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卜部氏、中臣氏、藤原氏の系図など。

 藤原氏の氏祖が藤原鎌足であり、その正体は中臣鎌足であり、藤原鎌足と名乗ったのは晩年の1日のみであることは、義務教育を終えた方なら御存知であろうが、その中臣氏が、「中臣」姓を拝領する前は卜占を行う「卜部(「占部」「浦部」「浦邊」とも表記)」姓であったことはあまり知られていない。

 対馬卜部氏が、物部氏の東進に随行して大和国入りし、神と人の仲立ちを意味する「中臣」姓を賜り、神祇を担当したと考えられる。そして、垂仁天皇期には國摩大鹿嶋命の後裔の中臣氏が「垂仁天皇五大夫」(5人の重臣)の1人に選ばれている。

阿倍臣遠祖武渟川別。和珥臣遠祖彦国葺。中臣連遠祖大鹿嶋。物部連遠祖十千根。大伴連遠祖武日。五大夫曰。我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。惟叡作聖。欽明聡達。深執謙損。志懐沖退。綢繆機衡。礼祭神祇。剋己勤躬。日慎一日。是以人民富足。天下太平也。今当朕世。祭祀神祇。豈得有怠乎。

日本書紀』巻六「垂仁天皇二十五年春二月丁巳朔甲子(2月8日)」条

 卜部氏は、対馬国だけではなく、鹿島神宮にもいた。藤原不比等は、藤原氏(中臣氏一門=藤原鎌足の子孫の中臣氏)と中臣氏(中臣氏二&三門=藤原鎌足の子孫以外の中臣氏)を区別するために、藤原氏の氏神を鹿島神(一説に天児屋根命の父)&香取神(一説に鹿島神の剣)、中臣氏の氏神を天児屋根命としたように思われる。

卜部とは亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を職業とした品部。系統が異なる氏族が日本各地に存在するが、このうち伊豆・壱岐・対馬の卜部氏は神祇官の官人に任ぜられ、神祇官の次官(大副・少副)には伊豆卜部氏が、下級職員である卜部には伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の、それぞれ卜術に優秀な者が任じられた[注釈 『延喜神祇式』臨時祭条]。この三カ国以外の卜部氏は日本古来の卜占である太占に関係した氏族の後裔であるという。

対馬卜部氏
対馬県主家の対馬県氏(対馬県直)の一族。対馬県直は、史料によって祖神は変わり、候補としては建比良鳥命、天児屋根命、雷大臣命、建弥己己命(天穂日命の曾孫・高皇産霊尊の5世孫)、押瞻命がいる。

鹿島神宮の卜部(常陸国)
上古より鹿島神宮に仕え、太占に携わった家系とされ、鹿島神宮の周辺には卜部氏が居住していたという[注釈 『常陸国風土記』香島郡条]。天平18年(746年)常陸国鹿嶋郡の卜部5戸が中臣鹿島連姓を賜姓された[注釈 『続日本紀』天平18年3月24日条]。

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1.対馬卜部氏

天児屋根命(神号:春日大明神)─ ■─ ■─天押雲命─天種子命(天多祢伎祢命)─宇佐津臣命─大御食津臣命【卜部氏?】─伊香津臣命【烏賊津氏。雷大臣命の別名で卜部氏の氏神とも】─■─ ■─■─ ■─■─梨迹臣命─神聞勝命─久志宇賀主命─國摩大鹿嶋命(鹿島神宮大行事)─臣狭山命─雷大臣命【卜部氏?】

 卜部氏の祖神は、対馬国の神社に祀られている雷大臣命だというが、系図には2回登場するので、どちらの雷大臣命が祖神か不明であるが、仲哀天皇の皇后・神功皇后の三韓征伐の時の伊香津臣命だと考えるのが妥当なようである。というのも、『尊卑分脈』の「始而賜卜部 跨耳命」(初めて卜部を賜る 跨耳命)に、「一本此号如此是跨耳別■■ 雷大臣命 正説也」(一書に「跨耳命」とあるが、正しくは「雷大臣命」である)として、「雷大臣命、足中彦天皇之朝廷、習大兆之道、達亀卜之術、賜姓卜部令供奉其事」(雷大臣命は、足中彦天皇〔注:仲哀天皇〕の朝廷期、大兆の道を習い、亀卜の術に達し、卜部の姓を賜り、その事で供奉せしむ)とあるからである。

───「卜部」と名乗ったのはいつか?

 上掲の系図には、臣狭山命の子・跨耳命(雷大臣命)が初めて「卜部」と名乗ったとある。この雷大臣命は、対馬の式内社に祀られている、これは、雷大臣命が神功皇后三韓征伐に亀卜で貢献し、その功績で「卜部」姓を賜り、卜部氏の氏祖になったからであろう。

★対馬国の式内社

能理刀神社(長崎県対馬市上対馬町大字西泊字横道)
・御祭神:宇麻志麻治命(物部氏)、天兒屋根命(中臣氏)、雷大臣命(卜部氏)。神功皇后三韓征伐の時の行宮の跡で、亀卜の神を祀ったという。(社号「能理刀」は、祝詞?)
◎行相神社
・論社:志多留能理刀神社(長崎県対馬市上県町伊奈字向原)。御祭神:雷大臣尊(卜部氏)。
◎胡禄御子神社
・論社:能理刀神社(長崎県対馬市上対馬町芦見字スダリ)。御祭神:天兒屋根命(中臣氏)、天太玉命(忌部氏)、雷大臣命(対馬卜部氏)、海祇神(綿津見三神)。雷大臣命が亀卜を行った場所だという。
◎雷命神社
・論社①:雷命神社(長崎県対馬市厳原町阿連字久奈)。御祭神:雷大臣命(卜部氏)。社家の橘家は、雷大臣命の末裔だという。
・論社②:雷神社(長崎県対馬市厳原町豆酘西井坂)。御祭神:雷大臣命(卜部氏)。新羅征討からの帰還後に雷大臣命が邸宅を構えた場所。雷大臣命は、ここで朝鮮からの入貢を掌り、祝官として祭祀の礼や亀卜の術を伝えたという。
◎太祝詞神社(長崎県対馬市美津島町加志字京ノ原)
・御祭神:太詔戸神(ト部氏の祖神。天児屋根の別名だという)。雷大臣命の墓がある。
◎敷嶋神社
・論社①:敷島神社[(長崎県対馬市美津島町加志字小河内)。御祭神:天佐手依比女神(伊邪那岐神&伊邪那美神の夫婦神が生んだ国土の神の一つ。対馬の別名)、雷大臣命(卜部氏)。
・論社②:志賀島神社(長崎県対馬市美津島町今里字鹿ノ島。浅茅湾に浮かぶ「鹿ノ島」にあり、この島に渡るには、加志、今里、尾崎いづれの浜からか船でなければ渡れない)。御祭神:磯良命、海祇神。配祀:天之狹手依比売命。
 神功皇后凱旋時、この島で休憩している時に、磯武良(安曇磯良。神功皇后の軍船を導いた海人。「敷(シキ)」は「シカ(志賀、鹿)」に通じる。

★安曇磯良


 三韓征伐が終わると、神功皇后は、安曇磯良(筑前国では志賀大明神。常陸国では鹿島大明神。大和国では春日大明神と称される)に暇を与えた。磯武良は、海底に入ったというが、実際は殺されて海に沈められたのであろう。その後、安曇磯良は怨霊となり、船が沖を通ると、出現し、船を海底へ沈めようになったという。

 春日大社の「若宮おん祭」の第三番「細男・相撲(せいのお・すもう)」 やは、安曇磯良の鎮魂の舞で、顔を隠しているのは顔に牡蠣や海藻が付着して醜くなった安曇磯良を表しているという。(「翁」も安曇磯良だという。)また、日本国歌「君が代」は安曇磯良の鎮魂歌だという。海底の歌・・・苔ではなく、貝に海藻ですね。

神功皇后攻新羅給事
 昔し仲哀天皇、聖文神武の徳を以て、高麗の三韓を攻させ給ひけるが、戦利無して帰らせ給ひたりしを、神功皇后、是智謀武備の足ぬ所也とて、唐朝へ師の束脩の為に、沙金三万両を被遣、履道翁が一巻の秘書を伝らる。是は黄石公が第五日の鶏鳴に、渭水の土橋の上にて張良に授し書なり。
 さて事已に定て後、軍評定の為に、皇后諸の天神地祇を請じ給ふに、日本一万の大小の神祇冥道、皆勅請に随て常陸の鹿島に来給ふ。雖然、海底に迹を垂給阿度部の磯良一人不応召。「是如何様故あらん」とて、諸の神達燎火を焼き、榊の枝に白和幣・青和幣取取懸て、風俗・催馬楽、梅枝・桜人・石河・葦垣・此殿・夏引・貫河・飛鳥井・真金吹・差櫛・浅水の橋、呂律を調べ、本末を返て数反哥はせ給たりしかば、磯良感に堪兼て、神遊の庭にぞ参たる。
 其貌を御覧ずるに、細螺・石花貝・藻に棲虫、手足五体に取付て、更に人の形にては無りけり。神達怪み御覧じて、「何故懸る貌には成けるぞ」と御尋有ければ、磯良答て曰く、「我滄海の鱗に交て、是を利せん為に、久く海底に住侍りぬる間、此貌に成て候也。浩る形にて無止事御神前に参らんずる辱しさに、今までは参り兼て候つるを、曳々融々たる律雅の御声に、恥をも忘れ身をも不顧して参りたり」とぞ答申ける。軈て是を御使にて、竜宮城に宝とする干珠・満珠を被借召。竜神即応神勅二の玉を奉る。
 神功皇后一巻の書を智謀とし、両顆の明珠を武備として新羅へ向はんとし給ふに、胎内に宿り給ふ八幡大菩薩、已に五月に成せ給ひしかば、母后の御腹大に成て、御鎧を召るゝに御膚あきたり。此為に高良明神の計として、鎧の脇立をばし出しける也。諏防・住吉大明神を則副将軍・裨将軍として、自余の大小の神祇、楼船三千余艘を漕双べ、高麗国へ寄給ふ。
 是を聞て高麗の夷共、兵船一万余艘に取乗て海上に出向ふ。戦半にして雌雄未決時、皇后先干珠を海中に抛給しかば、潮俄に退て海中陸地に成にけり。三韓兵共、「天、我に利を与へたり」と悦て、皆舟より下、徒立に成てぞ戦ひける。此時に、又、皇后、満珠を取て抛給しかば、潮十方より漲り来て、数万人の夷共一人も不残浪に溺て亡にけり。是を見て三韓の夷の王自罪を謝て降参し給ひしかば、神功皇后御弓の末弭にて、「高麗の王は我が日本の犬也」と、石壁に書付て帰らせ給ふ。

(神功皇后が三韓征伐に際し、 天神地祇を常陸の鹿島に招いて軍評定を行った時、 阿度部の磯良一人だけ来なかった。 磯良は「容姿が牡蠣や海藻で醜いために遅れたのだ」と言い、 竜宮城の秘宝・干珠&満珠を献上し、三韓征伐の水先案内となった、)

『太平記』「神功皇后攻新羅給事」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1018064/1/285

一、鹿島明神事
 有抄物ニ神應正等記ヲ引テ云。鹿島ノ明神ハ、元武甕槌ノ神也。人面、蛇身タリ。常州鹿嶋ノ浦ノ海底ニ居ス。一睡十日スル故ニ、頭面ニ石牡蠣ヲ生ズルコト磯ノ如シ。故ニ磯良ト名ク。神功皇后三韓ヲ征シ給フ時ニ、九尾六瞬ノ龜ニ乘テ九州ニ來ル。勅ニヨリテ梶取トナル。又、筑前ノ鹿ノ嶋ノ明神。和州春日ノ明神。此鹿嶋同、磯良ノ變化也云々。
 私云。三韓對治ノ後。常州ニ歸リ伏見ノ里ニ住ス。今ノ社頭是ナリ。御殿ハ北ニ向テ鬼神惡瑠王ヲ降伏セリ。本地ハ釋迦、藥師、地藏、觀音、·文殊ナリ。釋迦ハ鹿野園ノ小乘ノ教主ナル故ニ鹿ヲ愛給ス。彼地ニ鹿多シ。世人云。鹿目石(カノメイシ)ハ、金輪際ヨリ生(オヒ)出タル故ニ、大地震ニモ動コトナシ。齋宮在(マシマ)ス。卽チ神ノ妻ナリ。代々百十歲、二十歲ノ壽命ナリ。中天ナシ。或ハ神代ノ甲冑アリ。諸異略シテ載セズ。

袋中良定『琉球神道記』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1040100/1/45

大河ドラマに使えそうな曲

2.中臣氏系図


天児屋根命(神号:春日大明神)─ ■─ ■─天押雲命─天種子命(天多祢伎祢命。神武東征の侍臣)─宇佐津臣命─大御食津臣命─伊香津臣命【中臣氏?】─■─ ■─■─ ■─■─梨迹臣命─神聞勝命─久志宇賀主命─國摩大鹿嶋命(鹿島神宮大行事)─臣狭山命─雷大臣命─大小橋命─阿麻毘舎卿【中臣氏】─音穂─阿毘古大連─真人大連─賀麻大夫(中臣鎌子)─黒田大連─常磐大連【中臣氏】─加多能子大連(方子卿、可多能祜)
┳小徳冠御食子卿【中臣氏一門】─大職冠鎌足【藤原氏】
国子【中臣氏二門】
糠手子【中臣氏三門】

───「卜部」が「中臣」と名乗ったのはいつか?

『日本書紀』「仲哀天皇紀」に、「神功皇后の四大夫」(中臣漣、大三輪君、物部連、大伴連)の1人として「中臣烏賊津連」(伊香津臣命)とあるが、この頃はまだ中臣氏は存在しなかったと思われる。

 九年春二月癸卯朔丁未。天皇忽有痛身。而明日崩。(時年五十二。即知。不用神言而早崩。一云。天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。)
 於是皇后及大臣武内宿禰。匿天皇之喪。不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連大三輪大友主君。物部胆咋連。大伴武以連曰。今天下未知天皇之崩。若百姓知之、有懈怠者乎。則命四大夫。領百寮、令守宮中。窃収天皇之屍。付武内宿禰。以従海路遷穴門。而殯于豊浦宮。為无火殯斂。(无火殯斂。此謂褒那之阿餓利。)

『日本書紀』「仲哀天皇紀」200年2月5日条

『新撰氏族本系帳』によれば、中臣の始まりは、鹽屋牟漏連(しおやのむろのむらじ)の娘・都夫羅古娘(つぶらこのいらつめ)の子・中臣常盤(常磐大連公)で、彼は磯城島宮にいらした天国排開広庭天皇(弟29代天皇・欽明天皇。在位539-571)に仕え、特に名誉を受けたという。

黑田大連公生二男。
中臣姓始
中臣常磐大連公(氏上。一云、常歯大連。鹽屋牟漏連之女都夫羅古娘腹)
右大連始賜中臣錬姓。磯城島宮御宇天国押広庭天皇之代、特蒙令誉。佫勤供奉者。今案、苦節匪躬之忠、当時無出右者。

『新撰氏族本系帳』

★氏姓制度

氏姓制度
 氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。
 氏の中心的な家系はヤマト王権と何らかの政治的関係を有するのが原則であり、ヤマト王権との関係によってもたらされる政治的権力が氏内部の統制と外部への拡大に重要な意義を持った。このため日本古代のウヂは単なる自然発生的な血族集団としての氏族(Clan)とは異なり、ヤマト王権自体と密接に結びついて成立していた政治的集団または政治的組織であるとされている。
 氏名(ウジの名前)は地名によるもの(蘇我氏、葛城氏、吉備氏、上毛野氏など)と職掌によるもの(物部氏、大伴氏、中臣氏など)に大別され、臣(オミ)、連(ムラジ)、造(ミヤツコ)などのような姓(カバネ)を帯びた。こうした氏姓(ウヂとカバネ)を持つことはヤマト王権の政事(マツリゴト)に何らかの形で関与していることを示していた。

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中臣氏
中臣氏(なかとみうじ)は、「中臣」を氏の名とする氏族。
古代の日本において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする。姓(かばね)は連(むらじ)、八色の姓制定後の姓(かばね)は朝臣(あそみ・あそん)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 氏(うじ)の名は天皇から賜るもので、地名によるものと職掌によるものがある。同じ『ウィキペディア(Wikipedia)』でも、「中臣」は、「氏姓制度」では職掌によるもの(神と人の間に立つ神祇担当者)とし、「中臣氏」では地名によるもの(京都市山科区中臣町)とする。
・氏の拝領が初代神武天皇ではなく、弟29代欽明天皇の時と遅い。
・居住地「中臣」が中央政府のある大和国ではなく山城国にある。
ということは、「中臣氏はどこからかやってきた新参者で、大和国には住めず、大和政権の神祇は蘇我氏傘下の忌部氏が執り行っていた」ことを示す。

3.藤原氏系図

中臣(藤原)鎌足┳定慧
        ┗史(不比等)┳武智麻呂【南家】
               ┣房前【北家】…道長
               ┣宇合【式家】
               ┗麻呂【京家】

───「中臣」が「藤原」と名乗ったのはいつか?

 中臣氏が藤原氏と名乗ったのは中臣(藤原)鎌足以降であることは明らかであるが、この藤原鎌足の前半生は謎に包まれており、誕生の地すら分からない。

<藤原鎌足誕生の地>
説①山城国中臣(中臣氏の本拠地。京都市山科区西野山中臣町)
説②摂津国安威(誕生地に築かれた墓
説③大和国藤原(鎌足の居住地。奈良県高市郡明日香村小原
説④茨城県鹿嶋市の鹿島神宮付近(『大鏡』『 神皇正統記 』)
説⑤朝鮮半島(鎌足は百済人):関裕二氏の百済王子・扶余豐璋説

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