浪合合戦
長野県下伊那郡阿智村浪合(しもいなぐんあちむらなみあい)において、後醍醐天皇の孫とひ孫の親子が、別の日に、同じ場所で、同じような野武士と戦い、2人共自害したという。
──野武士又俄ニ起ツテ「駒場小次郎、飯田太郎」ト名乗テ尹良君ヲ襲奉ル。
『浪合記』によれば、浪合で、後醍醐天皇の孫・尹良親王が駒場小次郎、飯田太郎と名乗る野武士たちに襲われたそうです。駒場小次郎は桃井宗綱、飯田太郎は一宮伊予守が討ち取りますが、ゲリラ戦に持ち込まれ、「もはやこれまで」と尹良親王は辞世を残して自害しました。
──十二月朔日、三河国ヲ打越ントテ、並合ニ至リ給フ。然ル所ニ、先年一宮伊予守ニ討レシ飯田太郎カ一類、宗綱ニ討レシ駒場小次郎カ弟、其外彼等カ親属トモ「宮方ハ親兄弟ノ敵ナレハ、此所ヲハ通スマシ。討取テ孝養ニセヨヤ」ト大勢馳セ聚リ良王ヲ取巻キケリ。(中略)同二日酉ノ尅ヨリ亥ノ時マテ防戦フ。其間ニ、良王ヲハ、十一党、宇津宮、宇佐美、天野、上田、久世、土屋、佐浪等合ノ山マテ退ケ奉ル。
その9年後の12月1日、後醍醐天皇のひ孫・良王が浪合を通りかかると、飯田太郎の一類(仲間)と、駒場小次郎の弟、及び、彼等の親属(親族)どもが、「宮方は親兄弟の仇だから、ここは通せぬ。討ち取って供養にしよう!」と、大勢集まって、良王を取り巻いた。戦いは翌2日まで続いた。その間、家臣たちが良王を「合の山」(平谷?)まで避難させた。3日、合の山にて、浪合の近所に住んでいるという子に戦いの様子を聞くと、「宮方は破れ、大将(良王?)は自害した」と答えた。
後醍醐天皇─宗良親王─尹良親王─良王─良新(津島神社初代宮司)
1.浪合合戦の5W1H(『浪合記』による)
■第一次浪合合戦
Who(だれが) :尹良親王(後醍醐天皇の孫)と野武士(飯田、駒場)
When(いつ) :応永31年(1424年)8月15日
Where(どこで) :長野県下伊那郡阿智村浪合
What(なにを) :合戦
Why(なぜ) :南朝遺臣狩り?
How(どのように):ゲリラ戦に持ち込まれ、尹良親王は自害。
辞 世:ほのぼのと明行く空を眺むれば 月ひとりすむ西の山かげ
生存説:実は脱出して、中津川市(恵那市?)で亡くなった。
菩提寺:亀伯山大龍寺(愛知県津島市北町)
参 考:「ユキヨシさま」は尹良親王の怨霊か?
■第二次浪合合戦
Who(だれが) :良王(後醍醐天皇のひ孫)と野武士(飯田、駒場)
When(いつ) :永享5年(1433年)12月1日~2日
Where(どこで) :長野県下伊那郡阿智村浪合
What(なにを) :合戦
Why(なぜ) :前の浪合合戦で親族を討たれた野武士の復讐
How(どのように):良王一行は敗北し、良王は自害したと広まる。
実は自害せずに脱出し、津島(愛知県津島市)で亡くなった。
菩提寺:鏡池山瑞泉寺(愛知県津島市舟戸町)
参 考:子の良新は、津島神社初代宮司。
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