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『べらぼう』で、瀬川が鳥山検校に読み聞かせた『金々先生栄華夢』の序文を現代語訳してみた。

『べらぼう』で、瀬川が鳥山検校に読み聞かせた『金々先生栄華夢』の序文

     
文に日く、浮世(ふせい)は夢の如し。歓(よろこび)をなす事いくばくぞやと。誠にしかり。金々先生の一生の栄花も邯鄲(かんたん)のまくらの夢も、ともに粟粒(ぞくりう)一すひの如し。金々先生は何人といふことを知らず。おもふに古今三鳥の伝授の如し。金ある者は、金々先生となり、金なきものは、ゆふでく頓直(とんちき)となる。さすれば、金々先生は一人の名にして壱人の名にあらず。神銭論にいわゆる、是を得うるものは前にたち、これを失ふものは後(しりへ)にたつと。それ是これを言ふかと云云。
                   画工  恋川春町戯作

【Reco訳】


 文(書き記されたもの。ここでは李白の『春夜宴桃李園序』)によれば、「浮世(うきよ。現世。人の一生)は夢のようなもの(儚く短いもの)であり、喜びや楽しみはどれほどあるものか」と。

  而浮生若夢、為歓幾何。
  (而して浮生は夢のごとく、歓を為すこと幾何(いくばく)ぞ。)

李白『春夜宴桃李園序』

 誠にその通りである。この金々先生の一生の栄華も、中国の『枕中記』の「邯鄲(かんたん)の枕の夢」も、共に粟が炊ける時間の話である。金々先生が誰であるかは分からない。(注:一説に平沢常富(朋誠堂喜三二)がモデルだという。)思うに、これは、『古今和歌集』の解釈を伝える秘事「古今伝授」の訳の分からない「三鳥」のようなものである。(一説に「三鳥」とは、呼子鳥、稲負鳥、百千鳥を指すという。)金持ちは、金々先生となり、金の無い者は、深川の岡場所で言うところの「遊木偶の頓直(ゆうでくのとんちき)」(田舎出身の間抜け者)となる。であれば、金々先生は一人(金村屋金兵衛)の名にして、(「金持ち」「成金」「遊木偶の頓直」の別称であって)一人の名ではない。西晋の魯褒(ろぼう)の『銭神論』にも「銭ある者は前に身を置き、銭少なき者は後ろにいる」(とかくこの世は金次第)とある。それも、このことを言っているのであろう。

銭多者処前、銭少者居後。
(銭多き者は前に処(お)り、銭少き者は後に居る。)

『銭神論』
三逕集 - 国立国会図書館デジタルコレクション

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