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越後国府

寛弘 8年(1011年) 2月 1日  藤原為時、越後守に就任。(『弁官補任』)
寛弘 8年(1011年) 2月?秋?  藤原惟規、越後国で死没。享年38。
長和 3年(1014年) 6月17日 藤原為時、任期を残して越後守を辞任。
長和 5年(1016年) 月日不詳  紫式部没。享年39。(『日本文学大辞典』)
長和 5年(1016年) 4月29日 藤原為時、三井寺で出家。(『小右記』)

※紫式部の研究史については詳しくないが、藤村作編『日本文学大辞典』(新潮社)に限らず、昭和初期の本では「藤原惟規は紫式部の兄」「紫式部は長和5年(1016年)没。享年39」としているように思われる。

  藤原為時
   ┣長男・惟規       :母は前室・藤原為信の娘
   ┣長女・女子(早世)   :母は前室・藤原為信の娘
   ┣次女・女子(紫式部)  :母は前室・藤原為信の娘
   ┣次男・惟通       :母は後室
   ┣三男・定暹       :母は後室
   ┣三女・女子(藤原信経室):母は後室
  女子(前室・藤原為信の娘(早世)/後室)

 紫式部の父・藤原為時は、越後守に就任し、国衙勤務となる。
 越後国では宋との貿易が盛んになっていたので、中国語を理解でき、越前守の経験がある藤原為時が適任と考えられたのであろう。
 『小右記』「長和3年6月17日条」には、三女(紫式部の異母妹)の婿・藤原信経に越後守の座を譲ったとある。高齢が理由か?

※藤原信経(さねつね/のぶつね):969- 没年不詳。
・寛弘6年(1009年)頃 越後守に任ぜられる。
・寛弘7年(1010年)頃 藤原為時の三女と結婚する。
・寛弘8年(1011年)越後守を2年で辞任し、舅・藤原為時と交替する。
・長和3年(1014年)藤原為時の越後守辞任に伴い、越後守に再任される。

───藤原為時が、なぜ辞任したのか不明

『小右記』「長和3年6月17日条」

十七日、辛未。内に参る。左大臣・内大臣、大納言道綱・斉信、中納言俊賢・教通、参議経房・兼隆・実成・頼定・公信等、参入す。国々の司の申請せる条々の事を定め申す。頼定、執筆す。
 頭弁朝経、越後守為時の辞退状を下し給ふ。許不の事を定め申す。件等の状、前司信経の任終・当任三个年の事々、究済の由を注す。諸卿、申して云はく、「誠に任終の年と雖も、未だ収納に及ばず。替はりの人を任ぜらるるに、何事か有らんや」てへり。斉信卿及び下官、申して云はく、「辞状の中に、四个年の事を究済せる由を申す。先づ彼の済不を下し勘ぜらるるは如何」と。左大臣、各、定め申す旨を奏せらる。即ち旧吏・別功の者の申文等を下し給ふ<申文、太だ多し>。「撰び定むべし」てへり。「但し越後の事、且つ済不を問はしめ、替はりの人を任ぜらるべし」てへり。仍りて越後・備後等、任ぜらるべきなり。旧吏の申文六人、別功一人<合はせて七枚>を撰び申す。所謂、旧吏、景斉・師長・頼親・輔公・泰通・信経。別功、伊頼。左府、云はく、「惟能、専一に撰び入るべし。而るに撰定に入らざるは、如何。若し惟能を入れ、他人の申文を抜き棄てば、人の愁へ有るべきに依り、只、事の旨を示すなり」てへり。撰定せる申文、公信に在り。次々の人々、人の大節に依り、左右を論ぜざるのみ。予、申して云はく、「信行の申文、下し給はざるは如何」と。相府、云はく、「太だ便ならざるなり。先々、申文を進るは、五月の事なり。彼の申文を知らざるに、何か在らん。又、他人に付さざるか。只今、何と為ん。年老にして済、難治の事たる者なり」と。予、申して云はく、「此くのごとき者は、国の善悪を知らず。朝恩有るべきか」と。左府、諾す。件の撰定せる申文等を奏聞せらる。朝経、綸言を伝へて云はく、「師長を以て備後に任ずべし。信経<信経は前司の姪なり。又、聟なり。内々、相構へて任ずる所なり。意に任すに似たり。師長・信経両人、殿上人なり>を越後に任ずべし」てへり。両人の申文を下し給ふ。経房を以て除目を書かしむ<申文、経房に授く>。木工・修理の大小工を任ぜらる。左府、左京大夫の事を奏す<大夫長経、辞退状を上り了んぬ>。「左近中将能信<三位>を以て、任ずべし」てへり。別紙に書かしむ。兼字の事、左右無し。仍りて事の由を奏せらる。兼字を付すべき由を仰せらる。除目、座しながら、朝経を以て奏聞せらる。御覧、畢りて、返給す。是より先、大外記敦頼に式部丞を戒めしむるを仰す。左大臣、外記為国を召し、式部の事を問ふ。候ずる由を申す。即ち仰せて云はく、「召す」と。又、同じ事を申す。又、申し畢んぬ。式部丞雅康、靴を着し、陣の前庭に立つ。大臣、宣す、「まうこ」と。称唯し、膝突に着す。除目を給ひ、本所に復す。上宣して云はく、「まけたへ」と。称唯し、退出す。是より先、大臣、問ひて云はく、「先づ問ふべきか」と。夜に入るに依り、予、答へて云はく、「問はず、只、召すべきなり」と。又、云はく、「『まうこ』と云ふべきか」と。答へて云はく、「然るなり」と。又、云はく、「外記、候ずる由を申す。第二度、仰せて云ふに、『召物』と。此の事、仰すべきか、仰せざるか、如何」と。予、答へて云はく、「『召物』の詞、必ずしも仰せ侍らず。今、必ず仰すべからざる事なり。除目を給ふべきに依り、式部を戒むべき由、先づ外記に仰せらる。何ぞ更に、式部、候ずる由を申す次いでに、重ねて又、『召物』の由を仰するか」と。又、宣旨を給ふべき時、宣旨を給ふべきに依り、式部、候ずべき由、兼ねて外記に仰する所。相府の気色、除目を給ふ時、式部、靴を着す。其の事を知らしめんが為なり。兼ねて外記に仰す。更に又、仰すべからざるか。件の事、古伝に聞かず。若しくは今案か。然るべからざるなり。諸国司の申請の事、定め畢んぬ<戌二剋>。退出す。

『小右記』「長和3年6月17日条」

───藤原為時が、なぜ出家したのか不明

 一日、甲辰。早旦、資平、来たりて云はく、「摂政殿の三十講。巳剋に始む。午時、内の春季御読経、発願す。申時、上皇、山に登らしめ給ふ<西坂より手輿に御して登らしめ給ふ。>。一昨日、前越後守為時、三井寺に於いて出家す」と。 
 摂政、資平を以て、多武岑の占方を賜はる。

『小右記』「長和5年5月1日条」


───藤原為時の勤務先の国衙の位置も不明

『倭名類聚抄』

 『倭名類聚抄』の「頸城郡」の右下に、小さく「府」とあるので、国府(国衙)は頸城郡(現在の上越市など)にあったことが分かる。

・「三嶋」「蒲原」って、静岡県(東海道53次)みたいだ。
・「魚沼」と言えばコシヒカリ!
・「古志」は旧国名。「古志後」では3文字になってしまうので、「好字二字令」により、「越後」と表記したと思われる。

コシヒカリと言う名前は、越前、越中、越後などの国々を指す「越の国」と「光」の字から「越の国に光かがやく」ことを願って付けられた。名付け親である元旧新潟県農業試験場長の国武正彦が「木枯らしが吹けば色なき越の国 せめて光れや稲越光(冬には雪に閉ざされてしまう越の国にあってコシヒカリが越の国を輝かせる光となりますように、の意)」と、和歌に詠んだことによる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 越後国府は、頸城郡にあり、10世紀頃までは上越市今池(「今池遺跡」)にあり、11世紀以降は宋の陶磁器や能登半島の珠洲市で焼かれた珠洲焼の流通が盛んになったので、港に近い上越市直江津地区(「伝至徳寺遺跡」)に移ったとする説が有力である。(藤原為時の勤務先の国衙は新築直後?)

 国衙の近くには総社があるはずであるが、越後国の総社は、上越市西本町の府中八幡宮に合祀されてしまっている。

※国府八幡宮(こくぶはちまんぐう):国府(地名は府中。建物は国衙)の近くに創建されたその国、もしくは国分寺を守護する八幡宮である。「府中八幡宮(ふちゅうはちまんぐう)」「国分八幡宮」とも。

NHK『光る君へ』より

※NHK大河ドラマ『光る君へ』では、越後国府の説明に「越後国一宮」居多(こた)神社(新潟県上越市五智)の映像が使われた。

※居多神社:「越中国一宮」気多(けた)神社(富山県高岡市伏木一宮)の分社。

 総社と違って一宮は国衙から遠く離れた場所にあることもある(たとえば、駿河国の国府は、静岡県静岡市の駿府城付近にあったと思われるが、一宮は遠く離れた富士宮市の富士山本宮浅間大社であり、総社は駿府城近くの静岡浅間神社である)ので、一宮の映像を使うのは、国府の位置の紹介としては不適切だと思われる。(この意味では、府中八幡宮の映像の方がよかったと思う。上越市国府にある本願寺国府別院でもいいかな?)
 一宮は、国司が任国に到着して、最初に参拝する神社であるので、一宮の映像は、「国府がここにありました」とする使い方ではなく、「国司・藤原為時は、まずは、この神社を参拝しました」という使い方ならOK!

 いずれにせよ、国府(国衙)は、頸城郡(上越市の頸城平野)にあったであろう。

【国衙所在地の候補地】


上越市 延命寺遺跡(飛鳥時代~奈良時代)
 ↓
上越市 今池遺跡(奈良時代~平安時代)
 ↓
上越市 下新町遺跡(奈良時代~平安時代)
 ↓
上越市 子安遺跡(弥生時代~近世)
 ↓
上越市 本長者原廃寺跡
 ↓
妙高市 栗原遺跡(奈良時代~平安時代)
 ↓
上越市 狐宮遺跡(平安時代)
 ↓
上越市 五反田遺跡(奈良時代~平安時代)
 ↓
上越市 岩ノ原遺跡(平安時代)
 ↓
村上市 西部遺跡(平安時代)
 ↓11世紀、宋との貿易が盛んになって移動
上越市直江津地区 伝至徳寺遺跡

上杉館(うえすぎやかた)は、新潟県上越市にあった日本の城(館)。現在のJR直江津駅周辺の府中(府内)と呼ばれた港湾都市域に位置する。主な遺跡として、越後守護上杉氏の館(至徳寺館)と、やや離れた位置に関東管領上杉憲政の館(御館〔おたて〕)があり、周辺にも比して小規模な屋敷跡がいくつかあったがいずれも開発によりめぼしい遺構は残っていない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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