見出し画像

信康の名字

少し前の話になりますが、第22回「設楽原の戦い」で、織田信長が、
「徳川三河守家康、岡崎三郎信康、我に仕えることを許す」
と言っていました。なぜ、
「徳川家康、徳川信康、我に仕えることを許す」
ではないのか、疑問に思った人はいませんか?

 家康は、信康の元服以前の永禄9年(1566年)に「徳川」に改姓しているので、学者は、「信康は、生前は「徳川信康」と名乗っていたはずだが、誅殺後、「松平信康」に格下げされた」としました。
 いずれにせよ、2017年NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』では、この当時の最新の学説が取り入れられ、信康は、「徳川信康」として登場しました。
 「松平信康」に格下げされたとはいえ、江戸時代(文化11年12月)の西念寺(東京都新宿区若葉二丁目)の五輪塔の地輪には「徳川信康君」と彫られています。

西念寺:信康の介錯人に指名された服部正成(法名・専称院殿安譽西念大禅定門)が、出家して西念と号し、諸国行脚後、四谷に信康の菩提を弔う専称山安養院西念寺を建てた(正確には江戸城拡張工事に伴う清水谷の安養院の後身寺)。正面に「清瀧寺殿前三州達岩善通大居士」の刻銘がある「徳川信康供養塔」(現地案内板では「岡崎三郎信康供養塔」。文化11年12月に服部保紹が補修)がある。

正面に「清瀧寺殿前三州達岩善通大居士」
背面に「此御廟者徳川信康君 御法号清瀧寺殿也 天正七年七月十五日逝去于時御館齢二十有一 当時以故 余先祖石見守平正種五男石見守平正成建立西念寺而所奉造立御廟也 然年祀久遠盤石埋毀 仍聊続先祖之遺威与西念寺十九世現住真誉同志営之 文化十一年甲戌之歳十二月奉修補者也 服部一郎右衛門平保紹謹誌之」

「徳川信康供養塔」(西念寺)

 徳川家康周辺の研究は急速に進んでいます。織田信長が、佐久間信盛に宛てた天正3年(1575年)6月28日付書状で、信康のことを「松平三郎」と呼んでいることが明らかになり、家康が「徳川」姓に改称した後も、信康は「松平」姓のままだったことが判明しました。(現在の歴史学は一次史料(手紙、日記)重視ですから、このように1通の手紙が定説を変えてしまうこともあります。)
ですから、最新の学説を取り入れれば、
「徳川三河守家康、松平三郎信康、我に仕えることを許す」
になります。


 なぜ信康が「徳川」を名乗らなかったのかは、不明です。父が嫌いで、「父と同じ名字は嫌だ」とでも言ったのでしょうか?
 私の説は、「永禄9年(1566年)の源氏長者(足利将軍)不在時のどさくさ紛れの藤原長者による「藤原」改姓時には、得川氏は藤原氏ではなく、源氏であるので、家康一代に限り「徳川藤原家康」と名乗る許可が下り、信康は「徳川」と名乗れなかったが、「源」に復姓して「徳川源家康」と名乗った時には、子孫も「徳川」を名乗ることが許可された。しかし、その時には既に信康は死んでいた」です。

 江戸時代は、「徳川」姓の使用は、徳川将軍家、御三家、御三卿のみに限定されて、「徳川」姓が特別視されました。「松平」姓を名乗っていたのは18家で、「十八松平」と呼ばれています。
 ちなみに、光秀も「惟任光秀」と名乗り、自分以外には「明智」と名乗らせました。「徳川」と「松平」の関係と同じです。


■時代考証の平山優先生の回答

Q:平山先生、「どうする家康」を一緒に見ている10歳の娘より、「なんで信康はまだ松平なの?」という素朴な疑問を投げかけられました。 平山先生のご見解はどういったものでしょうか?

A:家康は、関白近衛前久の斡旋により正親町天皇から、「従五位下三河守」に叙任され、姓を「徳川」に改めました。この結果、三河で「徳川」姓は家康一人のみとなったわけです。彼は、松平一族が多くいる三河で、それより上位に立つこととなりました(叙任と改姓はそれが狙いの一つ)。
 家康は、「徳川」姓を許可する範囲を極めて限定しており、息子信康ですら、「松平二郎三郎」のままでした(彼が成長し、家督を継いだら「徳川」になったことでしょう)。家康の生前に「徳川」姓を許可されたのは、二代将軍秀忠、九男義直(尾張徳川)、十男頼宣(紀州徳川)の三人だけです。それほど、朝廷の認可を受けた「徳川」姓を尊び、松平一族よりも上の家格の表現と、家康は位置づけていたのでしょう。その後、水戸徳川家の祖頼房も許可されましたが、それは家康の生前ではないようです(異説もあるが、確認できない)。


記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。