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【エモい映画評】「そして父になる」に見る「親」と「子」、人間の肖像

2013年に書いた映画評がPCのなかで眠ってたのと、是枝さんがとうとうパルムドール賞を受賞したので、その記念に。

是枝さんの作品のよさは、家族関係とか、人間関係をさまざまな角度でみているところだとおもってます。今回の受賞を機に、是枝さんの作品を見るひとが増えれば、人生をもっと大切にするひとが増えるのではないかと。すこしでもそのお手伝いができたらなとおもっています。

とくに、これから親になる人。

ぜひこの作品を見てみてください。ちょっとネタバレが入っているので、作品を観てから、このnoteを見てみてくださいね。

もう見たってひとは、この映画評を見て、もういちど是枝さんの作品を観てみましょう。

万引き家族も観ましょう。

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子供の取り違えの発覚。血の繋がっていない子を自分の子供として愛せるか。
仕事一辺倒で生きてきた野々宮良太(福山雅治)は息子の慶多とは真正面に向き合っていなかった。お受験、ピアノなどの習い事を一通り経験させ、まるで世間体の為に子供に習い事をさせている程度にしか感じなかった。しかし、みどり(尾野真千子)は良太にはあくまでも忠実に生きてきた。一方、慶太の実の両親、斎木家は子供三人の五人家族である。主人の雄大(リリーフランキー)は街の電気屋を営んでおり、一流企業に勤める良太よりは明らかに貧相な暮らしぶりではあるが、それでも、家庭は幸せそうであった。
子は親に従って生きるしかない事の残酷さを思い知った。
親の言う事に従順な慶多はお受験もこなし、ピアノもする。母に「辛くない?」と問われれば、「お父さんに褒めてもらえるから。」と穢れなく言う。年端の行かぬ子供は親の言う事に従うしかない生き物なのだ。親を疑う事を知らず、純粋に信じている。
子供の取り違えを知ったとき、はじめに言った言葉は「やっぱり」それは、「自分の能力からしたらもっとできるはずなのに」という違和感からの発言であった。みどりはこどもの能力ばかりをみて、性格や可愛らしさをなにも見ていない良太に対して「あなたのあの言葉、一生忘れない。」と言い放つ。

こどもの存在意義とは?

良太のような人間は、自分が「できる」人間で、その遺伝子を受け継いだ子供は「できる」人間になるのが当たり前だと感じる。しかし、その良太自身が評価する自分自身というのは非常に不正確なもので、自分の至らない点、優れていない部分に関しては評価しようとしない。悲しいことだが、世の中には一定数こういう人間が存在する。

そして、こどもの取り違えである。

自分の優れている部分しか評価しようとしない人間は、良太のようなものの見方をする。本作の面白い点は、子供を取り違えたことで、良太のそういうものの見方、人間性があぶりだされたところにある。

良太は何をやってもいまひとつな子供、能力のない子供は自分のせいではないのだと、自分の遺伝子を受け継ぐはずの子供のことをまるで自分とは関係のないようなものとして見たくなる。

子供をもつというのは、自分自身を理解し、納得し、受け入れている者だけが許されることだ。納得もしていないのに、子供をもってしまうのは、うまれてくる子供に対して失礼である。こういうことを理解していないまま、快楽のためのセックスをすると、「親が子供を殺す」というわりとよく見かけるニュースになったりする。

子供をもつに値しない親とは、自分自身に存在する欠点、至らなさ、つまり「不完全さを受け入れていない者」のことである。これを理解していない親は、その「不完全さ」を子供に転嫁しようとする。なぜなら、自分には欠点がないと思っているから。そうやって、子供に対して、「あなたは○○だ」といって、子供を責めるのは果たしてそれが正解なのかどうかはしっかりと考えたほうがいい。

純朴な子供は、そんな親からの「おまえはダメだ」というレッテルを受け入れてしまったりするのがこわい。それは子供のせいではなくて、その親の遺伝的性質のせいであるのかもしれないのに。そうやって、子供はスポイルされていく。いい親は子供と対等だ。「こんな不完全な私だけど、こんな生き方もできるんだよって、お前の力で私にみせてくれないか?」と子供に教えを乞うくらいがちょうどいい。親が子供に敬意を払うとはそういうことだ。「子は親に従属し、敬うもの」と勘違いするのは愚の骨頂だ。しかし、そんな風に考える親がこの世にはたくさんいるのが現実だと思う。子供は親を導く偉大な存在であるはずなのに。

雄大と良太が河原で凧揚げの話をしていた時の事。凧揚げとか子供としないのか?と訊く雄大に対して、父親に連れて行って貰った事がないからと言う。雄大は「そんな事を真似する必要はないだろ。」と良太に言い放つ。つまり良太は父親との関係に恵まれなていなかったのだ。子供と過ごす時間の少ない親は、そうでない親と比べて、子供にしっかりと伝えるべき事を伝える機会が少ない。だから、そういったことには特段の努力を払う必要がある。ただ「凧をあげる」というように捉えている良太はダメで、それはただの凧揚げではなく、「子供と過ごす時間を設ける手段」と捉えるべきなのだ。しかし、父親から勘違いな教育をされ、そのまま育ってしまった良太はそう考えることができなかったのだ。良太自身が自分の親の教育の被害者であったわけだ。

まとめると血が繋がっているか否かは、親になる覚悟のある者にとってはそれほど重要な要素ではない。血はつながっていなくても親にはなれる。大切なのは「自分の不完全さを受け入れ」子供に対して対等な目線をもてるかどうかだけだ。

そして良太は父になる。

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是枝さんおめでとうございました。

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