【夏の名残の薔薇】
歌が、聞こえる。
ランセント家別邸における書斎にて、持ち帰ってきた仕事の一部を片付けていたエギエディルズは、流れるように言葉を紡いでいた羽ペンの動きを止めて、その書面から顔を上げた。
歌だ。かすかに。けれど確かに。この鼓膜を震わせるその声色は、エギエディルズがよく慣れ親しむものであり、同時に何よりもいとおしく思う存在のものだ。
くすくすくす。ふふふふふふ。屋敷の中に忍び込んできた風精のさざめくような笑い声もまた耳朶を揺らす。視線を巡らせば、薄く透ける翅を背負った幼い風精達が、自慢げに笑いながらエギエディルズの周りを飛び回っていた。
どうやら彼らが、別室――この深夜と呼ぶべき時間帯ともなれば寝室にいるに違いない妻、フィリミナの歌声を、わざわざエギエディルズの元まで運んでくれているらしい。
――ねえねえ、嬉しいでしょ?
――ねえねえ、褒めて?
くすくすくす。ふふふふふふ。歌声に合わせて踊り、笑い合う彼らに、エギエディルズは執務机の片隅の小瓶の中に詰まっている、使い道のない魔法石のかけらを、彼らに向かって放り投げてやった。
――きゃあ!
――わあ!
視えざる存在である風精達が、我先にと争って魔法石のかけらを奪い合う。
何の効力もない、ただのエギエディルズの魔力のわずかなかたまりだが、そんなものでも幼い彼らにとってはとびっきりのごちそうだ。嬉しそうに魔法石のかけらをほおばり、そしてそのお礼とばかりに彼らはさらに寝室から聞こえてくる歌声を鮮明にしてくれる。
『夏の名残の薔薇よ、きみは独りさびしく咲いている』
『愛する仲間達は誰もが色あせ枯れ落ちて、きみを独り置いていった』
それはエギエディルズの知らない旋律であり、知らない歌詞だった。
もとより流行歌に詳しい訳ではなく、そもそも興味もないのだが、フィリミナが歌うのであれば話は別だ。もっと知りたいと思うし、もっと聞きたいと思う。
昔から時折彼女は、エギエディルズの知らない歌を歌うことがあった。幼い頃は特にその傾向が顕著であり、アディナ邸を訪れたとき、フィリミナの弟であるフェルナンのお昼寝のための子守歌として、フィリミナはよく歌を歌ってくれたものだ。
フェルナンは姉の歌ってくれる子守歌がいたくお気に入りで――いや、あの義弟は基本的に姉に関することであればなんでもお気に入りで大好きでとんでもない執着を見せるが――、よくフィリミナに歌をせがんでいた。
子守歌はともかく、普段なんでもないときに改まって歌を歌うのはフィリミナにとってはどうにも気恥ずかしい行為であるらしく、なんとか断ろうと苦慮しているようだった。しかし彼女のかわいい弟は諦めなかった。フェルナンは、姉が自分に甘いことを自覚しているし、彼女が歌を歌うという行為が彼女にとって本当の意味で“嫌なこと”ではないと理解していたために、機会を見つけてはフィリミナに歌をせがんでいた。その最たるものが子守歌だ。
エギエディルズはそんなフェルナンの幼いわがままを、何も言わずに眺めているばかりだった。まだ情緒というものがはっきりと形成されておらず、その時の気持ちをどう受け止めて表現していいものなのか解らなかった。
姉弟というものはこういうものなのだろう、とは、なんとなく理解していたように思う。それでもなんというか……そう、なんとも“面白くない”気持ちも確かにあったのだと今ならば解る。
フィリミナに当たり前のようにわがままを言えるフェルナンがうらやましく、けれどそういうかわいらしいわがままを言えるような“弟”になりたい訳でもなくて、幼心に随分と複雑な気持ちになったものだ。
『きみの紅きほおを照らし返す、親愛なる花よ、つぼみよ』
『もうどこにもいない花よ、つぼみよ』
『ああ、ため息ばかりが重なっていく……』
ささやくような旋律と、どこかものかなしくさびしい歌詞の連なりに、無意識にほうと息をもらす。
フィリミナが知る曲のレパートリーというものがいったいどこまで広いものなのか、エギエディルズはやはり知らない。以前聞いたことがあったように思うけれど、その時も彼女は「……さて?」といたずらげに微笑むばかりでそれ以上何も答えてはくれなかった。
問い詰めてもよかったのかもしれない。きっとフィリミナはそれを許してくれただろう。そうして、大真面目に「ええと……あれと、これと、それと……」なんて、大真面目に指折り数え始めるに違いない。
けれどエギエディルズは問い詰めようとは思わなかった。明確な答えを手に入れてしまうのが、なんだか大層もったいないことのように思えたのだ。
幼い頃から彼女の歌を時折聞くたびに、彼女はその誰も知らない、彼女しか知らないのであろうその歌の多くを、とても大切にしているようだった。フィリミナがそれを口にしてくれるとき、まるで鍵のかけられた宝箱からとっておきの宝石を取り出して見せてもらえているように思えたものである。
だからこそ、その宝石のすべてを知ってしまうのは、どうにももったいなく思えて仕方なかったし、同時に“ほかの宝石”を次に見せてもらえる機会が楽しみで仕方なかったのだ。
「誕生日に、歌ってもらったこともあったな」
あれは魔法学院に入学する前のことだった。
幼いエギエディルズが自分の誕生日をフィリミナとともに過ごせたことなど、数えるほどにもない。そのほんの数回――正確に数えればたった二回の中で、フィリミナは誕生祝いの贈り物とともに、「何かわたくしにしてほしいことはありますか?」と問いかけてくれた。
一度目は何も思いつかなくて困り果て、結局フィリミナに「いつか思いついたら教えてくださいね」と苦笑されてしまった。
そして二度目。実母と乳母と一緒に作ったのだと言うケーキとともに、「さ、今年こそ聞かせてください」とフィリミナにやる気たっぷりに問いかけられた。あのときほど緊張したことはなかなかない。
からからに乾いた口。じわじわと汗のにじんだ握りこぶし。
アディナ家の面々と、エギエディルズの養父であるエルネストに囲まれた中で、エギエディルズはやっとの思いで「歌を歌ってほしい」とフィリミナに望んだ。
『たった独り残されたさびしききみを、残してなどいくものか』
『眠りに就いた愛する者達とともに、きみもお眠り』
『きみの葉をやさしくしとねにばらまこう』
『庭のきみの仲間達が、香り立つこともなく横たわる場所へ』
フィリミナの歌声はいまだ続く。さびしい歌だ、とエギエディルズはただそう思った。
独り残された薔薇をなぐさめるようでありながら、確かな別れを言い聞かせる、孤独の歌。幼いエギエディルズの誕生日にフィリミナが歌ってくれた歌とはまったく趣の異なる歌である。
誕生日のあの日、エギエディルズの願いを耳にしたフィリミナは、大層驚いた顔をして、それから顔を真っ赤にしていた。「お、お歌ですか……?」とおろおろと見るからに困り果てている様子に、エギエディルズは“しまった”と思ったものだ。
周りの大人達は「それはいい」「素敵ですね」とにこにこと微笑ましげに自分とフィリミナを見比べていて、フェルナンだけが「姉上にお歌を頼んでいいのは僕だけなのに!」と憤慨していた。
そういえばも何もなく、フィリミナが歌を披露するのはフェルナンやエギエディルズの前だけで、特に大人達の前では恥ずかしがってほとんど歌おうとしなかったことを遅れて思い出した。
なかなか聞けない娘の歌声を聞ける機会に、アディナ家の夫妻や乳母は純粋に喜んでいたし、エギエディルズの養父も嬉しそうにしていた。けれどフィリミナは、本当に困っていたようだった。
困らせたかった訳ではない。ただ、いつもフェルナンのためにばかり歌うフィリミナに、自分のために、自分のため“だけ”に歌ってもらえたら、それはなんてすばらしいことなのだろうと思って……だからこその願いだった。
けれど、彼女の真っ赤な顔に、自分がとんでもないわがままを言ってしまったことに気付かされて、すぐに撤回しようとした。過ぎた望みを口にしてしまったことが恥ずかしかった。
やっぱりいい。歌じゃなくて、ほかの……と、言おうとしたような気がする。
だがその前にフィリミナが、エギエディルズの手をぎゅっと握ってきた。やわらかくあたたかい手にびくりと身体を震わせたエギエディルズのその手を引いて、フィリミナはダッとその場から駆け出した。となれば当然エギエディルズも走り出すよりほかはない。
背後から大人達のほほえましげな笑い声や、フェルナンの怒声が追いかけてきたけれど、構うことなくフィリミナはエギエディルズを引っ張って、そしてそのままいつもの中庭のベンチにまで導いてくれた。
いくら昼間であるとはいえ、冬の中庭は冷える。わざわざこんなところにまで出てきてどうかしたのかと戸惑うエギエディルズに、フィリミナはいまだ赤らむ顔で「エディにだけ、特別です」と言い置いてから、エギエディルズの知らない歌を歌い出した。
――Happy Birthday to you.
――Happy Birthday to you.
――Happy Birthday Dear Edy!
――Happy Birthday to you.
知らない旋律、知らない歌詞、そもそもちっとも解らない言語。ただ一言、歌詞の中に閉じ込められた自分の、彼女にだけ許した呼び名である『エディ』だけがはっきりと聞き取れた。
この曲は自分のためだけの歌なのだと、その時エギエディルズは確かに確信した。短い歌だったけれど、十分だった。その歌の中にフィリミナの心がちゃんと込められていることはわざわざ確認しなくたって伝わってきたのだから。
「これで、いいでしょうか?」と、おずおずと不安そうに問いかけてくるフィリミナに、エギエディルズはためらうことなく頷いた。本当はもっともっと何度でも歌ってほしかったけれど、たった一回でもこの心を十分すぎるほど満たしてくれた歌声だった。宮廷音楽家だってこの歌声には決して叶うことはないだろう。この心をこんなにも震わせてくれるのは、後にも先にも彼女の歌声だけだ。
そんな思いを込めてこくこくと何度も頷くエギエディルズに、フィリミナは安堵したように、嬉しそうに、改めて「お誕生日おめでとうございます、エディ」なんて続けてくれて。
純黒として生まれ落ちた自分の誕生日を、こんな風に祝ってくれる存在がいるのならば、こんな自分の誕生日でも、きっと悪いものではないのだろう。そう思えた。
『すぐに私も後を追おう』
『親交が途絶え、輝ける愛の輪から宝石がこぼれ落ちるそのときには……』
愛の輪からこぼれ落ちる宝石とはなんだろう。耳朶を打つ歌詞に、ふとそう思う。
それは思いを込めた歌声だろうか。あるいは重ねる口付けだろうか。はたして薔薇は、この歌の歌い手が後を追うことを望むのだろうか。望むのだとしたら、きっとそれは大層傲慢な薔薇の花だ。せめて勿忘草を見習えばいいものを。自らを手折る存在と心中を望む薔薇よりも、エギエディルズにとってはともに生きることを望んでくれる酢漿草の方がずっと好ましい。
『まことの心の友が枯れて斃れ、愛する者が去ったとき、』
けれど薔薇の気持ちも、今では解らなくもない。本当の意味で孤独になったとき、きっと薔薇も、そして人間も、生きてはいけない。誰かに手折られ、その誰かを道連れにしたいと願うのだろう。
もしもエギエディルズがフィリミナを失う日がきたら、きっとエギエディルズは薔薇になり、フィリミナにこの歌を願うに違いない。
お前の手で俺をあやめてくれ、そして後を追ってくれ、他には何も望まない、ただお前という道連れがいてくれるのならば、それ以上の幸福はない。
そうだとも。フィリミナを失ってしまったら、エギエディルズはもう生きてはいけない。エギエディルズにとっては、フィリミナこそが光なのだから。
『ああ! 誰がこの昏い世界で孤独のまま生きられるだろう?』
ともに生きると願ってくれた彼女に、同じ気持ちだと答えた男が、なんて情けない望みをさらしているのだろう。なんて滑稽な欲望だ。そうと解っていても、それでもなおと望まずにはいられないほど、もうエギエディルズはフィリミナのことを手放せないのだ。彼女とともに生き、叶うならばいっそともに死んでしまいたいとすら願うほどに。
こんなろくでもない妄想を夫が抱いているだなんて、フィリミナは知らないに違いない。同じことを望んでくれればいいのにと願うエギエディルズの望みを知らない。それでいいと思う気持ちと、いっそ教えてしまおうかという気持ちがせめぎ合う。
ああ、歌が、フィリミナの声が、聞こえない。
どうやら先程の歌詞でこの曲はおわりらしい。宙を待っていた風精が一斉に一礼してその場からかき消える。役目は終わったということらしい。
そうして今度こそ本当の意味で書斎に一人きり残されたエギエディルズは、手に持ったまますっかりインクが乾いてしまった羽ペンをひょいと放って立ち上がった。
なんだか居ても立っても居られない。フィリミナに会いたいと、ただそれだけの思いが全身を支配する。
急ぎ足で書斎を後にして、フィリミナがいるであろう寝室へと向かう。ノックもせずにその寝室の扉を開け放つと、窓際に椅子を寄せて腰かけていたフィリミナが、勢いよくこちらを振り向いた。
「まあ、エディ。どうなさいましたの、そんなにお急ぎになって。お仕事は終わられたのですか?」
「…………」
「エディ? あの、エディったら」
無言でツカツカとフィリミナの元まで歩み寄ると、彼女はいぶかしげにしながらも自ら立ち上がり小首を傾げた。見上げてくる赤みの強い榛の瞳に、エギエディルズの顔が映り込んでいる。そこに映る自分の顔は、我ながらどうかと思うくらいに随分と情けない顔をしていた。
こんな顔、フィリミナには見せたくないのに。いつだって最高に格好つけた、彼女がうっとりとしてくれるような、世間で騒がれる『夜の妖精もかくありき純黒の魔法使い』でありたいのに。それなのに。
「あらあら、なんて顔をしていらっしゃるのかしら、わたくしのかわいいあなた」
こちらがこんなにも情けない顔をしているというのに、なぜだかフィリミナは嬉しそうに笑って、つま先立ちになり、その手を伸ばしてためらうことなくエギエディルズの頭を撫でた。
触れるどころか目にすることすら誰もが恐れるこの漆黒の髪を、彼女はさも大切そうに、宝物を前にしているかのように触れてくれる。さらさらと彼女の細い指がエギエディルズの髪をたわむれに梳く。
その心地よさに目を細めて酔いしれていると、くすくすとフィリミナは鈴を転がすように笑う。
「それで、どうなさいました? それとも、訊かない方がよろしいかしら」
どちらになさいますか、と、ほんの少しばかり意地悪げにフィリミナは問いかけてくる。
どう答えたものかとエギエディルズは迷った。正直なところ、自分でもよく解らない衝動に突き動かされて書斎を飛び出してきただけだ。いざフィリミナを前にしたら、その衝動はあっさりと、本当に驚くほどきれいさっぱり消えてしまった。だからこそ、『どうしたのか』と問われても、どう答えていいのか解らない。
自分らしくもない、とエギエディルズ自身としてはそう思うのだけれど、フィリミナにとってはそうでもないらしく、のんびりとエギエディルズの返答を待つことに決め込んだようで、穏やかな笑みをたたえたままこちらをじぃと見上げてくるばかりだ。
その瞳に映る自分の顔が、くしゃりと歪むのを、エギエディルズは確かに見た。そうして、口から飛び出してきたのは。
「……さびしく、なった」
ぽつり、と。まるで小さな朝露が凪いだ湖の水面に落ちるかのように、その一言が寝室に響いた。
その響きは魔法を行使した訳でもないというのに、エギエディルズにとっても、そしておそらくはフィリミナにとっても驚くほど大きく、寝室の静寂に広がっていく。
フィリミナの丸く大きめの瞳が、もっと大きく、ゆっくりと見開かれた。その瞳を見下ろしながら、エギエディルズは自分でも驚くほど淡々と続ける。
「さびしくなった。お前がそばにいなくて、さびしかった」
「…………あら、まあ」
それはそれは、と、フィリミナはぱちぱちと瞳を瞬かせる。意外ですわ、と言いたげなその様子に、それはそうだろう、とエギエディルズも内心で頷く。
自分でもこんな風に思っているなんて思わなかったし、ましてやそれを大人しく素直にフィリミナに打ち明けるなんて真似ができるとは思わなかった。
『さびしい』なんて。まるで幼い子供が眠れなくて母親にぐずっているかのようではないか。
今更ながらに無性に恥ずかしくなってきて、顔が熱くなってくるのを感じる。鉄壁の無表情、人形がごときかんばせと散々呼びならわせられていることが自分でも信じられないくらいに情けない顔になっている自覚がじわじわと追い付いてきて、エギエディルズはその場でくるりと踵を返し、フィリミナに背を向けた。
今更すぎるとは解ってはいたが、こんな顔を見られたくない。フィリミナの前ではいつだって彼女にとって『最高の男』でありたいのに、今はまるで頑是ない子供のようで、やはりどうしようもなく情けない。
結局幼かったあの日、フィリミナの気持ちも考えずに人前で歌を歌ってほしいと望んでしまった子供のまま何も自分が成長していない気がして、いっそやるせなくなってくる。
そもそもフィリミナがいけないのだ、なんて、完全に八つ当たりにも似た気持ちすら湧いてくる。フィリミナがあんな歌を歌うから。エギエディルズのいないところで、あんなさびしい歌を歌うから。フィリミナ自身にはそんなつもりはなかったに違いないことくらい解っている。彼女はエギエディルズがこっそり聞き耳を立てていたことを知らないのだから。
ああ、駄目だ。このままではフィリミナの前にはいられない。いや、本音を言えば、というか、エギエディルズの本当の本音は、先程の台詞の通り『フィリミナがそばにいなくてさびしい』なのだから、本当にしたいことはといえば彼女のことを抱き締めて、その穏やかな声を、甘い香りを、あたたかなぬくもりを、彼女を構成する何もかもすべてを、こころゆくまで堪能する、ということなのだが、今こんな情けない顔でそんな望みを口にできる訳もなく、ましてや実行なんてできる訳もないのだ。
「驚かせてすまなかった。仕事に戻るから、お前は先に寝ていてくれ」
フィリミナに対して背を向けているのだから、彼女が今どんな表情を浮かべているのかなんて解らない。
子供を相手にするようにほほえましげに笑っているのか。それとも成人したいい大人の男が何を言っているのかと呆れているのか。どちらにせよろくでもないことこの上ない。
自業自得と解っていながらも、彼女の方を振り返ることもできない。だって振り返ったら、この情けない顔をまた見られてしまう。ならばもうできることはと言えば、さっさとこの場から逃げ出すことだけだ。
それこそ情けない真似だと解っていながらも他に解決策を見出せず、そうしてエギエディルズが、書斎へと戻ろうと一歩踏み出した、そのとき。
「エディ」
短くもはっきりとした、あたたかく穏やかで、そして何よりも甘く心地よい声。
反射的にぴたりと足を止めるエギエディルズの背に、トスンッと弾むような衝撃が走る。驚きに固まったエギエディルズだったか、元より他人よりもとびぬけて優れて賢く敏い頭は、すぐに状況を把握した。
フィリミナの背中が、自分の背中に預けられているのだ。こちらにもたれかかるようにして、彼女はエギエディルズの背に、自らの背を重ねている。
となればエギエディルズはそれ以上前に進むこともできずにその場に立ち竦むことしかできない。
「フィリミナ?」
彼女がどういうつもりでいるのか理解し切れず、存外にも小さく、ともすれば震えそうになってしまいそうにもなる声音で、彼女を呼ぶ。ふふ、と小さな笑い声とともに、その笑い声の振動が背中から伝わってくる。
「ねぇ、エディ」と彼女は笑い交じりに続けた。
「わたくしが今、どこにいるのか、解りますか?」
「……?」
「あら、お解りにならないかしら。わたくし、今、エディから、世界で一番遠いところにおりましてよ」
やわらかく甘い童謡を口にするかのような、一つ一つの言葉で遊ぶかのような台詞に、ぱちん、とエギエディルズは長く濃い睫毛を瞬かせた。
一番遠いところ、と背中越しにフィリミナは言った。なぞなぞだろうか。背中合わせになっている自分達は、『一番遠いところ』ではなく、『一番近いところ』にいるはずだろう。
それなのに何を言っているのかと無意識に首を傾ければ、背中を重ねたままフィリミナは楽しそうに笑う。
「だって世界は丸いんですもの。今のわたくし達は、ぐるりと世界を一周したら、やっと顔を合わせることができるんです」
「……なるほど」
「ええ、ですからエディ。わたくし達、どれだけ離れていたって、今のこの状態以上に離れることなんてできないのですよ。それってとっても素敵なことではありませんか?」
「!!」
自分の瞳が、これ以上なく大きく見開かれていくのを、まるで他人事のように感じた。くすくすと楽しそうなフィリミナの甘やかな笑い声がひときわ大きく鼓膜を震わせる。
とっておきの秘密を打ち明けてくれたかのような笑い声だ。楽しそうで、嬉しそうで、倖せそうな笑い声がエギエディルズの鼓膜を、そして心を震わせる。
「わたくしのかわいい、さびしがりで格好つけのあなた。せっかくわたくし達、今は世界で一番遠いところにいるんですもの。わたくしに何かしてほしいことはございまして?」
さあなんでもどうぞ、と、フィリミナは続ける。その途方もなく魅力的な提案に、エギエディルズは抗うすべを持たない。
してほしいこと、なんて、随分久々に問われた気がする。
誕生日祝いは毎年受け取ってきたけれど、流石にこの歳になるとフィリミナもそういう提案はしてくれなくなっていたからだ。ならばこの機会を逃す手はない。
最大限に有効活用させてもらいたい、と思ったものの、急に言われてもポンと出てくるものではない。
しかしいつまでも悩んでいたら、いつフィリミナの気が変わってしまうか解らない。「はい、時間切れです」なんていつ言い出されるか解ったものではない。フィリミナは自他ともに認める気の長さを誇るが、時折驚くほどあっさりとその気の長さをざっくり切り落としてしまうところがあるので。
「……昔、誕生日に、歌を歌ってくれただろう」
「え?」
気付けばそう口にしていた。先程、散々フィリミナの歌について考えていたからこそ出てきたのだと思える台詞だった。
口にしてから、改めて、これだ、とエギエディルズは一人で納得する。今彼女に望むものはこれしかない。戸惑いが背中から伝わってくるけれど構わない。
「あれは、どういう意味の歌だったんだ? 俺の名前が入っていた、あれだ」
「え、ええと……ああ、ハッピーバースデーの……。簡単な意味ですよ。“お誕生日おめでとうございます、大切なあなた”という意味、ですね」
「それがいい」
「え」
「その歌を今、もう一度、このまま歌ってくれ」
フィリミナもかつてのエギエディルズの誕生日についてすぐに思い至ったらしく、あっさりと意味を教えてくれた。
なるほど、『お誕生日おめでとう』か。たったそれだけの意味であっても落胆などしない。あの時、フィリミナが心から自分の誕生日を祝ってくれたことをもう一度知ることができて嬉しく思う。そしてだからこそ、もう一度あの歌が聞きたい。エギエディルズのためだけの歌を、もう一度。
フィリミナはしばらく何も言わなかった。改まって正面切って歌ってくれと言われると、一人で歌っているときよりも照れてしまうのは解るので、返答を急ぎはしない。なんなら断られても構わない。けれどできたら。叶うのならば。
そんなエギエディルズの想いは、口に出さずともフィリミナに伝わったらしい。
「……Happy Birthday to you.」
そうして聞こえてきた、ささやくような歌声に、エギエディルズは目を閉じた。Happy Birthday to you.知らない言葉だ。けれどエギエディルズを確かにことほいでくれる言葉だ。
「Happy Birthday Dear Edy.」
甘やかな歌声が、胸の内のさびしさをいとしさへと塗り替えていく。
この歌声がある限り、エギエディルズは決して薔薇にはなれない。酢漿草になって、フィリミナという雛菊のそばで、これからもともに生きていく。
「Happy Birthday to you……」
そして余韻を持ってピリオドを迎えるのを待ってから、エギエディルズはまたくるりと踵を返した。こちらに体重を預けていたフィリミナがバランスを崩すのをすくい上げるように受け止めて、そっとその夜着に包まれた華奢な身体を抱き締める。
薔薇よりもずっとかぐわしい香りを胸いっぱいに吸い込んで、エギエディルズは「もう」と倖せに苦笑する妻の額に、口付けを落とすのだった。