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松葉屋瀬川

瀬川 せがは

新吉原江戶町一丁目松葉屋半右衞門抱への遊女。

高群逸枝『大日本女性人名辞書 増補』(厚生閣)1939

 この名を名乘つたものは、享保から天明に至る間に九人あつたが、四代目の瀨川がもつとも知られてゐる。彼女は下總國小見川村の農家に生れたが、才色雙絕で、三味線、淨瑠璃、笛太鼓、舞踊等の遊藝から、茶の湯、和歌俳諧、碁、雙六、蹴鞠の技にも達し、畫は池大雅に師事し、また文徵明風の手迹を善くし、平澤左內に學んで易學の造詣もあつた。寶曆五年の春、日頃親交のあつた丁子屋の雛鶴が落籍される時、瀨川の送つた文に「きゝまゐらせ候處、此里の火宅をけふしはなれられて、涼しき都へ御根引の花、めづらしき御新枕御浦山敷事はものかは、殊に殿は木、そもじ樣は土、一陰陽を起し陽は養にして御一生やしなふといふ字の卦、萬人を養育し萬人にかしづかるると、賴母敷もめでたき御仲と、ちよつとうらなゐまゐらせ候、穴賢」とあるが、その文藻のゆたかであつたことも知られる。嘗て常磐文字太夫は瀨川の才色を聞いて、一度これが客たらんことを願つた。然るに藝人を客としないことは大見世の掟である上、瀨川は豐後節を鄙み、新造、禿に至るまでこれを聽くことを禁じてゐた位であるから、容易でなかつたが、仲に立つものがあつて、これを瀨川に告げると、彼女は快よく承諾した。その夜に至るや、瀨川は文字太夫の淨瑠璃を所望し、これを靜に聽き終るや、禿を呼んで金千疋と書いた祝儀を太夫の前に置き、丁寧に禮を述べてそのまゝ己れの部屋へ引取つた。後、江市屋宗助といふ御用達商人に落籍されて、兩國藥研堀邊に住んだが、實はある大名の家老が江市屋の名を藉りたものと噂せられた。なほ、安永四年に五代目の瀨川が鳥山撿技に落籍された時は、江戶中の評判となつて、幾種かの戲作さへ出來たほどで、代々の瀨川が高金で落籍せられたために、松葉屋は產をなしたといはれてゐる。(武野俗談、江戶賣笑記)


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