「万引き家族」にみるこれからの時代の人間関係、組織の在り方。
事件的に素晴らしい作品を観たと思いました。これからの不明確な時代を生きる上で必要な個人の精神性を見事に描き切った先進先鋭的な作品ではないかと。
きっと120分に収めるのは大変だったと思われる複雑さがあり、各登場人物についてオムニバスとして切り出してもきっとおもしろくなるような濃密なバックグラウンドが用意されていたからこそ、パルムドール受賞に至ったのでしょう。
家族という共同体があって、そこに所属するひとたちが共有していたものは結局なんだったのだろうか。家族には絆があるものだと多くのひとは考えるだろうけど、どうもこの家族は単純にそうではない。孤独さを共有した集まりに見えました。
関係の切なさというのは。どんなに楽しい思い出があったとしても、たった一回の行為や言葉で簡単に崩れてしまうその脆さにあるとおもいます。すごした時間の長さや深さももはやどうでもよくなってしまう。むしろ、それらは記憶として残像になって焦げ付き、後生心を悩ませるものになりかわったりする。
祥太は、治に夜逃げしようとしていたのは本当なのかと聞く。それに対して治は謝った。父親からおじさんに戻るよ。とそこで言った。そのときの治の平静さがとても奇妙だった。
祥太は、習志野ナンバーの赤いvitsに捨てられていたところを、治と伸代に拾われたことになっている。
捨てられていたものを拾っただけの関係だとすれば、児童施設に入る現在までの、治に教わった万引きをして、生活の足しを得ながら、家族のように濃密な時間を過ごしてきた今までに、祥太はなにを思うのでしょうか。
車の中に置き去りにするような家族と、基本的には家族のような関係性があって、いざというときには自分を置いて夜逃げしてしまう家族のような集団。
そこに属する個人が独立して、孤独を自分のものにすることができているのならば、どっちにいたとしても大きく悪いことにはならないのではないかと。ただし幼児など、他者から庇護されないと生命にかかわるような存在を除いて。つまるところ、どちらに所属したとしても、生きる個人がするべきことは、ひたすら孤独に生きることなのです。それが個人をもっとも強くしてくれます。
たのしい日々の記憶と共生と裏切りが並立しうる世界を生きる精神が「孤独」だとして、実はこの世に生きるだれもがそれをもって生きる必要があるものだと思いませんか。
何もかもが不明確な時代にさしかかっていますが、いままで以上に個人が強く生きなくてはならない時代がやってきて、もはや家族の絆では足りないくらいに世の中が複雑になっていくことは、ひかえめに言って、それほど難しくなく予想されます。
元来、日本人は農耕民族で、家長制度を敷くようなほどに本質的に群れをなして生きることに慣れています。やがて時代が進み、核家族化が進行し、農業などの第一次産業から、そのほかのサービス業である第三次産業が中心的な現代が訪れました。
かつてのような家を中心とした共同体の力というのは、相対的に希薄なものになり続けています。
バス停で祥太は治にわざと万引きを失敗したことを告げます。治は動き出したバスを祥太の名前を呼びながら追いかけます。祥太は最初は振り返ろうともしませんでしたが、最後に振り返ります。それがとても印象的でした。
誰もが今まで以上に強くならなければならない時代において必要なのは、よかった過去をかみしめることではなくて、どんな過去であってもそれをじっと見据えることなのではないでしょうか。いやな過去は忘れてしまおうというのもありますが、ある意味、忘れてしまおうとしている時点で、過去に囚われていると思えなくもない。そんなことをしなくても、それはそれとしてほっておけばいい。実は生きる難しさというのは、いやなことをどう処理するかという問題に集約されると思っていて、それは過去との付き合い方に一番よく現れる。私の経験上、つよい人は過去を忘れないし、それに支配されるのではなく、逆に過去を支配するひとだったりします。
それに付き合うことはせず、そばに置いてほっておけばいいのです。
そして、何よりもリンちゃんが象徴的でした。
親から虐待を受けて、本当の家族よりも柴田の家族を選び、祥太の万引きから警察に柴田達が捕まったところで、本当の家族のもとに戻ることになるわけですが、だからといって、状況が変化するわけでもなく、母親から邪険に扱われるシーンは痛切です。
この物語はそんなリンちゃんが一人遊びをしているシーンで終わります。とくに苦しくもたのしくもないような表情の彼女は、まるで今までのことなど何てことないと言っているかのように感じました。愛情に恵まれない家庭に生まれたということは引き連れて、強く生きていく彼女の姿が見えなくもありません。
そこからエンドロールが始まるわけですが、そこで流れる音楽がまた素晴らしいとおもいました。決して悲しい感じでも、楽しい感じでもなく、無機質な印象の音楽なのです。まるで物語世界の精神性を体現したもののように感じました。
家族、学校、会社、現代を生きていると様々な組織、共同体に属することになります。そして、所属するすべての組織に恵まれているという人はそれほど多くはないでしょう。そこには人間関係の悩みがあり、お金の悩みがあり、と様々なものがあると思います。ようは共同体や組織というのは運営するのが難しいのです。関わる人間の能力や性格、生い立ちが多岐にわたり、それらが平穏無事に交流できること自体がそもそも奇跡的だからです。しかしながら、この複雑さを簡潔にしてくれるものがあって、それが「孤独」なのです。共同体や組織の特徴は「共有」です。個人と個人が関わりあうことで必ず何かが共有されます。そして皮肉にも共有するがゆえにさまざまな摩擦が生まれたりします。共有には各人の能力や性格や背景に由来するオリジナリティが関与し、そのオリジナリティがうまいこと理解されないことで摩擦やコミュニケーション不足が発生します。そのオリジナリティが客観的に悪なものの場合には事件的な事案(パワハラ、セクハラ、いじめ、虐待等)に発展します。そして、このような事態を避けることを可能にしてくれるのが「孤独」なのです。自立した自分、ひとりでもやっていける自分が確立されていないと、ひとは組織において不必要な共有を行うのです。共有行為は基本的には相互理解を期待してよいものが組織でありますが、それはあくまでも「体」であって、それを本質的に解釈しているとされる感情は、いやなものはいやだとしか解釈しません。その利己的な感情(たとえば上司の機嫌とか)から逃れるには、共有を控えるのが一番なのです。では、どうやったら共有を控えることができるのかとうと、孤独に生きることです。
孤独を選んだひと、選ばざるを得なかったひとたちの集まりが「万引き家族」ではないかと思っています。彼らは家族のような絆ではなく、孤独さを家族の絆のような擬態させることで、かなり特殊で変幻自在なつながりを手にしました。祥太を置いて夜逃げしようとする彼らの様子にそれがおもしろいように見て取れるのではないかと。
そして祥太くんやリンちゃんに垣間見る強さというのは、孤独に生きていく決意をした人の眼差しです。
様々な孤独がモザイク的にかかわりあったことで生まれる独特な世界観を是枝さんは音楽と映像と脚本で見事に表現されたのです。この物語が世界中で観られることで、共同体におもねるだけではなく、個人の孤独によって切り開かれる人生があることが理解されると世の中はよくなっていくのではないかと思いました。強く生きるためにはまず孤独であることを受け入れることからはじまるのではないでしょうか。
この世でもっともうまくいく集団、組織、共同体は、孤独なひとの集まりなのかもしれません。そして、関係性を深めるために必要なものは、過ごした時間の長さではなくて、深さです。
つまり、互いにそれが有益であるという共通認識がとれた状態をいかに維持できるかということです。
生きていくために必要なものは、お金でも、友人でもなくて、孤独なのだとおもいました。
万引き家族、もう一度観たい映画ですよね。
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