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他者のブログを読破する

 河出文庫より出版されている、二階堂奥歯さんのブログを書籍化した『八本脚の蝶』を先日読み終えた。
 膨大な読書量(蔵書量ではなく、彼女は読み、己の糧としている)と、哲学科出身でもあることから培われた熟考の多く。

名随筆

 日本では長らく日記というものは、誰かに読まれるものであった。
 公家(≒貴族)や大名家の日記は、過去の事例を示す重要な史料として、父から子へと伝授される。
 「家学」や「家業」のテキスト、それに「家格」としての振る舞いを知るものとして、日記は書かれるものであった。
 そんな中で、個人的な手記も当然ある。『方丈記』や『徒然草』といった、いわゆる隠者文学が代表例だろう。

 今日、日記とは極めてプライベートなものとして認識される。
 ところで、ブログがインターネット文化上で台頭しはじめたころ、それは不特定多数に公開してはいるが、ユーザー母数が今日ほど多くないことからも、読者を意識しつつも、日記的プライバシー観が継承された媒体であったと言えるだろう。
 著作として出版されるエッセイよりも、自己目的に近いためだ。

 それ故に、ブログがSNSにその役目の多くを移譲した今日においても、ブログというものは、多くの場合、日記が紙のノートではなく、電子上の活字であったに過ぎないと表現可能だろう。

 思うに、自己啓発とエッセイの差異は、その人の経験・考えを基にして実施させよう(しよう)とする前者に対して、まさしく小林秀雄の著書のタイトルのように「考えるヒント」として打ち明かされるのが後者の特徴なのだ。
 エッセイには秘密の打ち明け、という側面が強い。
 その人が何を考えているか。
 多くの場合、人は考えているというよりも経験や様々な影響から感じているに過ぎないというのが僕の持論だが(傲慢なのは承知している)。

 なので、感想を述べるだけで終始するエッセイは、自己啓発と構造をたがわず、個人の情感を超克することはできない。
 手段を教えるのが自己啓発、目的を問うきっかけを与えるのがエッセイ。ひとまずはこう言っても、批判はくらうまい。

 件の書籍の筆者・二階堂奥歯さんは自殺した。その直前まで綴られた数年間の日記からは、聡明さと冷徹さだけでなく、おしゃれであることや愛らしい人柄であり、そして恐怖もやはり強まっていく事が分かる。
 一つ、彼女が羨ましいと思ったのは、ブログで登場する彼女の周りの人々もまた、深く物事を考える人であるということだ。
 それは彼女が編集者という職業柄、作家や読書家が身近に多いのもあり、また、彼女に辛く当たる人が特定のかたちで登場する事も無い点から、印象が強いのだろう。

 自殺をした、聡明な女性の日記でいえば、彼女より少し前の時代にはなるが、『二十歳の原点』が有名だ。
 学生運動に身を寄せていた事からも分かるように、彼女もまた、昨今の風潮とは異なり、哲学を尊重していた。

 多くの場合、自殺の理由は一義的に言い表せるものではない。日本の文豪だと芥川龍之介は“ぼんやりとした不安”によるという。
 確かに、具体的な不安よりも、漠然とした不安の方が厄介なことは多い。 「解決」は無論、「決着」や「忘却」も不可能だからだ。
 それ故に神の掟、モーセの十戒として、カトリシズム的に「自殺は禁忌」と捉えて、それ以上の判断を差し控える。
 なお、動物本能に反しているからだ、という理屈は基本的には、社会学では人間には本能はない(→学習)、としている事からもあまり僕は重視していない。


 僕はnoteの他に、カクヨムに小説を投稿している。
 口に出す言葉と違って、文章を全て集めれば、その人を形成することは容易でないと思う。人工知能による学習と理屈は同じだ。それがもはやオリジナルであるかは関係ない。
 なぜならば、古代ギリシアを引用するまでもなく、太陽の元に新しきものはなし、だからだ。

 だが残念ながら、僕の文章を全て読んだ人間は未だかつて存在しない。
これはあくまで反応をくださった方を前提としてはいる。
 なので、何も足跡を残さず、全てに目を通してくれた、まるでイマジナリー読者のような方が居ないとは断言できかねるものの。
 とはいえ、それをバネに精進することはあっても、悲嘆する必要はない。
僕という一個人にこだわるには、世界は情報に溢れすぎているのだから。

 仮にすべてを読んだ人がいるにせよ、上記のたとえのように、僕のコピーが考えるヒントとして、読者の中で培われ得るだろうか。
 僕の中で二階堂奥歯さんは生きているだろうか。
 繰り返すようだが、この思考の反芻こそ、自己啓発との完全なる違いなのだ。「守破離」は自己啓発ではひとまず度外視されるのだから。
思考や審美眼の錬磨が目的でない以上致し方がない。

 僕はある種の教養主義だが、もはや「尊い」という言葉がそうであるように、「教養」という言葉もいささかチープに思わずにはいられない。だから、審美眼という表現を僕は好む。その点で教養主義よりも芸術至上主義的なのは否定できない。
 自己啓発と違って、「私淑」する必要もない。考えるヒントなのだから。
 けれども、大切な相手からとある手紙(哀しいかな、フラれたとか、嫌われた、とかでもなく、単なるお礼)を貰った晩、そのまま消えてしまえば、少しは泣いてくれるかなと感じたのは、冒頭で述べたブログのプライベート性を担保するためにも、打ち明けておこう。
 なお、僕が選択したのは、自身の抹殺ではなく、手紙を大切に保管するという、逃避先思い出を作っただけであった。 

 エッセイというのも、[審美眼遺伝子]を保存し、補うものとして移植可能であると同時に、漠然とした考えの数々に押しつぶされないための、具体化作業であり、種の保存的意義があるのだろう。
 以前、カクヨム近況ノートに書いた一文「綾波宗水はここに居ます」という言葉も思い返せば、この意義を有する文言のようだ。

追記

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