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六所神社

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 大久保忠教『三河物語』の訳本を読んでいたら、原文
「徳の御代に時宗にならせ給ひて、御名を徳阿弥と申し奉る」
の「徳」の注に
「親氏の弥陀号。徳阿弥」
とあり、本文は
「徳の代に時宗になられて、お名は徳阿弥とお呼び申した」
となっていました。本文の「徳」に注の「徳阿弥」を代入すると、
「徳阿弥の代に時宗になられて、お名は徳阿弥とお呼び申した」
「徳阿弥と名乗っていた時期に出家して徳阿弥と名乗った」っておかしくない?
ちなみに私の訳は、
「松平親氏が、元服前、まだ「徳太郎」と幼名を名乗っていた時期に、出家して時衆になられ、徳阿弥と名乗られた」
です。
 松平親氏に関しては諸説あります。『三河物語』に限らず、注は「史実では・・・だが、筆者は・・・と考えていた」という書き方がベストだと思います。

※時宗の遊行上人の名は「○阿弥陀仏」(略して「○阿上人」)、遊行上人を取り巻く時衆の名は「○阿弥」、寺の名は「○○道場」(○○は地名)です。

★参考記事:司馬遼太郎『覇王の家』を読む ③
https://note.com/sz2020/n/n89a6123d1f51

 松平親氏は、6歳の時に出家し、その後、新田義陸を大将として再起しようと南朝遺臣が集結した宮城県塩竈市に12~13年いたという。
 その後、流浪して松平郷に入ると、無染融了の前に白髪の老人が現れ、
「何者か?」
と尋ねると、
「我は是れ東奥塩釜の神なり。我、常に護る所の壮士、近くに来たりて隣村に居す。我、之、奔るに忍びず、将に衛護せんと来たり。願はくば、師、告訴して、我棲む所の山を選べ」(我は奥州塩竈明神なり。我が氏子がこの近隣に住む故、彼を守護するために出現せり。老師よ、彼に告げて、我が常住の山を選ぶべし)
と答えると消えたという。そこで一時的に「塩竈六所宮」の祭神を老人が休んでいたという「㮛立」(古書では「そためたち」で、現在は「そだめ」と読む。松下村㮛立古社。現在の豊田市坂上町古社)の古美山に「古六所神社」をまず祀り、後に焙烙山に「六所神社」を建てて祀り、後に鉢ヶ峯の「鉢ヶ峯神社」(周辺地域の産土社。御祭神は山神・大山祇神)を奥にどかして「隠居神」「奥の院」とした後、「客人神」六所神社を鉢ヶ峯に遷し、山名も「六所山」としたという。そして、神宮寺「宝生院」(応仁元年(1467年)、山麓に遷す。現在の妙昌寺末寺・芳樹山宝光寺地蔵院)を建て六地蔵を安置したそうです。

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1.創建時期


 「古六所神社」の創建は永享7年(1435年)、「六所神社」(焙烙山→六所山)の創建は永和3年(1377年)8月19日とされています。古六所神社の創建の方が古くないといけないのですが・・・。

《六所神社の創建》
・永和3年(1377年)8月19日説(社伝。「社格昇進額」など)←通説
・明徳元年(1390年)説(『活方集寄牒』)
・永享3年(1431年)説(『朝野旧聞裒藁』)

 「塩竈大明神が現れたので、「塩竈六所宮」の祭神を「古六所神社」にまずは祀った」というのは、非科学的です。(「塩竈駐留時代の知人が、心配して、「塩竈六所宮」の御札を持って訪ねて来た」のであれば理解できます。)
 そもそも塩竈大明神に会ったのは、簗山妙昭寺(現在の妙昌寺。掲示板の「妙照寺」は誤り。愛知県豊田市王滝町覚庵)の初代住職・無染融了であって、松平親氏ではありません。松平親氏は、無染融了のために、延文元年(1356年)に無外円昭が建てた簗山円昭庵を、永享6年(1434年)に堂宇を建立し、初代円昭の「昭」と二世妙融の「妙」を組み合わせて簗山妙昭寺と改め、無染融了を初代住職としています。

《簗山円昭庵庵主》①円(創建)→②融→③融了(妙昭寺初代住職)

 翌・永享7年(1435年)創建の「古六所神社」は、「新六所神社」(「小六所神社」だったりして;)であり、御神体となる御札を「塩竈六所宮」に依頼して建てた簗山妙昭寺の鎮守社でしょう。
 単純に考えれば、六所神社、同神宮寺・宝生院(現在の地蔵院)、妙昭寺(現在の妙昌寺)、同鎮守社(?)・古六所神社の創建は、同時期(永享年間)でしょう。

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2.宮司家・酒井氏


 松平親氏は、松平郷に来る前、酒井郷で酒井りんとの間に子を儲けました。その子の名は、資料によって広親とも、親清とも、親重とも。通説では、
      
松平親氏─酒井広親┬氏忠─忠勝…【左衛門尉家】
           ├親清─親重…【松平六所神社世襲宮司家】
           └家忠─信親…【雅楽頭家】

となりますが、六所神社の初代宮司について、『郷社六所神社図記』には「松平親氏の次男・親重」、『六所神社由緒』には「酒井徳之丞源親定」とあります。

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3.社号について


 「塩竈六所宮」からの勧請だから「六所神社」なのですが、「志波彦神社・鹽竈神社」から塩竈神を勧請しての「塩竈神社」ではダメなのでしょうか?(熱田神宮の場合は、勧請して熱田神社を建てるのは非常に困難で、別宮・八剣宮から熱田神を勧請して、八剣神社を建てることになりますが、志波彦神社・鹽竈神社も厳しいのでしょうか?)

 ちなみに、静岡県浜松市には「六所神社」が異常に多くあり、「徳川家康の影響」と説明された方がおられますが、徳川家康の産土社「岡崎六所神社」の6柱の御祭神は塩竈神、浜松市内の旧・引佐郡の「六所神社」の6柱の御祭神は綿津見三神+住吉三神(底津海祇神、中津海祇神、上津海祇神、底津筒男命、中津筒男命、上津筒男命)です。氏子代表も「宮座」ではなく、「諸老人(もろーと/もろーど)」であり、関西の「諸人(もろと)」に似ています。一説に、藤原不比等が遠州灘の航海安全を願って、摂津国の住吉神社の神々を勧請したのが、浜松市における「六所神社」創建ブームの発端だとか。
 ただ、旧・浜松市の「六所神社」を調べてみると、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大御神、素盞男尊、月夜見尊、蛭児尊で、これは名古屋市の北部に集中している六所神社/六所社や出雲国の六所神社の御祭神と同じメンバーです。

★「静岡県浜松市の六所神社」
https://note.com/sz2020/n/nef72b6db67c4

★名古屋と言えば、奥州から逃げてきた藤原(石黒)重行が、尾張国守護・斯波氏に仕え、如意城主となると、領地・如意の式内・大井神社(名古屋市北区如意。御祭神は水神・罔象女命、速秋津彦命、速秋津姫命)に鹽竈神を祀ったので、大井神社は一時期「六所明神」と呼ばれたそうだが、現在、相殿に祀られている「塩竃六所大明神」のメンバーは、事勝国勝長狹命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、豊玉彦命、猿田彦命と、鹽竈神と住吉神との混合メンバーである。

■大井神社(社頭掲示板)
塩竃六所大明神
石黒大炊助藤原重行は、後醍醐天皇の皇子宗良親王を貴船城に迎え、建武の中興に功績のあった越中国余呉郷貴船城主石黒越中守藤原重之の子で、勤王の志を継ぎ度々兵を挙げたが、遂に越中国を去り、一時奥州へ移る。後亀山天皇の明徳4年(1393)に至り、奥州千賀に鎮座される塩竃六所大明神の御分霊を奉斎して、尾張国春日部郡如意郷に来て潜居し大井神社に合祀する。
以来氏神とともに崇敬され現在に至る。

 浜松市の「六所神社」で最強なのは、秋葉山本宮秋葉神社の近くにある犬居郷一宮・六所神社で、そのメンバーは、天照大神(伊勢神宮)、中筒男大神(住吉大社)、大山祇大神(大山祇神社)、誉田別命(宇佐神宮)、天児屋根大神(春日大社)、武甕槌大神(鹿島神宮)です。全国6社の御札を集めて建てた?

4.松平氏と神社


 松平郷は、三河国加茂郡にあり、三代目信光が「加茂朝臣」と名乗っており、家紋の「三つ葉葵」は、賀茂神社の神紋「二葉葵」からと言われているのですが、加茂郡に賀茂神社は存在しません。(三河国には加茂郡と信茂郡があり、一説に矢作川の「上郡」「下郡」が和銅の好字二字令で「加茂郡」「信茂郡」となったとか。)

熊野出身の鈴木氏:【熊野信仰】
在原松平氏(実は鈴木氏?):熊野神社【熊野信仰】
松平親氏:松平氏居館内に若宮八幡宮【八幡信仰】、六所神社【塩釜信仰】
松平泰親:若一王子霊社(現・若一神社)創建【熊野信仰】
酒井広親の母:祖母神社を再建【白山信仰】
松平清康:安祥城内の八幡社を岡崎城内に遷座【八幡信仰】
安祥松平家:三河三白山(大岡白山、上条白山媛、桜井神社)【白山信仰】
徳川家康:産土社:岡崎六所神社 / 氏神社:新田白山神社【白山信仰】
※得川氏の本貫地・得川荘には白山神社は存在しない。

★鹽竈六所宮(鹽竈六所明神)
・主祭神:塩土老翁命(神武天皇に東征を促した神)
・事勝国勝長狭命(塩土老翁命の別名)
・猿田彦命(伊勢国の太陽神)
・太田命(伊勢国の地主神で、猿田彦命の子孫)
・衝立船戸命(岐の神)
・興玉命(伊勢国(伊勢神宮)の地主神)

★陸奥総本社・鹽竈神社(鹽竈宮、鹽竈明神、鹽竈六所明神)
https://sousyanomiya.jp/

愛知県豊田市の松平地区の北が南朝遺臣の隠れ家の足助地区になるが、足助地区には八幡宮はあっても、鹽竈神社はない。足助地区の北が旭地区で、旭地区の北はもう美濃国。明智氏の本貫地とされる恵那市明智町である。旭地区と言えば、風鈴寺が有名であるが、その少し北の下切に鹽竈神社がある。安産の神であるので私には早いが、参拝すれば、塩土老翁命が進むべき道を示してくださり、猿田彦命がその道案内をしてくださるかもしれない。

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