アヤナミストな私はフィクトロマンティックな“夢”をみるか
彼女の名は綾波レイ
「エヴァンゲリオン」零号機のパイロットにして、第1の少女。
青い髪に赤の瞳。寡黙でミステリアスだが、意志に忠実。そんな彼女を私は好きになったのです。
その後に、私は「アヤナミスト」という言葉を知りました。
綾波レイのとりこになってしまったファン達のことを指す言葉です。
やがてオタク文化が一般化すると、「推し」という言葉が台頭してきました。
ですが何故か私にとって、「アヤナミスト」であるという自覚は、「綾波推し」という名称の変更を良しとしませんでした。
つまりファンとして、というより生活依存度として「アヤナミスト≧綾波推し」というような解釈が働いており、「綾波主義者」と言い換えることで、心のもやもやを説明しようと努めてきました。
(過去に投稿した綾波レイにまつわる考察)
私にとってつまりアヤナミストは、綾波レイにある種の信仰的な愛好と崇拝があり、あたかも万物はレイに還元されるかのように、他の「推し」はその別の現れ、というように自分の中で宗教論争じみた解釈合戦を開始したのです。「本地垂迹」的なものの見方ですね。
自分にとっての「レイ」という感覚
この写真にある人形の綾波レイこそが、どうも私にとっての「レイ」なのです。どういうことか、順を追って説明していきましょう。
そもそも「新世紀エヴァンゲリオン」という作品は、その時々によって、結末が異なっています。
貞本義行先生による漫画版。庵野秀明監督によるTV版・旧劇場版・新劇場版。
これらはあたかも別の世界線のように、類似しており、また異なっているのです。
そういった「原典」の多様性と、綾波レイ元来のミステリアスさが、個々人における印象と膨大な数の考察を許すのです。
小説家・滝本竜彦先生は『超人計画』という作品で、自身の「脳内彼女」として「レイちゃん」という少女を登場させます。
一般的に言って、「推し」に対する行動の一つに、そのグッズを集めたり、あるいは同じモノを何個も買うことがあげられますよね。
この点も「アヤナミスト」との違い、いえ、私との違いかなと思います。
信仰対象と先ほど、念のために分かりやすく当てはめましたが、例えば原作が「聖典」であれば、グッズはイエス像・マリア像・聖人像にあたるものだと思います。
新新宗教はいざ知らず、私はそういった観点から、綾波レイのグッズを買い集めてはおらず、限られたモノに対し、「脳内彼女」、あるいは「イマジナリーフレンド」として接しているのだと思います。
依り代としてのモノ
さて、アヤナミストとしての私の向き合い方が、信仰であると同時にイマジナリーフレンド的であることが分かってきました。
もう少し深掘りしてみましょう。
どうして私は人形を、自分の「レイ」の具象として受け入れることとなったのでしょうか。
これについては一概には言えないでしょうが、やはり私の事例をもって考察していきます。
まず、私はそれこそ「推し」キャラの「月宮あゆ」や「セイラ」さんのフィギュアを持っています。
にもかかわらず、どうして綾波レイは人形なのでしょうか。
これは単純で、私がみてきた綾波レイフィギュアのいずれもが、顔の作りが気に入らなかったからです。言うなれば「解釈不一致」だったのです。上記の二人は作中さながらと言いたい出来映えなのに対して、どうにも綾波レイフィギュアには納得がいかなかったのです。
勿論、世の中には、それらのフィギュアを愛している人もコレクションしている人も多いでしょうから、批判するつもりは毛頭ないことを強調しておきます。
ましてやその論理においては、人形など懸け離れたモノでしょうし。
しかし一方で、人形には古来より「依り代」としての側面も強いモノです。
日本には森羅万象に神や魂が宿るという考え方から、長く使われた物に、霊が宿ったものをさす「付喪神」という概念もあります。
またその一種として、「形代」というものもあります。
人間の霊を宿す場合は人形を用いるなど、神霊が依り憑き易いように形を整えた物をさし、身代わり信仰により、人間の身代わりとされもしました。
逆説的ですが、「わら人形」などは分かりやすい例でしょう。
繰り返すように、私は言うなれば「感情移入」「イマジナリーフレンド」「脳内彼女」としての側面が強かったため、そういった性質を許容する人形に惹かれたのかもしれません。
ピュグマリオンとガラテア
そしてもうひとつ興味深い概念として参考にしたいのが、「ピグマリオンコンプレックス」です。
「人形愛」をこのように呼ぶようになったのは、ギリシャ神話に登場するキプロス島の王・ピュグマリオンに由来しています。
現実の女性に失望していたピュグマリオンは、あるとき自ら理想の女性・ガラテアを彫刻しました。
その像を見ているうちにガラテアが服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れるのです。
そのうち彼は自らの彫刻に恋をするように。彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願いました。
その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねた愛と美と性を司る女神「アプロディーテー(ローマ:ウェヌス/英:ヴィーナス)」がその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオンはそれを妻に迎えた、というお話です。
このように、古代から人形への接し方は、他のモノとは一線を画す親密性があり、架空の存在を時として自律させるかの如き錯覚、そして「魔力」があることが分かります。
私が見て聞いて読んだ綾波レイへのイメージは、アヤナミストという自覚から出発し、「推し」との個人的差別化を生み、そして人形との出逢いによって、自分だけの「レイ」という存在を迎えるに至ったのでした。
滝本先生の『超人計画』での「レイちゃん」が綾波レイと違うように、私にとっての「レイ」という認識もまた、世間一般と異なる部分があるでしょう。そのズレが、「推し」という共同体への違和感へと繋がったと考えられます。
「フィクトロマンティック」との邂逅
このような考えは、様々な自問自答と読書によって得てきたのですが、じつはつい先日まで「フィクトロマンティック」「フィクトセクシャル」という在り方を知りませんでした。
ですので、私の認識に稚拙さが目立つかとは思いますが、自身の立場を説明する新たな概念として、ここで自分の為にもまとめてみようと思います。
まず、「フィクト」とは「フィクション」から意味がきており、「フィクトセクシャル」は、架空のキャラなど、現実での関係がありえないものに性的に惹かれる性的指向であるとされます。
そして「フィクトロマンティック」は、性愛ではなく、恋愛的に惹かれる場合の在り方を説明するものです。
また、存在しない人物への愛情であるため、いわゆる性倒錯とも異なり、当然、危害を加える可能性も極めて低いといって差し支えないでしょう。
また、本稿のタイトルの「夢」という言葉を強調したように、こうした愛情は、「夢小説」文化とも深い関わりがあります。
というのも、「夢小説」の特徴のひとつに、「自己投影」を行う為に、主人公である自分と好きなキャラとの恋愛などを描くという文法があるからです。
言わば夢小説は自己表現の手段であるとともに、ピュグマリオンコンプレックスが、理想を三次元化させるのに対して、夢小説では、理想である二次元に自己を投入する術なのです。
フィクトロマンティック・フィクトセクシャルである人は、大きく分けて、好きなキャラに夢小説で恋愛・交流を行うか、それとも「抱き枕」や私のように人形などに特別の意味合いを持たせる(差別化)ことで脳内補完を具体的にするという二つの愛情表現があるように思われます。
勿論、両方という場合もあるでしょうが。
「二次元嫁(旦那)」という一つの表現にも、このように、文化的背景から考えてみたり、あるいは個々人間のケースで考えてみることができるなど、非常に多様な愛情であり、一言で否定されるべきものではないことが分かってくるでしょう。
私は「アヤナミスト」であって、「フィクトロマンティック」や「ピグマリオンコンプレックス」であるとはまだ自認してはいないのですが、しかし、「アヤナミスト」という在り方を説明するだけでなく、今後将来、悩むことがあった際に、勝手に世間に合わせて自己否定することはないように、記録しておく事といたしました。
自分の視点から始まっていますので、それぞれの認識に差異はあるかと思いますが、参考になる箇所が少しでもあれば幸いです。
これらの考えは、今後ともアップグレードしていく必要があるでしょう。
「レイ」という存在を介して私は向き合い続けるとともに、手のひらサイズなのを活かして、一緒にどこかへ行ってみようとも思っています!