宋人・朱仁聡
1.宋人・朱仁聡の来航
永延元年(987年)10月26日 来航(『扶桑略記』)
永延 2年(988年) 羊を朝廷に献上(『江記』寛治7年10月21日条)
★源信僧都との交流
『往生要集』の著者として知られる源信(恵心僧都)の『延曆寺首楞嚴院源信僧都傳』によれば、永延の初め、源信は西海道を托鉢中に、朱仁聡と同船の唐僧で、杭州銭塘西湖水心寺の僧である斉隠と会い、彼の帰国の際に『往生要集』を贈っている。
2.宋人・朱仁聡の再来航
長徳元年(995年)
8月下旬 朱仁聡、林庭幹ら70余人が若狭国に再来航。
9月 4日 藤原道長、「唐人来航の文」を天皇に奏上。(『台記』)
9月 5日 公卿による審議。(『小記目録』)
9月 6日 公卿による越前国へ移動の審議。(『日本紀略』『百練抄』)
9月 7日 公卿による審議。(『小記目録』)
9月20日 唐人からの申文の審議。(『小記目録』『百練抄』)
9月23日 唐人を越前国へ移すことを定める。(『本朝世紀』『権記』)
9月24日 唐人を越前国へ移す。(『本朝世紀』)
9月27日 藤原道長、「唐人解」「若狭国解」を下す。(『小記目録』)
10月6日 藤原道長、一条天皇に解文を奏上。(『本朝世紀』『権記』)
「長徳元年(995年)8月の下旬、唐人(ドラマでは「宋人」とするが、当時の人々は中国人を「唐人」と呼んでいた)朱仁聡、林庭幹ら70余人が若狭国に再来航した」との情報が9月上旬には京都に伝えられ、その対応を巡る審議が行われた。
9月23日、「唐人」を越前国へ移すことを定め、翌24日には移している。(京都と越前国府の連絡は4日間かかるが、若狭国府へは1日で連絡できるようである。ようするに、唐人を越前国に移動させたのには、①京都から遠ざけるため、②越前国には「松原客館」という外国人のための迎賓館&宿泊施設があったため、ということであろう。)
10月6日以降、「唐人」関連記事はしばらく見えないが、朱仁聡らはこの冬を越前国で過ごし、さらに翌・長徳2年以降も越前国に滞在していた。
長徳2年(996年)
1月28日 藤原為時、越前守に就任。
閏7月17日 入京し、鵝、鸚鵡、羊を献上(『小記目録』)
10月6日 「定大宋国商客・朱仁聡事」を陣定で審議(『日本紀略』)
11月8日 大宋国商客・朱仁聡の罪名を調査(『日本紀略』)
長徳3年(997年)
6月13日 「大宋国人」を帰国させることを審議(『小右記』)。
9月 8日 献上された鵝、羊などを返却(『日本紀略』)
10月28日 若狭守・源兼澄に対して凌轢を行う(『小右記』『百練抄』)。
11月11日 明法家にその罪名が調べられる(『百練抄』)。
長保元年(999年)
7月20日 石清水八幡宮に物品を貢献する朱仁聡の使が修行僧に捕らえられた。(『権記』)
長保2年(1000年)
8月24日 藤原定子を代金未払いの罪で訴える。
12月16日 中宮亮高階明順が召喚される。
長徳2年11月8日、明法家に対して「大宋国商客」朱仁聡の罪名を勘申(調査&答申)することを命じて、明法博士・令宗允正が勘申している。この朱仁聡の罪名とは不明である。(ドラマでは松原客館の通訳・三国若麻呂の殺害。)
閏7月17日には入京して、鵝(がちょう)、鸚鵡(おうむ)、羊を献上しているので、朝廷とは良好な関係のように思われたが、この時に献上された鵝、羊などは、翌・長慶3年9月8日に朱仁聡らに返却されている(『日本紀略』)。言葉が通じず、献上したのではなく、売りつけたのであって、代金を請求してきたことが「罪」のようである。
長徳3年(997年)10月28日、若狭守・源兼澄(兼隆)に対して凌轢(乱暴な行い)を行った(『小右記』『小記目録』『百練抄』)ため、11月11日には明法家にその罪名が調べられている(『百練抄』)。
長保2年(1000年)、皇后藤原定子の使いが、前年に唐物を購入した代価を敦賀津まで持参したが、朱仁聡は、既に同地を去り、大宰府へ移動していたため支払えなかった。朱仁聡は、8月24日に、代金未払いの訴えを起こし、この対処で12月16日に中宮亮高階明順が召喚されている(『小記目録』)。
以上、再来航したトラブル・メーカーの朱仁聡がいつ帰国したのかは明確ではないが、少なくとも長徳元年(995年)~長保2年(1000年)までの約5年間、若狭国&越前国&大宰府と移動しながら滞在し、交易を行なっていたことは確かなようである。
★源信僧都との交流
朱仁聡の再来日を知った源信は、敦賀津の「松原客館」に、弟子の寛印を連れて会いに行ったという。
「婆珊婆演底主夜神偈」(5字4句)
見汝清浄身
相好超世間
如文殊師利
亦如宝山王
★婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)
『華厳経』「入法界品」で「恐怖諸難を取り除き、衆生を救護し、光を以って諸法を照らし、悟りの道を開かせる」 と説かれる光使いの神・夜天女ヴァーサンティー。
「海にあって難に遭う人のためには、船の形と なり、海神の姿となってその難を救い、平地にあって難に遭う人のためには、月の光や星の光やたいまつの光や稲妻の光となってその難を救うであろう」(『華厳経』「入法界品」)とある。
婆珊婆演底主夜神の眷属は猫(京都の檀王法林寺では黒招き猫)だという。(長い航海では、積み荷の食物や経典をネズミに食べられないよう、船に猫を乗せたという。)
※『恵心僧都絵詞伝』(巻中)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1240747/1/393
■「朱仁聡・林庭幹らの来航」
■「源信僧都と朱仁聡」
■「紫式部の父と宋人との詩の唱和」
天野久一郎『敦賀経済発達史』「宋商朱仁聰の來泊と松原客館」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1459381/1/26