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なぜ敬語を使うのか? ~世の中の「当たり前」を疑う仮説のたて方と検証のし方~2



「敬語は不要である」

ならば、なぜ世の中に敬語があるのか。
なぜ敬語は現在も無くなっていないのか。

その理由を、20個程度考えてみればいい。

「昔から敬語が使われてたからだ」とか、「敬語を使えという考えの年寄りが多いからだ」とか、2、3個はすぐに思いつくだろう。 

しかし、その簡単に思いついた理由に飛び付いて、思考停止してはいけない。

もっと他にも理由が無いか考え続けて、20個も考えつく頃には、もう少し複雑なものの見方が身についているはずだ。


 「目上の人を敬う必要は無い」という仮説についても同様だ。


 例えば私は、社会生活において目上の人を尊敬するのは、人類の平等性を守るためだと考えている。


 かつての身分社会において、殿様は絶対的に偉く、農民は絶対的に下であった。
しかし、その中でも「老人は偉い」という考え方があることで、殿様の子どもが農民のおじいさんに話しかけるときには、労わりながら話しかけていたという。

 つまり、身分社会という歪な制度が、年上を敬うという考え方によって、わずかに是正されていたのだ。

人間社会はどうしても、権力や財力によって上下関係が生まれてしまうが、それに関係なく年上を敬うということによって、力による上下関係の中にも平等な部分が生まれる。


 「年寄りは敬わなければならない」という考え方は、本来平等であるはずの人間に生じた歪な上下関係を、標準化してくれるはたらきがある。


 もちろん他にも、平均寿命が短いかつての社会では、老人というのは大変多くの知識を持っていたから尊敬されていた、などという論理的・合理的な理由はある。

 また、人間が社会の中で役割を演じていくために、「目上や年上を敬う」という考え方は有効だからだ、という理由もある。

 人間は本来平等である。

しかし例えば学校で、先生と生徒という上下関係があった方が、子どもは先生の教えることを素直に聞くだろう。

それを成立させるためには、「先生は偉い」「年上は偉い」という、無根拠で無意味なルールのようなものが必要なのだ。

 そしてそのために、例えば敬語などはあるのだと私は思う。

生徒が先生に対して敬語を使うことは、先生という役割、生徒という役割を明確にする。

そうして生まれた役割は肩書となって、人間社会において大きな意味を持つようになる。


 実際、大半の人間は、話の正否を判断するとき、自分でその話を論理的・科学的に解析して信憑性を判定するのではなく、

「誰が話しているか」によって判断する。


 例えば、医療についての話ならば、高名な医者の先生が話すことの方が、そうではない普通の人が話すことよりも、正しいに違いないと考えるだろう。

 このように、肩書は人間社会における発言力に大きく影響する。


 逆に言えば、大半の人間は論理的・科学的な根拠をもって話の正否を判断している訳ではないので、世の中の「当たり前」を疑うことはやはり正しいのだ。

 しかし、理由を突き詰めて十分に考える、上記のように自分で仮説をたてて検証する、ということができていない内は、疑問を感じながらでも、不満を持ちながらでも、現行のルールに従うべきだろうと、私は思う。

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