テストによく出ない「道長と詮子」(原文&現代語訳『愚管抄』)
※【前半 藤原道兼 vs 藤原伊周】
こうして一条天皇御即位の後、この大入道殿〔藤原兼家〕殿がしっかりと世を治めて以後、宇治殿〔藤原頼通〕までを見ると、さらに言葉には尽くせない程、1つの人の家が栄え、世も穏やかで、人の心も解放され、悪いことも無く、正道を守って世を治められ、一門の人々も、ことさらそうしたかのように立派な人たちで、「四納言」と言われた人の3人は一門であった。こうして世は、治まったように見えた。
さて、大入道殿〔藤原兼家〕は、永祚2年(990年)5月4日に出家して、嫡子・内大臣道隆に関白を譲って、同7月2日に亡くなられた。藤原道隆は、「中関白(なかのかんぱく)」という。その子を藤原伊周(これちか)帥内大臣(そちのないだいじん)という。流罪の後、「儀同三司(ぎどうさんじ)」という。(父・藤原道隆は、)この人(息子の藤原伊周)に「内覧の宣旨を」と頼んだが、(藤原道隆の)弟の藤原道兼は右大臣、この藤原伊周は内大臣であった。一条天皇の御母〔藤原詮子〕は、「東三条院」といい、最初の「女院」は、この人である。この人は、藤原兼家の娘で、円融天皇の后である。この女院の御指示のままに世は動いたと申し伝わる。藤原道兼は(藤原道隆と)同じく弟(兄の誤り)であり、何となく花山天皇の事(出家と退位。「寛和の変」)も全てが藤原道兼の策略であったわけではないが、時を得たことであった。
右大臣〔藤原道兼〕は上﨟(高位の文化人)であったが、内大臣〔藤原伊周〕の人柄といえば、大和心(和歌)については理解できない人であったが、唐才(漢詩)は理解できる人であった。唐才はあって、漢詩などはたいへん上手に作られたが、右大臣〔藤原道兼〕を越えていなかったので、右大臣〔藤原道兼〕が関白になったのであるが、長徳元年(995年)4月27日に就任し、5月8日に亡くなられたので、世の人は「七日関白」と言った。
※【後半 藤原道長 vs 藤原伊周】
(下のリンク先の)『大鏡』によれば、一条天皇の母后・東三条院(藤原詮子)と藤原道長は、一条天皇に直訴に行き、「上の御局」(清涼殿内の控えの部屋)にいたが、呼び出されないので、藤原詮子は一条天皇の寝所に押しかけて訴えたとある。(夜の話か?)
『愚管抄』では、一条天皇が「朝餉の間」で朝食をとり、「昼御座」へ移られ、蔵人頭・源俊賢と話をしていると、藤原詮子が「夜御殿」(「昼御座」の北の寝所)の妻戸を開けて出てきたとする。(昼の話)
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