水野信元(徳川家康の実母・於大の方の兄)の生涯
★この記事には、今後の『どうする家康』のネタばれが含まれています。
徳川家康は、祖父・松平清康の青木貞景の娘との子・松平広忠を父とし、於富の方(大河内元綱の養女)が水野忠政との間に生んだ於大の方を母とする。(松平広忠と於大の方は離婚したので、駿府人質時代の竹千代(後の徳川家康)が元服するまでの8年間は於富の方が駿府に住んで育てた。)
青木貞景の娘
├─────────────松平広忠
松平清康 │
├碓井姫 ├徳川家康
於富の方(華陽院) │
├────────────┬於大の方(伝通院)
│ └水野忠重─水野勝成
水野忠政(緒川城主)
├長男・水野近守(?-1556) :刈谷城主(早世)
├次男・水野信元(?-1576) :緒川城主(暗殺)
├三男・水野信近(1525-1560):刈谷城主(討死)
松平信貞(昌安)の娘
※水野忠政は尾張国の緒川城主で、於大の方は緒川城で生まれた。三河国に進出し、刈谷城を築いて、長男・水野近守に与えるが、水野近守は「桶狭間の戦い」以前に亡くなり、三男・水野信近が刈谷城に入ったが、「桶狭間の戦い」直後に鳴海城代であった岡部元信に討たれた。
徳川家康と織田信長の「清須同盟」締結に貢献した次男・水野信元は、後に「武田氏と内通した」として暗殺された。
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