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第5回「瀬名奪還作戦」(動画集)

■時代考証担当・小和田先生

■歴史学者・呉座勇一先生

■濱田浩一郎のYouTube歴史塾

■田中一平先生が解説する「どうする家康」

■戦国BANASHI

■高橋学長のむさしのチャンネル

■前田慶次 戦国時代チャンネル

■かしまし歴史チャンネル

■ヤギシタ-ドラマ解説-「徹底解説」編

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■市橋先生「なるほど!歴史ミステリー」

■小川さなえワールド

■歴女のモトコマ 大河ドラマ「どうする家康」感想動画

※お声がAdoさん似でエモい。

■時代考証・平山優先生のツイート

 今夜の「どうする家康」は、さらに面白かったと思いますよ。戦国の忍びをしっかりと描いたのは、初めてです。お疑いなら、山田雄司『忍者の歴史』角川選書、拙著『戦国の忍び』角川新書、そして歴史学による忍び研究を頂点たる『忍者学大全』東大出版会を読んでくださいね。

(Reco注)『忍者学大全』は3月1日発行で、まだ読めません。『忍者学大全』──欲しいけど、高額だから無理。サポート希望 m(_ _)m

 大河ドラマ「どうする家康」第5回「瀬名奪還作戦」はいかがでしたでしょうか?
 さて、今回に関する時代考証のポイントについてお話ししましょう。まず、今回の内容は、脚本家古沢さんのオリジナルストーリーです。以前にもお話ししましたように、瀬名(築山殿)、亀姫、竹千代の三人が駿府で事実上の人質となってしまったという通説は、現在では否定されつつあります。ですが、今回は通説通りの物語展開になっております。それは、新説が脚本完成後に提起されたこと、また新説については『当代記』の記述によるものであるため、もう少し裏付けとなる史料が欲しいといった異論もまた存在するからです。ただ、私は『三河物語』をいま何度も丁寧に読み返しているところなのですが、同書にも駿府に残されているのは竹千代だけで、彼の身柄を松平方が確保した人質と交換するとの内容が記されており、瀬名と亀姫は登場しません。このことから、女子二人は桶狭間合戦直後に、今川氏真の意思で元康のもとへ送られた(氏真は元康を対織田戦にとって必要不可欠な存在であり、かつ頼れる一門衆と認識していた)ことを示すものだろうと思うのです。

(1)本多正信の登場

 今回は、松山ケンイチさん演じる本多正信が初登場しました。正信は、三河一向一揆勃発に際して、一揆側に荷担したため、三河を追放されましたが、後に家康に帰参を許され、その後は家康の生涯にわたる側近であり、知恵袋として仕えました。なので最後まで退場しない、数少ない家臣の一人です。本多正信は、本多忠真、忠勝らからは「我ら本多家とは縁もゆかりもない輩!」「偽本多じゃ!」などいわれたい放題でしたね。これは、忠真を始め、多くの譜代家臣と本多正信が不仲だったということを印象づけるための脚色です。本多正信と本多忠勝は、祖先を同じくする同族です。系譜類によると、本多家の祖は、本多助政という人物だといわれます。その息子に本多定通と定正(定政)という二人の男子がおりました。このうち、定通の子孫が忠真、忠勝らになります。いっぽう定正(定政)には正吉という男子がおりました。この正吉には、正経と正明という二人の息子がおり、正経の子孫が本多広孝(三河田原城主、上野白井城主)・康重(三河岡崎城主)父子です。そして、正明の子孫が正信になります。ですので、彼らは確かに同族なのですが、本多氏はとにかく支族が多く、確かに忠真、忠勝、正信らの時代になると、同族意識が低くなっているのかも知れませんね。
 正信と他の三河譜代との不仲については、大久保忠教の『三河物語』によくその傾向が現れており、正信は戦のやり方も知らぬ奴だと暗に筆誅を加えている様子が窺えます。ただ、本多正信と大久保家は、犬猿の仲なので仕方がないのかも知れません。このあたりの事情は、いずれ作中でも触れられるのではないかと思います。
 なお、正信の前半生は謎に包まれています。三河一向一揆前に、元康家臣としてどのように活動していたのかも不明です。今回は、冷や飯食いから上に登るきっかけを摑もうとしているという設定になっていますね。これからが楽しみです。

(2)人質を「盗み出す」という台詞について

 今回は、忍びが登場し活躍するというストーリーでした。今回、古沢さんの脚本で秀逸だと私が感じたのは台詞です。元康と正信が密談しているときに、正信が人質を「盗みまする……」、元康「盗む?」、正信「お方様とお子様方を駿府からこっそり盗み出すのです」と言っていましたよね。これは当時の人々が使用していた本当の言い回しなのです。例えば、『信長公記』巻15において、武田一族穴山梅雪が、勝頼から離叛する直前に、甲府の穴山屋敷に残していた人質の妻子を、屈強な家来たちに命じて脱出させたこと「甲斐国府中に妻子を人質として置かれ候を二月廿五日、雨夜に紛れぬすみ出し」と記しています。また『三河物語』中巻にも「人質ヲ盗取ンタメに」とあり、人質奪還を「盗み取る」と表現しているのです。元康の正室瀬名たちを助け出すことを、「盗み出す」なんて失礼じゃないかとか、ありえないとか感じた方もいるかも知れませんが、これは歴とした根拠があるのです。忍びたちの活動とも絡んで、実に見事な台詞回しだったと感激しています。

(3)服部半蔵の登場

 いわずとしれた伊賀出身の服部半蔵正成が登場しました。山田孝之さんが演じる姿は、格好よかったですね。小説、テレビ、映画、漫画の影響もあり、服部半蔵は忍者だと世間では思われがちですが、彼は足軽大将で歴とした武士です。彼の生涯も、良質な史料がほとんどなく、謎に包まれていますが、『三河物語』にはしばしば登場し、武士として活躍していることが確かめられます。かつて私は『戦国の忍び』角川新書を出版しましたが、SNSで、服部半蔵が忍びから大名にまでなったのにスルーしていると批判されたこともあります。繰り返しになりますが、半蔵は武士であり忍びではありません(そんな史料は存在しません)し、彼が大名になった事実もありません。ただ、『武徳編年集成』を始めとする軍記物には、伊賀者たちを率いる人物として登場します。ですので、忍び働きをする伊賀者を始めとする、雑多な忍びたちを統率していたのは事実なのでしょう。ちなみに、忍びは、戦国大名の軍隊においては「足軽」に分類され、彼らを統率する指揮官(侍身分)が足軽大将なのです。なので、半蔵が足軽大将だったという事実と整合しますね。永禄期の服部半蔵は、足軽大将として渡辺半蔵守綱、大久保忠佐(忠世の弟)、本多忠真らの同僚とされています。

(4)服部党、伊賀者ら戦国の忍びについて

 戦国の忍びの実態については、拙著『戦国の忍び』角川新書で、東北から九州までの事例を活動の内容に分類して詳しく紹介してあります。そもそも「忍者」と書いて「忍びのもの」と読みます。「にんじゃ」というのは、昭和40年代から言われ始めた造語です。
 忍びは、飢饉や戦乱により自分の故郷を捨て、流民となったあぶれ者たちや、不良たちが、生きるために盗み、強盗などに手を染め、集団化したり、少人数で活動したりしたアウトローたちがその供給源です。当然、彼らはその過程で命を落としていく者たちが続出したと思われますが、そこを生き延びた者たちは、昼夜を問わず、とりわけ夜に命がけの活動をこなす技量を身につけているのです。戦国大名たちは、彼らの技量について「武士が真似しようとしてもできるものではない、下手をすると命を落とすから絶対に真似をするな」(結城政勝)、「夜技鍛錬の者たち」(上杉謙信)などと驚嘆しています。詳しくは拙著を御覧下さい。また、忍者考証をお願いしています山田雄司氏の『忍者の歴史』角川選書、山田雄司・三重大学国際忍者研究センター編『忍者学大全』東大出版会(近刊)は、必読の研究書です。これらにより、戦国の忍びについての研究は、一挙に進むことになり、いろいろなことがわかってきたのです。
 忍びの衣装については、かつての忍者物のような真っ黒な装束はできるだけ避け、暗い衣装ながら、通常の村人ら市井の人々と変わらぬものにしてあるのは、その成果を取り入れたものです。

(5)伊賀者の活躍

 三河に伊賀者がたくさんいたなんで信じられない、といったご意見を頂戴しています。でも、上記の研究で、伊賀者、甲賀者を始め、忍びたちが各地の戦国大名や国衆に銭で雇われていることはもはや疑いようがありません。なかでも、三河は伊賀者を始めとする忍びたちに関する記録がけっこう多いのです。ここでも、『三河物語』を事例に紹介しておきましょう。まず、刈谷城水野藤九郎信近を伊賀衆が暗殺したというお話し。同書によると、今川方が伊賀衆を呼び寄せ、水野領にやすやすと潜入し、何カ所にも渡って待ち伏せの忍びを伏せておき、遂に水野信近を討ったとあります。水野信近は、永禄3年桶狭間合戦直後、岡部元信によって討ち取られており、この逸話はこの時のものと考えられます。また、来週放送予定の、三河上之郷城攻めに際して、家康は「西之郡之城(上之郷城)ヲ忍取に取せ給ひて、鵜殿長勿ヲ打取、両人之子供ヲ生取給ふ」(上之郷城を忍びたちに攻め取らせ、鵜殿長照を討ち取り、彼の二人の子供を生け捕りにした)とあるのです。かなり伊賀衆が三河で活動していることがはっきりとわかりますね。ただ拙著『戦国の忍び』では、この事例を入れ忘れてしまいました。残念です。

(6)「半蔵様が死んだら、俺たちの妻や子に誰が銭を渡してくれるのか」という大鼠の最期の言葉に込められた史実

 私は、この台詞を拝見して驚嘆しました。よくぞ、書き込んでくれましたと私が舌を巻いたのには理由があります。この台詞には、戦国大名に雇用される忍びたちの実態が端的に表現されているからです。皆さんは、銭で雇われた忍びたちが、銭を持ち逃げしたり、逃亡したりしないのか、信用できるのか、と疑問に思われると思います。それを防止するために、忍びたちの組織はい防止策を講じていました。まずは、忍びの主要メンバーを各グループに配置して、勤務評価や監視を行わせています。裏切りや逃亡は、追っ手がかけられ、殺害されます。これは武家も同様ですよね。そして、重要なのが、大名は忍びの妻子を人質として確保しているということです。これは武田信玄が、忍びたちの妻子を甲府に確保しておき、裏切りや逃亡を防いだと『甲陽軍鑑』に記されていることからも窺えます。ですがこれは同時に、大名側は忍びたちの妻子を保護し、安全を保障してもいるのです。そして忍びは任務を全うすれば、足軽大将(忍びの統率者)を通じて、褒賞が支給されるのです。このことを、わずかな台詞で表現した古沢さんの力量と、そして大鼠、服部半蔵の演技に、私は画面前でただただ脱帽していました。ビールグラスを持ったまま、思わず立ち上がってしまったほどです。恐れ入りました!

(7)本多正信の台詞に登場する「師崎」について

 本多正信が、服部半蔵に瀬名母子らの奪還を依頼した台詞で「夜陰に紛れて駿河の浜から船にお乗せしてしまえばこちらのもの。水野殿に師崎(もろざき)あたりの港をお借りし、お迎えすればよろしいかと。半蔵殿、任せたぞ!」とありました。お気づきになられましたか? 実は、第一稿では、「水野殿に××あたりの港をお借りし」とあって、地名が決められておりませんでした。私は第一稿を拝読したときに、駿河から元康の配下が瀬名たちを奪還したら、すぐにそのまま三河の港に入ればいいのに、なぜあえて水野信元を頼ろうというのか、と考え込みました。ですが、古沢さんは瀬名らが奪還したのが、元康の願いを受けた織田信長との共同作戦、というご自身の設定が込めているのではないかと感じました。元康自らが命じつつも、彼の願いを聞いて、同盟国織田信長が人質奪回を差配し、尾張の水野信元に協力させたと氏真に印象づけることで、織田・徳川同盟対今川氏真という対立の構図を、いっそう引き立たせる効果を狙っているのだろうと、私は解釈しました。そこで、どの港がいいか、考えました。そして、中世の太平洋水運および三河湾水運の担い手の一つであった知多半島の南端師崎に白羽の矢を立て、制作陣に提案したところ、採用されたものです。師崎には、千賀氏という海の武家がおり、後に徳川氏に仕え、水軍の一翼を担っています。師崎の皆さん、楽しんで頂けましたか?

第5回の時代考証の呟きは以上になります。
今宵はここまでにいたしとうござりまする。
また次回!

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