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三河&遠江国の役行者

天智&天武天皇の御世、役行者は全国40~60の「国峰」(聖山の内、大峰山と 城山を「両山」または「両峰」と呼び、その他を「国峰(くにみたけ)」と呼んだ)を回った。

■義元優婆塞『役行者本記』
天武帝白鳳二年癸酉六月。至於伊勢詣兩皇宮。二見之浦。熱田。猿取。峰堂。白峰。富士。足柄。雨降。箱海。天木。走湯。江嶋。筑波。三岫。淺間嶽。駒嶽。御嶽。南宮。鳳凰山。膽吹。石山。笠置等。經歴四十餘日而八月上旬歸還于葛城山。
https://note.com/sz2020/n/nc4ef9c5782e0

「猿取」は三河国の猿投山、「峯堂」は三河国の鳳来寺山であろうが、「白峯」は不明である。三河国の本宮山であろうか? 遠江国の白倉山であろうか?

★三河三霊山
・猿投山、六所山、本宮山
https://note.com/sz2020/n/nf342ad263d13
★三河熊野三山
・本宮山、新宮山、夏(那智)山

★北遠五名山
・光明山、秋葉山、竜頭山、白倉山、常光寺山
★遠江熊野三山
・三熊野神社(本宮)、高松神社(新宮)、小笠神社(那智)

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鳳来寺山(愛知県新城市門谷鳳来寺)に登るには、南麓の門谷から登る。
東麓の大野からだと「行者帰」(「行者越」とも)と呼ばれる上の広重の絵にある岩壁を登らなければならない。役行者が鳳来寺山にいる弟の利修仙人に会いに来たが、この岩壁を登れずに帰ったので「行者帰」と名付けられたという。

■鳳来寺岩本坊長乳『鳳来寺興記』
東谷有。嶮岩道。名「行者帰」。有時、役行者、逢此峯臨。岩路嶮登不叶故、帰移他山来仙人謁見。故、「行者帰」号。其の時、勝岳院の不動一尊作之。
https://note.com/sz2020/n/nc61dfa266dbf

また新城市には複数の「行者堂」があるが、これは役行者が建てて回ったと伝えられている。(役行者が建てた「行者堂」は、全国286ヶ所である。)
・光明院(岩広)
・般若院(真言宗醍醐派)(新城市一鍬田町畠中)
・亀甲山金胎寺(真言宗醍醐派)行者堂(新城市宮前)
※今泉忠左衛門『千郷村史』「修験道」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1102516/39
・麻木神社(新城市黄柳野向ヒ田)の裏山の祠
・鉢盛山(新城市富保吉村)
・・・
※山中宣男『愛知の行者さま』2015 ¥1100
※山中宣男『愛知の行者さま 資料編 (尾張・三河)』2018 ¥1852
http://ozunu.net/

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遠江国のあちこちの寺に役行者像がある。想像するに明治の「修験禁止令」により、村内の「行者堂」が取り壊され、役行者像が村内の寺に運ばれたのであろう。
遠江国にも「役行者信仰」はあったが、役行者が遠江国に来たという話はあまり聞かない。

役行者伝で「遠江国」を検索すると、「役行者は伊豆大島に流された。後に許され、使者が伊豆大島に向ったが、役行者は遠江国まで行って出迎えた」とあった。

 ──どこで会ったのだろう?

常識的に考えれば、遠江国衙(静岡県磐田市)かな。
磐田市といえば、行者神社
※山本義孝『遠江の役行者信仰
 ・前浜行者堂

また、「遠之中山」(遠州小夜の中山)を役行者が越えようとした時、盗人(山賊)に刧(おびや)かされたが、心中で呪文を唱えると、盗人は、桎梏(しっこく。「桎」は足かせ、「梏」は手かせ)された如く動けなくなり、頭を下げて許しを乞うと、役行者に諭されたと伝わる。

■『役公徴業緑』
公過于遠之中山、盗刧公。公心呪之。盗不能動。状如桎梏。低頭乞憐。公諭以業、報盗懺悔追随【伝記、密録】
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952663/156

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 遠江国の伊豆神社(静岡県浜松市北区引佐町川名)の鎮座地は、伊豆国から役行者が飛んできた地とされ、近くに眼病に効く清水がある(水体薬師)。
 また、近くの六所神社の磐座(下の写真)の頂上には役行者が祀られている。(下の穴を「地獄穴」と呼ぶ。地獄に通じているという。)

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★静岡県湖西市(遠江国と三河国の国境)の役行者像
・式内・大神山八幡宮の境内(大知波)
・八幡神社の裏山の巨岩の窪み(梅田)
・庚申堂の裏山の祠(白須賀)
鏡光山応賀寺(湖西市新居町中之郷)の境内の行者社
湖西連峰(弓張山地)があるので、もっとたくさんあると思ったが…。
役行者像探しをしていたら、なぜか、二宮金次郎像探しを思い出した。

 遠江国で役行者といえば、「空を飛んだ釣鐘」で有名な「遠州第一の役行者不思議神通の遺跡」と呼ばれる長福寺(行基開創)である。
役行者は、聖山の中で大峰山を最高峰としたが、その山頂の大峰山寺の鐘(国指定重要文化財)には「遠江国佐野郡原田郷長福寺鐘、天慶七年六月二日」と刻まれている。長福寺から大峰山まで、役行者が空輸したという。
 鐘は天慶7年(944年)製であるが、『遠江国佐野郡原田郷安里山長福寺略縁記』では、山伏が来て大峰山に運んだのは長暦元年(1037年)のことだとする。
https://ennogyouzya.wixsite.com/mysite
https://www.kakegawa-kankou.com/news/7725/

■『遠江国佐野郡原田郷安里山長福寺略縁記』(1657)
夫れ人王45代聖武天皇の御宇、神亀3丙寅、行基菩薩、此国に行法而始当山を創開。五智如来の尊像を彫刻して安置し給ふ。往古、当庄内の河路にして安里といふ。之に依り、山号を安里山とし、寺を長福寺と名づく。(中略)
従神亀3丙寅年至明和3丙戌歳1032年也。

「修験禁止令」以前の様子はよく分からないが、行者堂を壊さなかった村、行者神社に変えて守った村は、役行者信仰の篤い地域なのだろう。

【注意】「小角役行者(おづぬえんのぎょうじゃ)尊」(浜松市天竜区二俣町)は心霊スポットなので、行くなら昼間に。名を「役小角」としないで、「小角役」としたのは心霊封じの呪術?


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