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隻眼の「色男殿」大久保忠世
永禄7年(1564年)1月11日、土屋長吉重治、上和田城にて没。
同日、大久保忠世、目を射抜かれる。
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大久保浄玄申し上げけるは、甥、子供御手先え罷り出で申し、日夜の戦、暇無く仕り、剰へ正月十一日には、土呂、鍼崎、野寺、三ヶ所の一揆方、一手に罷り成り、上和田え働きける処に、一類の者供罷り出で、防ぎ戦申すに付けて、其の日、倅の新八郎は眼を射られ、甥の新十郎も眼を射られ、其の外の甥、子供、何れも手を負はざる者、一人も無くして、爰を先途としたる処え、上様御自身、早く駆け付けさせられ候に付きて、敵方、御影を見付け申すに付きて、我先にと逃げ退きけるに仍て、一類供も理運仕り候。
(大久保常源(忠俊)が申し上げけるには、「甥(大久保忠世)や倅(大久保忠勝)は先陣として、昼夜を問わず戦い、休む暇がありません。その上、1月11日には、土呂、針崎、野寺の3ヶ所の一揆方が一団となって、上和田城に攻めてきたので、大久保一族の者が出陣し、防戦しましたが、その日、倅の大久保忠勝は眼を射られ、甥の大久保忠世も眼を射られ、その外の甥、子、何れも負傷しました。「ここが正念場」と思ったところに、松平家康様が自ら、早々に駆け付けて下さり、敵方は、松平家康様の御姿を見付けて、我先にと逃げだしたので、大久保一族は勝利できました」と。)
大久保忠茂┬忠俊(常源)─忠勝(新八郎)
└忠員(平右衛門)┬忠世(新十郎)「色男殿」
└忠教(彦左衛門)「天下のご意見番」
ドラマに、左目に包帯をした大久保忠世が出てきて、
「史実通り! 時代考証の先生たち、やるねー!」
と思ったけど、包帯しての登場が早過ぎない?
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大久保忠世が眼を射られたのは、土屋長吉重治が死んだ日なんだ。
土屋長吉重治が死んだ場所は、岡崎城ではなく、上和田城なんだ。
土屋長吉重治が死ぬ時、その場に血が滲んだ包帯をした大久保忠世がいればよかった・・・と書くと「史実厨www」って非難されるけどね。せっかく包帯をして登場するなら、そこまで制作側にやる気があるのなら、史実通りに眼を射られた日から包帯をすればいいのにと思う。
ちなみに、本多正信が脚を負傷したのは「桶狭間の戦い」の時です。
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