忽那の雫第486話 投げ餌を自分で採取していたあの頃の話し
今日はちょっと懐かしい話をしてみる。
ワタシは子供の頃から釣りのエサを買うより掘ることが多かった。^ - ^
生まれ育った環境がそうさせていたのかもしれないが、お小遣いでエサを買えないくらいの頃は、自分でゴカイを掘りに行って、釣る分くらいを残して、あとは近所の釣具店に売りに行った。
そして少しの稼ぎを得ていた←昭和の時代ならではヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3
家は貧しくもなく、金持ちでもない、普通の暮らしぶりで、たまにお小遣いをねだると喜んで渡してくれた優しい両親のもと育ったが、10才くらいから始めた釣りは父ちゃんに教えてもらいながらちゃんとハリまで結ぶことが出来るようになった。^ - ^
父ちゃんは、釣りだけでなくエサの堀り方も教えてくれた。
これはワタシにとって、今思えば大収穫の時期で、何を貰うよりも技術をもらった感謝の時期だった。(^◇^)
まだ子供の頃は、ゴカイが掘れればじゅうぶんで、近くの海岸でキュウセンやトラハゼ、ガッチョやチャリコなどが面白いように釣れたから、土曜日には学校を終えるとすぐにゴカイを掘りに行った。^ - ^
当時のエサ掘り場は、自分が元通っていた保育園のすぐ前の漁港の波止の中。
護岸の内側の足元を敷き詰める敷石の隙間を掘ると面白いくらいゴカイが掘れた。
ワタシの通った保育園と前の漁港は今もそのまんまだが、潮が引いたら干上がる敷石が今もあるかはわからない。
そして現在、そのすぐそばの松山観光港のフェリー乗り場が埋め立てられる前、そこは広い干潟だった。
そこでは、スムシ(イチヨセ)や鯛虫(アカムシ)、そして本虫が大量に掘れた^o^
それももちろん父ちゃんから掘り方を教わった。
当時、イチヨセなんかは釣具店でも手に入らないような餌で、貴重なエサをふんだんに使った釣りが出来たことは幸せなことだった。
その干潟は埋め立てられてもう無いが、先日久しぶりに松山観光港のフェリー岸壁に立った。←ジジーになってるじゃねーか!ヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3
ワタシが立つその下にあの時の干潟があったのである。
スムシは柔らかい竿を使って静かにブッ込む釣り方で、投げ釣りの原型のような釣り。
スムシを投げ込んでおくと、デッカいチヌがよく釣れた。
そして、鯛虫や本虫も掘るようになり、高価な餌を買うことが少なかった。
ここの他にもエサを採取していた場所がある。
自転車に乗り始めてからは、行動範囲がぐっと広がり港山あたりまで行くようになった。
今は中島行きフェリー乗り場から見える三津の渡し付近のゴロタ浜は本虫がたくさん居た。
中島へ出発前はいつも懐かしいこの光景を見ている。(^o^)
古くなって捨てる前の包丁をもらい、先を5センチ程度曲げると、エサを掘る道具が出来上がる。
それと小さなバケツを持ってエサを掘りに行く。
三津の渡し近くのエサ堀り場は赤い矢印のあたり。
50年経った今も虫が掘れるかはまったくわからない^o^
この近くに梅津寺の海水浴場があるが、昔梅津寺パークがあった所から納涼台が突き出ていた。
その納涼台跡のまわりの砂浜にはスムシがたくさん居てたくさん掘れた。
ついでに最近、巨石群として有名になっている興居島前の白石の鼻。
白石の鼻が見える海岸道路を降りた所に磯が広がるが、ワタシたちは長磯と呼び、本虫やスムシをたっぷり掘れる場所として大切にしていた。^ - ^
向こうに白い巨石が見えるが、ワタシたちはアレを三つ石と呼んで親しんだ。
もうあの頃のようにエサを掘ることはないが、いつまでもそのままの姿であってほしい場所である。(^ ^)
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