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未だに中原岬を年に一度は思い出す
ニート、引きこもり、そして多くのオタクの天使。それが中原岬。
こういった称号を持つ「聖女」的存在は、二次元美少女には案外多く、キリスト教における聖人の数に圧倒される心境を時折感じる。
だが、中原岬とはそのような抽象世界のなかで、具象的には滝本竜彦氏の小説『N.H.K.にようこそ!』を原作とし、漫画やアニメとなっているものを通して、我々は中原岬を垣間見たことのある、より天使たちの代表格に位階をもつ存在。
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ややもすると、傍からみればその他の“ヒロイン”よろしく、彼女もまた、文字通り天使然としたスーパー美少女のように見える。
だが、中原岬が中原岬として他の追随を許さないのは、我々もとい主人公と同じく、彼女もまた“ダメ人間”という点である。まるで蓮の花の如く。
彼女は救世主でもあれば、隣人でもあり、そしてまた、僕らを利用する者でもある。
その事実を通して、僕達は負の相互依存へと落ち込み、そしてその関係を昇華させた。
だが、ネットには「まだ中原岬がやってこない」という非痛にして虚空にこだまするような呟きが存在し続けている。
それはきっと、中原岬という衝撃が何かの拍子にフラッシュバックしているのだろう。
残念ながら、中原岬はやってこない。それは次元の差のせいではない。神が存在しても、我々の声には返事をしないように。
そしてまた、『N.H.K.にようこそ!』の主人公のように、外界と繋がっていないからだ。
中原岬がやってこないことを、彼はネットに書いたりはしない。街中で、公園で、情けなく思うのである。
そのとき、草葉の影から傷ついた彼女が再び微笑んでくるに違いない。
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さて、なぜ今このタイミングで彼女の話題かというと、新年があけたから。
そもそも「明けましておめでとうございます」という言葉は、【予祝】と呼ばれる行為だ。
常識的に考えて、年が明けても別段、何もおめでたくはない。
けれどもそうではなく、予め祝っておくことで、おめでたい状況になる、という信仰の表現が、この言葉となって今でも続いているわけだ。
だが、言葉の呪よりも強い、不安感や疲弊を覚えている者にとっては、何もかもがダメに思えてくることだってあるだろう。
だが、そのときこそ、僕らは中原岬を思い出すのだ。彼女が救ってくれるのではない。自分よりも傷ついているに違いないからだ。
あるいは、中原岬を思い出す時こそ、その人にとっての休憩すべき時の訪れなのではないだろうか。
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