ディレッタントの眼差し
ディレッタントという言葉はあまり良い意味では用いられていない。学問や芸術を趣味として愛好する人を、そのように呼ぶ。
専門家ではなく、浅く広い道楽者としての側面が注目されてきたことが、批判として用いられる要因だろう。
この構図は、十九世紀のイギリス社会でのジェントリー階級の美意識にもみられる。一般に想定される英国紳士と、服飾・身のこなしへのこだわりを見せたダンディとの対立である。
これと同じように、ディレッタンティズムは軽薄なもののひとつとして長らく数え上げられてきた。
けれども、個人的にはそうは思っていない。特に今の日本社会においては。
その理由の第一として大きなポイントは、既に専門家である必要性が薄れている点にある。それまでの社会と異なり、インターネットの普及のみならずチャットGPTといったシステムや人工知能の一般化に伴って、もはや一個人が「歩く辞書」である有用性が少なくなっていると思われる。
ここで重要な示唆がある。ディレッタントが今の世で有用なのは、知らないことがあることに気付ける強味だ。教育の現場では生徒から「ネットさえあれば勉強しなくても」という意見は登場する。
ともすれば大人であっても感じてしまうのが、近年の高度情報社会の様子そのものであろう。ところが、そもそも検索しようと思えば、どういったワードを選択すれば、より効果的な学習に繋がるか、言い換えればよりスムーズに知りたい情報を得られるかを考える知能が現段階では求められる。そこで、数寄者とも訳されるディレッタントの浅く広い興味関心は、そのトリガーとして常人よりも発達しているわけだ。
ポイントとなるのは、ディレッタントとなり得る人物が、恵まれない知的階級、オタク、更には昨今で言うところの「陰キャ(ラ)」といった人々が、往々にしてディレッタントへの道を歩みだす。
その道の専門家として周知されたり、営業しているわけではなく、個人の趣味の範疇で一般常識よりはより多くの事柄に好んで触れようとする人々。それが現代におけるディレッタントだと私は考えている。
奇しくも今回の表紙に掲載した絵画は、ルーベンスが描いた『Frans Francken』。フランス・フランケン1世の方。
彼がディレッタントという訳ではないけれど。ただし、彼の息子などの絵画は、ディレッタンティズム的な精神を味わえるものが幾つかある。代々、画家を輩出することになるその彼の眼差しの先には何があるのだろうか。
以下、Wikipediaから息子たちの作品、それも学芸を愛好する者(好事家)の息遣いを感じられる作品を紹介しておくとしよう。
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