麻生城の麻生内蔵助を討つ。
 ・麻生城:愛知県岡崎市桜形町
大林村:応永22年(1415年)11月18日に大林城の二重栗内記を討つ。
 ・大林城:愛知県岡崎市鍛埜町神谷倉(上櫓?)~隠れ谷(カクレヤ)
 ・阿弥陀寺:愛知県岡崎市桜形町前田。二重栗内記の墓。
・他の5ヶ村:秦梨村(栗生氏)、田口村(中根氏)、岩戸村(天野氏)、名之内村、柳田村(山内氏)の村主は降参。

3.岩津城の攻略


 応永元年(1394年)4月20日、松平親氏が突然、病死すると、彼の子である松平信広&松平信光兄弟は、まだ幼かったので、松平親氏の弟・松平泰親が家督を継いだ。
 そして、松平信広&松平信光兄弟の成長を待ち、応永28年(1421年)8月15日の満月の夜、松平泰親は、松平信広&松平信光兄弟と共に、岩津郷主・中根大膳(岩津大膳)の居城・岩津城(愛知県岡崎市岩津町東山)を攻めた。松平郷から岩津城へ行くには、西へ進んで足助街道へ出ればよいが、足助街道との合流点には、大給城主・長坂新左衛門がいるので避け、滝脇、日影、丹沢、恵田と夜道を進んで夜襲した。夜襲は松平氏が得意とするところで、中根大膳の警戒していたが、「夜襲をするなら満月の夜ではなく、月のない新月の夜」が常識であったので、油断して月見の酒宴を開いていたので討たれたというが、最近では「買い取った」(中根大膳は家臣となって岩津大善城に住んだ)とする説が有力である。
 この「岩津城攻め」で松平信広は足を負傷し、歩行困難になった(一説に生まれつき足が不自由であった)ので、松平郷に留まり、松平信光が岩津城主(「岩津松平家」の祖)になり、松平泰親は隠居した。
 松平信光は、岩津城の周囲に城を築いた。これを「岩津七城」という。

◆岩津七城

・岩津新城(愛知県岡崎市岩津町新城)
・岩津成瀬城(愛知県岡崎市岩津町壇ノ上)
・岩津妙心寺城(愛知県岡崎市岩津町壇ノ上)
・岩津大善城(愛知県岡崎市岩津町壇ノ上)
・岩津大善西城(愛知県岡崎市岩津町壇ノ上)
・岩津壇ノ上城(愛知県岡崎市岩津町壇ノ上)
・岩津木平城(愛知県岡崎市岩津町生平)
・岩津井ノ城(愛知県岡崎市岩津町西坂)

※妙心寺:現・円福寺(愛知県岡崎市岩津町壇ノ上)。寛正2年(1461年)、松平信光(58歳)が子・規則(長沢松平氏)の菩提を弔うため、松平泰親の子(長男?)・教然良頓を開山として建立した浄土宗の寺である。(明治16年(1863年)、京都新京極の円福寺(蛸薬師)と寺号を交換。)

◆岩津城
https://note.com/sz2020/n/n3326b234c869

4.円川(つぶらがわ)合戦


 享徳10年(1461年)、岩津城主・松平信光は、大給城へ攻め込もうとした。大給城主・長坂新左衛門は、親戚の保久(ほっきゅう)城主・山下庄左衛門重久と、近くの岩倉城主・岩倉源兵衛に助力を求め、長坂&山下&岩倉連合軍は、円川(巴川と郡界川の合流点付近。現在の豊田市中垣内町)の源兵衛山(郡界川右岸)に陣し、松平軍はウゲト山(郡界川左岸)に陣した。
 松平軍が勝利し、長坂新左衛門、山下重久の両将は討ち死にし、岩倉勢は離散した。この戦いを「円川合戦」といい、「円川碑」が建てられている。
 松平信光は、直ちに大給城を占拠し、翌日の早朝には保久城を焼き払って岩津城に戻った。(山下重久の子・重勝&重仲は「簗瀬」に改姓し、保久に住み続けたという。)

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 大給は、巴川の港「九久平山湊」があり、足助街道と新城街道の交差点でもある。岩津城、大給城の確保により、この後、松平氏は、岡崎平野に積極的に進出していくことになる。

大給城(愛知県豊田市大内町)
長坂新左衛門屋敷(愛知県豊田市大内町長坂):単に長坂屋敷とも。
保久城(愛知県岡崎市保久町市場)
山下庄左衛門重久:墓は大給にある。
万福寺(愛知県岡崎市保久町字寺ノ入):点在していた山下氏関係の宝篋印塔や五輪塔が集められている。
岩倉城(豊田市岩倉町城ノ浦):戸田宗光の次男・戸田玄蕃の子孫が築いた城といわれてきたが、それ以前に岩倉氏の居城であった。岩倉城は、山麓の岩倉屋敷といった城屋敷で、戸田氏が尾根上に城を築いたと考えられる。
岩倉源兵衛
円川碑(愛知県豊田市中垣内町辨天)
源兵衛山
ウゲト山

5.中央政府とのリンク


 松平初代親氏は伝説上の人物、二代目泰親は伝承上の人物とされ、中央の記録に登場するのは、蜷川親元『親元日記』の寛正6年(1465年)5月の条の「松平和泉入道」(松平信光)以降であり、三代目信光以降が歴史上の人物となる。

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 この寛正6年(1465年)5月、井ノ口砦(愛知県岡崎市井ノ口町楼の井ノ口稲荷神社)で「額田郡一揆」が起きた。この一揆を鎮圧したのが、室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官の2人、すなわち、岩津城主「松平和泉入道」(松平信光)と大平郷の代官でもあった「十田弾正左衛門」(戸田弾正忠宗光。1439?-1508。徳川家康の祖父・戸田宗光の曽祖父)であり、一揆鎮圧の恩賞として、一揆軍の領地など、三河国内各所に所領を与えられたのを契機に、松平氏による三河国支配が一気に加速した。

6.史料

■江戸幕府公式文書『徳川実紀』「東照宮御実紀」
 有親の子を三郎親氏といふ。新田の庄にひそみすまれたりしが。京鎌倉より新田の党類を捜索ひまなかりしかば、この危難をさけんがため故郷をさすらへ出られ、(『大成記』に、上杉禅秀が方人せられしゆへ捜索しきりなれば、父子孫三人東西に立ちわかれ、世をさけ時宗の僧となられしよし有りといへども、『鎌倉大双紙』『底倉記』『喜連川譜』等によるに、小山犬若丸に方人して奥州に下り、新田義陸を大将と守立んとせられしに、その事ならずして新田、小山、田村党皆々散々に行方しらずとあり。今、藤澤寺に存する御願文を合せ考ふるに、小山が一乱より捜索厳なる事となりしは疑なし。『波合記』に、親季は尹良親王の御供にて討死の例見ゆ。また親季の御遺骨を、有親、首にかけ三河に来りたまひ。称名寺御寄寓の間、これを寺内に葬られしとて、其墳、今も称名寺に存す。)時宗の僧となり、山林抖藪のさまをまねび、父子こゝにかしこにかくれしのび給ひけるが、宗門のちなみによて三河國大濱の称名寺に寄寓せられ、こゝにうき年月を送られし間に、有親はうせ給ひしかば、その寺に葬り、後に松樹院殿とをくりぬ。
 又、此國酒井村といへるに、五郎左衛門といひて、頗る豪富のものあり。この者、親氏の容貌骨柄只人ならざるを見しり、請むかへて、をのが女にあはせ、男子を設く。徳太郎忠廣(又、小五郎親清とも伝ふ。これ今の世の酒井が家の祖なりといふ)といふ。さて、五郎左衛門の女は、この男子をうみし後、ほどなくうせしに、其頃、同國松平村に太郎左衛門信重とて、これも近國にかくれなき富豪なり。たゞ一人の女子ありしが、いかなる故にか婚嫁をもとむる者あまたありしをゆるさで年をへしに、今、親氏、やもめ居し給ふを見て、其女にあわせて家をゆづらんとこふこと頻なり。
 親氏、もとより大志おはしければ、かの酒井村にて設け給ひし忠廣に酒井の家をゆずり、其身は信重が懇願にまかせ松平村に移り、其女を妻とし、その譲をうけて松平太郎左衛門となのられけるが、松平、酒井両家ともに、きはめて家富財ゆたかなりしほどに、貧をめぐみ、窮を賑はすをもてつとめとせられ、近郷の旧家、古族はいふに及ばず、少しも豪俊の聞えある者は、子とし、聟とし、ちなみをむすばれしほどに、近郷のものども、君父のごとくしたしみ、なつかざるはなし。
 親氏、ある時、親族知音を會し宴を催しもてなされて後、「吾つら/\世の有様をみるに、元弘建武に皇統南北に別れてより、天下、一日もしづかならず。まして応仁以来、長禄、寛正の今にいたりて、足利将軍家政柄を失はれし後海内一統に瓦解し、臣は主を殺し、子は父を追ひ、人倫の道絶へ、万民塗炭のくるしみをうくる事、今日より甚しきはなし。吾また清和源氏の嫡流新田の正統なり。何ぞよく久しく草間に埋伏し、空しく光陰を送らんや。今より志をあはせ、約を固めて近國を伐なびけ、民の艱難を救ひ、武名を後世にのこさむとおもふはいかに」とありしかば、衆人もとより父母のごとくおもひしたしむ事なれば、いかでいなむものゝあるべき。いづれも「一命をなげうち、身に叶へる勤労をいたすべし」とうけがひしかば、兼て慈恵を蒙りたる近郷のもの共、招かざるに集まり来しほどに、まづ近郷に威をたくましうする者の方へ押寄せて、降参する者をば味方となし、命にさからふものは伐したがへられしかば、ほどなく岩津、竹谷、形原、大給、御油、深溝、能見、岡崎あたりまでも、大略は、その威望に服しける。(当家発祥その源はこの時よりと知られける。)卒去有りて松平郷高月院に葬り、芳樹院殿と諡せり。
 親氏の子を泰親とす。(一説御弟なりといふ。)その跡をつぎて是も太郎左衛門と称せらる。父・親氏の志をつぎ、弱をすくひ、強を伐て、貧を恵み、飢をすくはれしほどに、衆人のしたがひなびく事、有しにかはらず。
 その頃、洞院中納言実熈といへる公卿、三河国に下り、年月閑居ありしに、(世には実熈三河に左遷ありしよし伝ふるといへども、応仁より後は争乱の巷となり、公卿の所領はみな武家に押領せられ、縉紳の徒、都に住わびて、ゆかりもとめ、遠国に身をよせたる者少からず。この卿も、三河国には庄園のありしゆへ、こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし。)泰親この卿の冗淪をあわれみ、懇に扶助せられ、すでに帰洛の時も国人あまたしたがへ都まで送られしかば、卿もあつくその恩に感じ、帰京の後、公武に請ひて、泰親を三河一国の目代に任ぜられしかば、是より三河守と称せらる。
 この時、岩津、岡崎に両城を築き、岩津にみづから住し。岡崎にはその子信光を居住せしめらる。泰親の子六人。長子信廣に松平郷をゆづり。松平太郎左衛門と称す。(今三河の郷士松平太郎左衛門が祖なり)二男は和泉守信光。殊更豪勇たるをもて嗣子と定めらる。三男は遠江守益親。四男は出雲守家久。五男は筑前守家弘。六男は備中守久親とす。泰親卒去ありてこれも高月院に葬り。良祥院殿とおくらる。信光家継て岩津岡崎の両城主たり。

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