2023/09/25『意識、キャンバス』
久しぶりに書くけれど、日記にはならないという感じがする。気付きを外部に出力したい感じで、あんまり僕のいつものツイッターとは違う感じでちょっと暗い話になりそうだからnoteに書く。といっても自分的には暗いというかやっと気付けた感じが大きくて変な感じがするのだけれど。
認識の話。
俺の認識は、キャンバスがあって、それは布地じゃなくて死にたさがピンと張っているのだと思う。中学生の頃は死にたい死にたい言ってたけど最近はもっぱら言わなくなった。言っても無駄だって思うのとなるべく思わないように、出力として出してしまうと周りに伝わる。それは面白くもないことだ。
キャンバスの下地、希死念慮を隠すように研究やアニメや趣味なんかをベタベタ塗っている。それはそれで面白いと心から思っているし、素晴らしいものと思っている。
ただ、時折それが意識からペリッと剥がれてしまったり、もしくはキャンバスを裏側から覗いてしまった時に急に死にたさがやってくる。根幹に希死念慮がある。
僕の意識や認識はキャンバスのようだと思う。
意識を液体みたい捉えたり、〇〇で誤魔化すみたいなレイヤーとして捉えたりする感じではないように感じる。
「死んだら研究できねぇぞ」「死んだら来季のアニメどうすんの」みたいなことを言われることがある。ヲタクの友達が多いので。
そこで、微妙な違和感が頭によぎるのは、こういう訳だったということだ。確かに死にたさをみえないように、生きる希望としてアニメや研究をしているが、根元に死にたさがあってどうも倒錯的というか本末転倒と言った感じがするのだ。
こういう意識の捉え方は成長や加齢や環境によって変わるのだろうか。
私は、一度もキャンバスを使ったことはない。
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