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徳川家康の側室・阿茶局

この記事は、「徳川家康の側室・茶阿局について調べて書いてみた」の続編「徳川家康の側室・阿茶局について書いてみた」になります。前者は「小夜の中山・夜泣石」の調査に行った折、茶阿局の生まれ故郷・金谷まで調査に行って「調べて書いてみた」有料記事で、後者は誰もが知っている事をさらっと「書いてみた」無料の「コタツ記事」です。どちらがいいかと言えば、前者はマニアック過ぎて、研究者向けと言うか、万人向けではないですね。

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  ──良き出会いが人を変える。

 徳川家康の側室には「阿茶局」と「茶阿局」がいるので紛らわしい。そもそも、徳川家康の妻は20人以上、子は16人以上(11男5女)とされ、全員の名を覚えられない。11人の息子は、

長男・徳川(松平)信康(自害。母:築山殿)
次男・結城秀康(豊臣秀吉に養子後、結城家の婿養子に出す。母:小督局)
三男・徳川秀忠(第2代将軍。母:西郷局)
四男・松平忠吉(尾張国清洲藩主。母:西郷局)
五男・松平信吉(武田信吉。母:下山殿)
六男・松平忠輝(越後国高田藩主。母:茶阿局)
七男・松平松千代(早逝。母:茶阿局)
八男・平岩仙千代(平岩親吉へ養子に出す。母:お亀)
九男・徳川義直(尾張徳川家の祖。母:お亀)
10男・徳川頼宣(紀州徳川家の祖。母:お万)
11男・徳川頼房(水戸徳川家の祖。母:お万)

であり、母親は、正室・築山殿と、側室・小督局、西郷局、下山殿、茶阿局、お亀、お万であって、継室・朝日姫(豊臣秀吉の妹)や阿茶局は男子を生んでいない。

 阿茶局は、馬術、武術に優れ、徳川家康に同行して戦場へ行っており、「側室」というよりも、「側近」「参謀」「戦友」に近い存在であったというが、私は「戦いの女神・イシュタル」「神功皇后」的存在だったと思っている。古代に生まれていれば、「月が出た。潮の流れも良い。さぁ、白村江へ向けて出港(出陣)だ!」
 熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(額田王)
と詠んで、軍を鼓舞しそうである。(「名は体をあらわす」という。須和は軍神・諏訪大明神(建御名方命)の生まれ変わりだったのかもしれない。)

 ──この局、ことに出頭せし人にて、おほかた御陣中にも召しくせらるる。(『以貴小伝』)

「守護神」的存在に加え、戦場では女性ならではの心配りが役立ったこともあろう。「腹が減っては戦が出来ぬ」と言う。家臣が、徳川家康に「兵が携帯食が無くて困っている」と訴えると、徳川家康は、「そんなものが無くても戦える。来ないというなら儂一人で出陣する」と怒鳴ったが、阿茶局は、こういう事態を予想し、大量の笹粽(ささちまき)を用意していたという。

※「参陣した側室」というと、お梶がいる。本名は、茶阿局の娘と同じ「於八(おはち)」であったが、徳川家康が縁起をかついで「おかち」と改めさせたという。(漢字表記は「お梶」であるが、「関ヶ原の戦い」で勝利すると「お勝」と表記を改めた。) 
 お梶は、「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」では、男装し、騎馬にて同行した。特に、「大坂の陣」では、真田軍の徳川本陣突入で逃げる者もいた中、阿茶局と2人で、徳川家康を守ったという。

 阿茶局は、名を須和(すわ)といった。父は、武田家家臣・飯田直政で、弘治元年(1555年)2月13日に甲斐国甲府(山梨県甲府市)で生まれた。男勝りで、馬術にも、武術(薙刀術、棒術)にも長けていたという。

(1)前夫・神尾忠重


 飯田須和は、天正元年(1573年)、19歳の時、今川家家臣・神尾忠重と結婚し、相次いで2児を儲けた。

・長男(天正2年生まれ):神尾守世(猪之助)
・次男(天正3年生まれ):神尾守繁

 江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』によれば、神尾氏は、元は加納氏と言い、賀茂神社の神職であったという。夫・神尾忠重は今川家の家臣だったが、今川家滅亡後は武田家の一条信龍(武田信虎の八男、もしくは、九男。武田信玄(武田信虎の嫡男)の異母弟)の家臣となり、「天正16年4月(守富が呈譜、天正5年7月15日)死す。年43」とある。
 前夫・神尾忠重の没年であるが、飯田須和は、徳川家康の側室となり、天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」には妊娠していたというから、天正16年死亡説(『寛政重修諸家譜』「神尾忠重」)よりも、天正5年死亡説(『寛政重修諸家譜』「神尾守富」)の方が正しいと思われる。
 誤伝はつきものである。たとえば、元亀3年(1572年)の「三方ヶ原の戦い」の時、徳川家康は、阿茶局を万斛村の庄屋・鈴木権右衛門屋敷に隠したというが、飯田須和と神尾忠重と結婚は翌・天正元年(1573年)のことであり、その前年に、飯田須和は、徳川家康と結婚していないはずである。

(2)徳川家康とご対面


 神尾忠重が亡くなった翌・天正6年(1578年)、未亡人・神尾須和は、万斛村(静岡県浜松市東区中郡町)の庄屋・鈴木権右衛門の屋敷で、徳川家康とお見合いし、翌・天正7年(1579年)5月に徳川家康の側室になったとも、天正10年(1582年)の「天正壬午の乱」の際、黒駒(山梨県笛吹市御坂町)で、父・飯田直政や前夫・神尾忠重についてよく知っている徳川家康に「歎訴」(夫と死別し、子供を抱えて生活苦であるという訴え)して側室になったとも。

 ─なぜ徳川家康は前夫・神尾忠重についてよく知っていたのか?

■『柳営婦女伝系』
天正十年壬午、東照宮信州御打入之節、其妻幼子猪之助を携へ、黒駒に於て東照宮へ歎訴申上る。東照宮、其昔、駿府に御座の時、此妻御好みの事、被思召出、母子共被召仕、「阿茶局」と称し近仕す。

 竹千代(後の徳川家康)は、駿府へ人質に出されたが、この時、駿府人質屋敷が完成するまで神尾屋敷にいたとされ、『柳営婦女伝系』には、黒駒で神尾須和に会った時、神尾氏の奥さんに恋していたことを思い出し、その縁で神尾須和と神尾猪之助(後の神尾守世)を召し抱えたとある。

(3)徳川家康の側室・阿茶局


 未亡人・神尾須和は、徳川家康の側室・阿茶局となったが、天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」の時・・・

──尾張長久手の御陣の節、懐胎し戦場に於いて流産す。(『幕府詐胤伝』)

「小牧・長久手の戦い」に参陣し、戦場で流産して以降、子が産めない体になったという。実際、この流産以降、阿茶局は妊娠していない。
 この頃の徳川家康は、子供を産んだ経験のある健康な女性を側室にし、「後家好み」と言われていた。徳川家康にとって、「側室の条件」とは、「子を産めること」であったのである。阿茶局の年齢は30歳に達した。徳川家康の子を産めないとなると、側室としての価値は無い。

 子を産めなくなった阿茶局は、弟・飯田又左衛門の娘・菊を養女をとし、岡田元次(後掲『徳川実紀』では、松平周防守康重の家士・岡田升右衛門元次)の子・元勝(『徳川実紀』では、松平周防守康重の御家人・岡田内記元勝)と結婚させ、「神尾」を名乗らせた。

 阿茶局は、外交手腕に長け、慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」においては、徳川家康側近・本多正純と共に豊臣方の使者として派遣された常高院(淀殿の妹)と交渉し、和平を成立させて、淀君&豊臣秀頼母子から誓書をとるなど政治的役割も果たした。この阿茶局の才知に惚れこんでいた徳川家康は(「心賢しき女なれば、大御所の御気色に叶ひ」『徳川実紀』)、離婚せず、側室・西郷局が天正17年(1589年)に亡くなると、西郷局の遺児(徳川秀忠、松平忠吉)を阿茶局に託した。こうして阿茶局は、「第二代将軍・徳川秀忠の養母」という地位を得た。

《阿茶局の子》

・長男:神尾守世(猪之助、久宗、又兵衛、刑部少輔、浄叟)
・次男:神尾守繁
・?:「小牧・長久手の戦い」の時、戦場で流産
・養女:菊姫(弟・飯田又左衛門の娘。神尾元勝室)
・養子:神尾元勝(岡田元次の子。阿茶局の養女の婿養子。南町奉行)
・徳川秀忠(実母:西郷局)を後見
・松平忠吉(実母:西郷局)を後見

『徳川実紀』「慶長11年12月8日の条」
 松平周防守康重の家士・岡田升右衛門元次は、永禄のころより康重にしたがひ戦功あるをもて、その子・内記元勝を御家人にめし出さる。こゝに阿茶局と聞えしは、甲州武田の家人・飯田筑後某が女にて、今川の家人・神尾孫右衛門忠重に嫁しけるが、忠重死して後、当家に宮仕す。心さかしき女なれば、大御所の御けしきにかなひ、長久手以来、所々の御陣にも供せられて、万に出頭せしものなるが、この元勝をその養子になされて「神尾」を称す。局の子・又兵衛守世が弟となりて、のちに備前守といひしは、これなり。

 阿茶局を信頼していた徳川家康は、遺言で、自分が死んでも他の側室のように剃髪して尼になることを禁じた。このため、阿茶局は、徳川家康の死後も落飾せず、300石与えられて江戸城竹橋門内の屋敷に住み、徳川秀忠が亡くなると、自分の役目が終わったと思ったのか、髪を下ろした。

■『徳川実紀』
阿茶の局、清雲院は江戸へ参り、阿茶局には竹橋の内にて宅地下され、中野村にて厨料三百石給ひ、清雲院にも同所にて五百石給ふ。

 元和6年(1620年)、徳川秀忠の5女・和子が、御水尾天皇の中宮として入内する際、阿茶局は、母親代わりとして始終付き添い、また元和9年(1623年)の皇女(後の明正天皇)出産の際にも上洛して世話した。こうして、後水尾天皇より従一位を賜り、「神尾一位局」「一位局」「一位尼」と称されるようになった。無名に近い武士の娘が従一位に昇格するとは、異例の出世である。「女豊臣秀吉」である。

 寛永14年(1637)1月22日、83歳で没し、自身で生前に建立しておいた雲光院(東京都江東区三好)に葬られた。法名は「雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉」である。

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「阿茶」は、「焼酎の緑茶割り」に適した焼酎であり、阿茶局とは関係ないらしい。

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