「倭国大乱」(1/3) Reco説=民族大移動に伴う大混乱
古代史系4チャンネル合同企画「古代史論考の分かれ道!」の第1回のテーマは「2つの奴国」でした。
第2回のテーマは「倭国大乱(わこくたいらん)」です。
「倭国大乱」とは、2世紀後半(弥生時代末期)に倭国で起こったとされる日本史上初の大規模な戦争(内戦)で、『魏志倭人伝』によれば、邪馬台国の女王・卑弥呼を共立することにより終結したそうです。
「倭国大乱」は、卑弥呼を共立する前の出来事であり、具体的には、次のように考えられています。
説①出雲国の倭国(北九州)への侵攻→「出雲の国譲り」として記録
説②吉備国の倭国(北九州)への侵攻→「神武天皇の東征」として記録
説③倭国(北九州)の国土拡大(東進)政策(出雲国や吉備国への侵攻)
説⓸卑弥呼=倭迹迹日百襲姫とし、倭迹迹日百襲姫時代の3つの戦乱の総称
・山背の武埴安彦(開化天皇の弟)大坂の妻・吾田姫の反乱の鎮圧
・武渟川別による出雲国の出雲振根の誅殺
・吉備津彦による吉備国王・温羅の討伐→『桃太郎』の誕生
※倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は、欠史八代(第2代綏靖天皇~第9代開化天皇)の第7代孝霊天皇の皇女であるから、「倭国動乱」は、欠史八代の期間中の出来事となる。また、倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)の弟が吉備津彦(桃太郎)になる。
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▪️合同企画を振り返る【ライブ配信1月6日】魏志倭人伝の「倭国大乱」|1/6に4人の古代史YouTuberがそれぞれ出した結論とは?
「倭国大乱」は、
①倭国(約30ヶ国の連合国家)の内乱→卑弥呼を女王(大統領)として終結
②倭国への他国の侵攻
③倭国の他国への侵攻
のどれかの「戦い」であり、私は、過去の記事では、
倭国への出雲国の侵攻を契機とする戦い
としました。
ところが、DNA分析の発達により、現在の日本人(Present-day Japanese)は、先住「縄文人(Jomon)」と、稲作などの先端技術をもたらした北東アジアからの渡来人との混血「弥生人(Yayoi)」(二重構造説)
日本人(現代人)=縄文人50%+弥生人50%
ではなく、もう1つの集団があることが判明し、古墳の埋葬者のDNAと一致したため、その集団は「古墳人(Kofun)」と名付けられました。そして、現代人は、この「古墳人」(東アジア人と弥生人の混血)の要素が最も濃いことが分かりました。(三重構造)
日本人(現代人)=古墳人70%+縄文人15%+弥生人15%
詳しくはNHK「フロンティア 日本人とは何者なのか」を御覧ください。(再放送は1/8(月)17:00~18:00)
日本人の成り立ちが、科学的に、このように解明されてしまうと、「倭国大乱とは、『倭国大戦』ではなく、東アジア人(魏人)の倭国(日本列島)への大侵攻もしくは大移動に伴う居住地問題や食糧問題といった『倭国大混乱』である」と考えざるをえないのではないでしょうか?
確かに『魏志倭人伝』には「相攻伐歴年」とありますが、これは戦いも含む民事訴訟のようなもので、卑弥呼が鬼道で迷わした(ご神託という判決を下した)。さらに卑弥呼は、魏人の渡来について魏に使者を送って苦情を訴えたら、お詫びとして鏡などと共に「親魏倭王」の金印を授与され、魏人の伝来も魏の統制で減少して、倭国は落ち着いたのでしょう。
先に書いたように、私は、「倭国大乱」の契機を「出雲国の倭国への侵攻」と考えていました。「出雲1ヶ国で倭国30ヶ国に対抗できるか」ということですが、出雲国王のスサノオは、新羅のソシモリ出身だそうです。ということは、「三国志時代の戦乱を避けた超多数の魏人が倭国を目指して新羅経由で出雲国に渡来し、住むには出雲国だけでは狭すぎるので、日本各地へ広がり、日本各地で居住地問題や食料問題tが起きて、大混乱した」のでしょう。(魏人から鉄器を得て、スサノオは西(北九州)へ、スサノオの子の大歳(後の饒速日)は東(丹後経由で奈良盆地)へ侵攻し、魏人の居住地を確保したというのが「倭国大乱」です。)
古代史YouTuberの方々の動画を拝見すると、
・「倭国大乱」ではなく、『魏志倭人伝』にあるように「倭国乱」。
・北九州のごたごた。
と事態を矮小化していると思います。
一方、私は、
・「倭国大乱」ではなく「倭国超々々々々大混乱」。魏からの移民により、
→結果① 弥生時代が終わり、古墳時代へ移行した。
→結果② 日本人のDNAが二重構造から三重構造へ変化した。
─結果③ 天皇家(中央政権)の誕生
→結果⓸ 宗教、祭器の変化(銅鐸が消えた。)
となった、日本史上最大の騒乱だと考えています。
繰り返しますが、私の説は、「大乱=大戦」ではなく、「大乱=大混乱」です。しかしながら、「倭国大乱」で必ず語られるのは、吉野ケ里遺跡です。「環濠集落」や「矢の刺さった頭蓋骨」は「倭国大乱の面影」というのですが、そうでしょうか? 私には隣り村との紛争「北九州のごたごた」にしか見えません。
「倭国大乱」とは、渡来人の急増に伴う人口の急増→居住地の確保という大混乱であり、男王・帥升は武力で混乱を抑えようと「覇道」を進むも失敗し、女王・卑弥呼が神のご神託で調整していく「鬼道」で鎮めたって話なのでは?
「日本人のDNAが、古墳時代に二重構造から三重構造へ変化した」ということは、弥生末期に東アジア人が日本に来て弥生人と混血したことを示しており、混血の発端は、時期を考えて、「倭国大乱」以外に考えられません。
◎「倭国大乱」=3世紀前半に活躍した卑弥呼の登場前の2世紀後半(西暦150~200年)の出来事
他にDNAが変化するほど多くの数の移民の受け入れというと、
①徐福伝説(紀元前219年)=徐福が(始皇帝が圧政を行う)中国から連れてきた3000人の童男童女(若い男女)と百工(数多くの技術者)の子孫は、「秦」と名乗って全国に拡散した。
②「白村江の戦い」(663年)=出兵した20万人の日本人が全滅し、逆に20万人の百済人が日本に逃げてきて土着した。
くらいしか思い浮かびませんが、どちらも時代が異なります。
https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abh2419
以上、古代史系4チャンネル合同企画「古代史論考の分かれ道!」の第2回のテーマが「倭国大乱」と聞いて、
──さすがだな。目の付け所がいい!!
と感心したのですが、結果は、
・「倭国大乱」ではなく、「倭国乱」。
・北九州のごたごた。
と、矮小化され、私説「倭国大乱は、倭国超々々々々大混乱だぁ!」とは真逆でしたので、がっかりしたという話でした。(なんか学者の話を聞いているようでした。学会で発表する論文ではないので、もっと大胆な仮説を期待していたのですが・・・無難な動画だ。もっと攻めて欲しかったです。残念です。)
ちなみに、「倭国大乱」の時の北九州以外の「古代三都」(出雲、吉備、大和)の「吉備王国」の状況はといえば、「吉備津彦命による吉備国の温羅(うら)討滅」があげられます。(温羅の別名は「鬼神」です。鬼道を使って吉備王国を統治していたのでしょう。)岡山県倉敷市矢部の楯築遺跡(楯築墳丘墓)には、石を投げてくる温羅の攻撃を防ぐために築いた「石楯」と伝わる列石があります。
※『日本書紀』の記述は信用できない。「倭国大乱」も「卑弥呼」も初代天皇・神武天皇以前の話であるが、『日本書紀』では、「倭国大乱」は吉備津彦命(第7代孝霊天皇皇子)の時代、「卑弥呼」は神功皇后(第14代天皇・仲哀天皇の皇后)の時代に設定されているようである。そもそも記紀は、古代の記録を伝承している縄文人や弥生人が書いたのではなく、古墳人が書いたので、致し方なし。
■前方後円墳の起源
■吉備王国
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