「徳河(徳川)」への改姓(復姓)
永禄9年(1566年)5月、三河国の平定を成し遂げた松平家康は、名字を「徳河(徳川)」、姓を「藤原」に改め、永禄9年(1566年)12月29日、朝廷から「従五位下三河守」に「叙任」(「叙位任官」の略)され(『湯殿の上の日記』等によれば勅許は永禄10年(1567年)1月3日)、三河国の「国衆」(国人領主)から「新興大名」(戦国大名)に格上げされた。
■改姓の経緯
この改姓(徳川家康的には復姓)は容易ではなかった。武士の官位は、「源氏長者」(源氏の氏の長者)である足利将軍を通して朝廷に奏請(そうせい)するのであるが、将軍・足利義輝が暗殺されて将軍職は空位であった。
そこで松平家康は、三河国岡崎出身で、徳川家康の父・松平広忠の墓がある大林寺(愛知県岡崎市魚町)の住職から誓願寺(京都府京都市中京区新京極通)51世住職となった泰翁慶岳(1500-1574)に仲介してもらい、関白・近衛前久に「毎年300貫と馬1匹」という約束で朝廷に奏請してもらったとされる(徳川家康は約束を破り、実際に払ったのは2000疋(反物2反で1疋)のみ)が、泰翁慶岳は弟子の慶源(慶深)を連れて三河国に下向しており、実際は弟子の慶源(慶深)が岡崎と京都を何度も往復して話を進めた。(徳川家康は、お礼として、諏訪明神の横に寺を建てて泰翁慶岳に与えた。これが岡崎市梅園町の誓願寺(諏訪山泰翁院)である。)
清和天皇…源義家─義国┬新田義重┬新田義兼【新田氏】
│ └得川義季┬得川下野守頼有【得川氏】
│ └世良田頼氏【世良田氏】※
└足利義康【足利氏】
※世良田三河守頼氏┬世良田藤原有氏
└世良田藤原教氏…松平親氏…徳川三河守藤原家康
国衆・松平家康は官位「従五位下三河守」を得て「新興大名」となり、他の戦国大名と肩を並べたいと考えた。近衛前久が朝廷に奏請すると、正親町天皇は、「家康の先祖には、これまで一国の守に任官した者はいない。素性が分からず、先例が無い一族の人間に官位は与えられない」と取り合わなかった。
そこで、松平家康は、神祇官・吉田兼右(かねみぎ)に調査してもらうと、
・松平氏は得川氏の分家・世良田氏(清和源氏)である。【素性】
・世良田氏には世良田頼氏という三河守を名乗った人物がいる。【先例】
・世良田頼氏の嫡男・有氏と次男・教氏が藤原を名乗っている。【藤原姓】
(世良田有氏と世良田教氏の兄弟は近衛家(藤原氏)の家来?)
以上のことを示す旧記を万里小路(までのこうじ)家で発見して、鼻紙(懐 紙)に写し取り、鳥の子紙仕立ての立派な家系図を制作し、近衛前久に渡した。近衛前久は「諸家の系図にも乗らず候。徳川は源家にて、二流の惣領の筋に藤氏に罷り成り候例候」(どの家の系図にも載っていない。徳川氏は源氏だが、2つの惣領筋(得川氏と世良田氏)の(世良田氏の筋の)中に藤原氏になった例があった(人物がいた))と不思議がりながらも、藤原氏の「氏の長者」であったので、家康を藤原氏と認定し、正親町天皇にこの系図を添えて奏請すると、叙任となった。
──「徳川」は「得川」。根本、此の字にて候。「徳」之字は子細候ての事候。(by 近衛前久)
源姓志向が強かった徳川家康の愛読書『吾妻鏡』の「文治5年(1189年)6月9日条」に「徳河三郎義秀」が登場する。「徳」は当て字で、得川義季のことだとされる。
得川義季の次男・頼氏が世良田氏の祖で、三河国を平定したと伝わる徳川家康の祖父・松平清康は、「世良田次郎三郎清康」(大樹寺多宝塔心柱の銘)とか、「源清康」(天文2年(1533年)の制札)とか名乗っていた。
徳川家康は、世良田氏の本家の得川氏の「得川」を「徳川」に変えて朝廷から公認されたのである。
こうして「松平家康」は、「徳河(徳川)家康」となったが、発給文書の署名は「源家康」ではなく、「藤原家康」である。(後に藤原家康は源家康になり、慶長8年(1603年)2月12日、「源氏長者」「征夷大将軍」となって江戸幕府を開いた。)
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