【恋は異なもの味なもの】
とある春の昼下がり。
クランウェン殿下の世話役として、書類仕事に勤しむ彼の作業が捗るよう、ひと休みのためのお茶を淹れていた時のことだった。
「そもそもフィリミナはどういう男が好みなんだい?」
「……はい?」
思ってもみなかった、あまりにも唐突な、何の前触れもなき問いかけである。反射的に紅茶を注ぐ手を止めた。危ない危ない、うっかりこぼすところだった。
幸いなことに無事な姿を保つ、王宮御用達の食器店が用意したのだという最高級のティーセットを前にして、私はそのまま首を傾げる。それからその問いかけの発言者、すなわちクランウェン殿下そのひとの方へと視線を向ければ、彼はその綺麗に整ったお顔に、にこりと笑みを浮かべてみせた。
いつも通りにお美しく、だからこそ余計に何を考えているのかさっぱり解らない微笑みである。
「申し訳ございません、殿下。もう一度仰っていただけないでしょうか」
「うん? いや、だから、きみはどんな男が好みなのかな、という話だよ」
「…………」
聞き間違いであったかと思ったのだが、そうではなかったらしい。つい半目になり、いかにもうろんな視線を向けても、クランウェン殿下の底知れない笑みは崩れない。むしろ楽しそうにその笑みは深まるばかりで、なんとも言い難い敗北感が口の中に広がっていく。
ええと、それで、なに、なんだったか。どんな男が好みだと? すなわち異性の好みとやらを彼は私に訊きたいわけだ。
うーん、異性の好み、とは。苦味の残る口の中で繰り返してみて、その響きのなんとも言い難い不思議な食感に首を更に傾げたくなる。なんだそのうら若きお嬢さんや思春期のお坊ちゃんが食いつきそうなネタは。
わざわざ我が夫たるエギエディルズ・フォン・ランセント……ではなく、此度の件におけるクランウェン殿下の護衛役である騎士、エディルカ・ヴィンスが不在のときを狙って問いかけてくるなんてつくづく趣味が悪い。いや、あの男がいるときに訊かれてもそれはそ
れで微妙に……否、かなり困る問いかけではあるのだけれど。
というか。
「クランウェン殿下。わたくしにそのようなことをお聞きになるよりも先に、お仕事を片付けられるべきかと存じます」
「ひと段落はしたけれど?」
「ひと段落では、まだ終わってはいらっしゃらな……」
「じゃあ休憩ということにしよう。ほら、君も座るといい。それから話をしようじゃないか」
私が是非を答えるよりも先に、クランウェン殿下はさっさとデスクの向こうの椅子から立ち上がり、ソファー席へと移動してしまわれた。それからぽふぽふと自らの隣の席を叩き、ほらどうぞ、とばかりにまた微笑む。彼のその優雅なお姿に、一気に疲れが襲ってくる。
繰り返すが、つくづく何を考えていらっしゃるのか解らないお方だ。半目を通り越してそのまま目を閉じ、この激しい頭痛を乗り越えて、何もかも聞かなかったことにしたら駄目だろうか。
……うむ、解っているとも、それでは駄目なのだろう。
これで私が聞かなかったことにしてすべて済ませてくれるお方なら、私がこうして彼の世話役となることも、夫であるあの男にまで負担を強いることにもならなかったに違いないのだから。
ここはさっさと彼のお望みを叶えて、政務を再開させていただくに限る。人生において諦めと妥協は大切だ。それから慣れも。こんなこと知りたくはなかったが。
込み上げてきた溜息を無理矢理飲み込んで、大人しく誘われるがままに、クランウェン殿下の隣に腰を下ろす。もちろん、ティーセットが乗ったワゴンは近くに移動させた。
こんな風に彼のすぐ隣に腰を下ろすなんて、人目がないからこそできる真似だ。この状態を他の皆々様に見られたら、「なんて無礼な!」と、怒声を通り越して悲鳴を上げられるに違いない。ああ、胃が痛い。気を紛らわせるために、クランウェン殿下の前に淹れ立ての紅茶の香りが芳しいティーカップをそっと寄せると、彼は「ありがとう」とやたらと眩しい笑顔でお礼を仰ってくれてから、自らミルクをわずかに注ぎ、そのまま口に運んだ。そうしてそれから「それで?」と私に向かって小首を傾げてみせる。
くそぅ、やはり紅茶でごまかされてはくれなかったか。仕方がない。ああそうとも、仕方がないのだ。今度こそ完全に白旗を上げた私は、「そうですね」と一言言い置いてから、ふぅむと考えてみる。
「どんな男が好み」か。うーん。ううーん。そうだなぁ、と一つ頷いて、ぴっと人差し指を立ててみた。
「いちばんは、優しい殿方……とか?」
「月並みだね」
「月並みであるからこそ、誰もが求める条件でございましょう?」
「なるほど。それから?」
「ええ……?」
まだ聞いてくるかこのお方。光の加減で金色にも見える琥珀色の瞳を心なしか輝かせながら聞いてくるクランウェン殿下を前にして、うううーん、と、唸ってから、二本目、そして三本目の指を立てる。
「落ち着きがある方であるとより好ましいです。包容力があってくださるとなおよろしいかと」
そう、あえて言うならば、あの男の養父であらせられる、ランセントのお義父様のようなお方がいい。どんな相手にも等しく優しくて、理知的に落ち着いてらして、ほっと安らげるような包容力をお持ちのあのお方は、出会ってからずっとこの方、私の憧れの男性である。『前』の私にとっても、『今』の私にとっても、ドストライクのタイプだ。あの男と結婚してからも未だに、彼を前にすると少女のようにときめいてしまう。三つ子の魂百までとはよく言ったものである。
まあ恋愛対象にできるのかと言えば、そうでもないのかもしれないのだけれど。ランセントのお義父様相手にそんな不埒なことを考えること自体が申し訳ないと思ってしまうのだ。ううむ、難しいものである。
とは言えあのお方が好みであることはまあ間違いはないはずなので、条件としてはこんなものだろうか、という気持ちを込めて隣を見遣ると、その視線の先のクランウェン殿下は、なんともかんともいかにもどうしようもなく、非常につまらなそうな顔をしていた。
なんだなんだ、私は何かまずいことを言っただろうか。つい首を傾げ返すと、彼は持ち上げていたティーカップをテーブルに戻して、「つまり」と続けた。
「君は、見目よりも中身を重視すべきであると考えていると?」
そういうことかな、と確認のように問いかけられたので、「さようにございます」と頷き返す。そうそう、とどのつまりはそういうことである。見た目が一級品でも中身が粗悪品だったらいただけない。恋愛対象とするには向かない相手だ。不幸な結果になることが目に見えている。
だからこそクランウェン殿下のその「見目よりも中身を重視すべき」という言葉に頷いた訳だったのだが、彼は「ふうん、そう」と大層気のない頷きを返してきた挙句に、どことなく、なんというか……そう、疑わしげとでも言いたげに、瞳を眇めてみせた。
「あの夜の妖精と謳われるエギエディルズ・フォン・ランセントを夫に選んだ君が言っても、まったく説得力がないなぁ」
「……」
ぐうの音も出ない。ごもっともである。我が夫であるあの男、エギエディルズ・フォン・ランセントの美貌は、純黒の魔法使いとしてばかりではなく国内外に知れ渡るほどである。
毎日目にしているあの美貌、いくら見ても見飽きることはない。いい加減慣れはしたけれど、それでも目を惹き付けられることは割とある。身長だって男女が憧れるちょうどいい高身長で、腰の位置は高く、手足は長く、いっそ透けるような白い肌はきめ細かく滑らかだ。漆黒の髪は畏怖を集めるばかりだけれど、枝毛一本もなく艶やかであり、橙色と紫色が入り混じる珍しい瞳は朝焼けをすくい取ったようであり、その瞳を縁取る睫毛は長く濃い。
びっくりするほど美しいものばかり……美しい物“だけ”を集めたようなあの男。しかも身分は王宮筆頭魔法使い。お金持ち。どこからどう見ても、非の打ちどころがない。
そんな相手を夫に選んでおいて、「見た目よりも中身重視」なんて、なるほど説得力はない。皆無である。
「エディは、その……見た目よりも、あの、ええと」
「中身が魅力的?」
「……そうでもないかもしれません」
最近は随分マシになったけれど、昔は……特に婚約者時代は、本当に酷かった。幼馴染という欲目を抜きにしてもあれはなかったと思う。鋭利な刃のような台詞の数々に、私は何度「この野郎」と拳を握り締めたことだろう。
せっかくの美貌はいつも仏頂面で、吐き出される言葉は冷たくて、仕事にかまけてばかりでちっとも会いに来てくれなくて。酷い男だった。本当に。
ついしみじみと遠い目をすると、不意に私が膝の上に置いておいた手が、隣から持ち上げられる。おや、と瞳を瞬かせると、私の手を持ち上げなさったクランウェン殿下が、その私の手をそっと撫で、にこりと笑いかけてくる。うっまぶしい。
「見目を重視するなら、私だって悪くはないと思うんだけれどね?」
どうだろう? とそのまま私の手を更に自らの方へと引き寄せ、唇に触れるか触れないかギリギリのところまで持って行ってしまう彼に、ひくりと顔が引きつるのを感じた。か、勘弁してほしい。
「は、はあ……。確かに殿下は大層お麗しくいらっしゃいますが」
「だろう?」
にっこりと更に笑みが深まる。ひえっと息を呑んでしまった。
あの男はあの男でなかなか事故物件であるけれど、このお方よりはマシな気がする。あの男が事故物件なら、このお方は、そう、とびっきりの新築だけど間取りが悪すぎて実に暮らしにくい問題物件とでも言うべきか。
無理無理、無理だ。私の手にはあまる物件である。
「そ、それより! そう仰る殿下はいかがなのですか!?」
「うん? 私の好みってことかい?」
「はい!」
バッとクランウェン殿下から手を奪い返し、こくこくと頷く。うんうん、ごまかすためにとっさに出た問いかけだったけれど、なかなか悪くない問いかけだ。いくら聖職に就いており、還俗しない限り婚姻を結ぶことはないとしても、普通に好みくらいはあるだろう。
このお方を相手取ることができる女性なんてそうそういたものではないだろうし、そもそも彼自身の理想がものすごーく高そうだ。
さてはて、どんなお答えを頂けることやら。ははは、自分で訊いておいて何だけれど、だんだん怖くなってきた。
「そう、だな。私は――……」
ふ、と琥珀の瞳が宙をさまよう。ゆらりと揺らぐその瞳に、金色の光が差した。ついその光を追いかけると、その神秘的な光が、私の方へと向けられる。
思わずぎくりとした。やぶへびな質問であったかもしれないと後悔しても遅い。後悔とはいつだって後から悔いるから後悔なのだ。
ひええええ、とおののく私に向かって、クランウェン殿下は薄く微笑む。
「私を、退屈させない人かな」
そうして返ってきた答えは、思っていた以上に、随分と曖昧な答えだった。ふわふわとつかみどころがないその答えが示す相手は、どこにでもいるのかもしれないし、あるいは世界中のどこを探しても見つけるのは困難であるかもしれない、そんな風に思わせる答えだ。
「――殿下のご理想は、大層お高くいらっしゃるのですね」
「そう思うかい?」
「はい」
退屈させない、なんて、それは本人の主観であって、周りがお膳立てして用意できる存在ではない。このお方が理想のお相手を見つけようと思ったら、このお方ご自身が尽力なさらねばどうにもならないのだ。
しかし、彼がそういう真似をわざわざなさるとは到底思えないので、やはりその理想は、とってもとっても、エベレスト級に高いということなのだろう。なんなら大気圏まで突入するかもしれない。
まあこの方が神官という立場にいらっしゃる限りは必要のないご尽力であるのだから、結局私のこの考えは邪推であって、余計なお世話であると言えよう。
うんうん、と頷いていると、ふふ、とクランウェン殿下は、その笑顔を解りやすくからかうようなそれへと変えた。
「あのエギエディルズ・フォン・ランセントを夫に選んだ女性に、理想が高いと言われるとはね」
「……失礼いたしました」
「いいや、気にすることではないよ。そもそも君達の婚姻……婚約のその理由は、双方にとって致し方のないものであったと聞いているし」
「!」
思わず目を瞠る。致し方のないもの、とは。まじまじとクランウェン殿下のお顔を見つめれば、彼は「違うかい?」とまた首を傾げた。
はらりと肩から流れ落ちる長い白金の髪がきらめいた。迷える子羊の道を導く立場にありながら、人心を惑わしてもおかしくない美しさだ。知らず知らずのうちにごくりと息を呑む。
このお方の仰る通り、私とあの男の婚約、そしてその後の婚姻は、はたから見れば確かに“致し方のないもの”と受け取られても仕方がないものではある。幼かったあの日、あの男――当時は『あの子』と呼んでいた少年と一緒に召喚した焔の高位精霊により、私は大怪我を負い、精霊からの加護を失った。
おかげさまで、この身体は最も世間一般的とされる精霊の力を借りる霊魔法を受け付けなくなった。水の精霊による治癒魔法の一切を受け付けず、いざというときには使い手自身の魔力による狭義の意味での魔法か、あるいは神の力を借りる光魔法による治癒魔法しか効果を受け入れられない。
そのことで先達ての事件においても散々皆々様にご迷惑をおかけしたのだが、それはさておき、とにもかくにもそういう『キズモノ』の私を結婚相手にと望んでくれる相手が、怪我の原因の一端を背負わせることになってしまったあの子、もといあの男しかいなかった訳である。
だからこその婚約。だからこその婚姻。致し方のないもの。そう陰口を叩く人々が少なくないことを知っている。
けれど。
「わたくしがあの人を選び、あの人がわたくしを選んでくださったのです。そこにどんな“致し方のないもの”がございましょう?」
自信たっぷりに笑ってみせる。まったく失礼してしまう。何が“致し方のないもの”だ。冗談ではない。お互いの心の内を知らなかった以前ならばいざ知らず、今更そんなことを言われても屁でもない。おへそでお茶がわかせてしまう。
私の満面の笑顔に何やら驚いたように目を瞠るクランウェン殿下を置き去りに、更に続ける。
「あの人は、見た目は確かに最上級ではありますが、中身はそれを凌いであまりある残念な殿方ですわ。ええ、本当に、わたくしはどれだけそれで苦労をさせられたことでしょう。ですが、それでいてあの人ったら、時々すごくかわいいんですもの。放っておけないと申せばいいのでしょうか。だからこそ余計に、本当に困った、仕方のない人です。ふふ、ああ、そうですとも。そういう意味では確かに、“致し方のないもの”はございますね」
そういえば、以前、姫様とのお茶会でも、姫様に、「あの男のどこがよかったのか」と問われたことがある。あのときの私は、「どこなのでしょう?」と首を傾げたものだ。そうしてそれから、要約すれば、「空気のような存在だったから」とお答えした。
なるほどなるほど、こう言ってみると、あの男ほど私にとって“致し方のないもの”はないのかもしれない。生きていくために、空気は必要不可欠なのだから。あの男以外なんて考えられない。クランウェン殿下のお言葉は、そういう意味ではとっても正しい。
仕方がないから結婚した、なんて、どの口が言えると言ったのものなのだかと我ながら思う。あの男も私も、お互いを誰よりも望んで結婚したのだ。
そこに嘘も偽りもない。諦めも妥協も慣れもなく、ただそうするのが当たり前で、そうありたいと願った末の結婚である。だからこその幸福が、今、ここにある。
「殿下? どうなさいまして?」
いけない、つい顔が緩んでしまった。
それとなくを装って顔をむにむにとさすっていると、そんな私をじいと見つめていたクランウェン殿下は、やがてその視線を天井へと向け、小さな溜息を吐いてくださった。いちいち絵になるお姿だが、いちいち嫌味ったらしい仕草でもある。
「……いや、別に」
なんでもないよ、と、クランウェン殿下は何かを振り払うかのように、ひらりと片手を振ってかぶりを振った。
いや、別になんでもない、というようにはどうにも見えないのですけれど。
「殿下、あの……」
「フィリミナ」
「はい」
「君は面白いね」
「…………はい?」
どういう意味だ。褒められているのだろうか。大体、なんだそのお顔は。『面白い』と言いつつ、これまた随分と、先程よりももっとずっとつまらなそうなお顔をなさっているではないか。
んん? と私が首を傾げても、クランウェン殿下はそれ以上何も仰ってはくださらなかった。
その話はそのままそれっきりとなり、彼は政務に再び臨み、私はそのお側に控えることになったのである。
――なんてことがあったせいだろうか。
エディルカ・ヴィンスに扮した男の姿を直視できなくなってしまったのは、まったくもって不測の事態であった。
おかしい、どうしてこうなった。王宮筆頭魔法使いとしての『別件』を終えて、再び護衛役の騎士として戻ってきた男の隣に立っているのが、なんだか妙に気恥ずかしい。自分でも驚くほどどきまきとして、変に意識してしまう。
繰り返そう。おかしい、どうしてこうなった。
いや、どうしても何もないことは解っている。要は、大変今更ながらにして、この男のことを異性として意識してしまっているという、ただそれだけの話だ。
いつも通りの黒髪の姿だったらこうはならなかったのだろうけれど、その、今は見事な金髪のロングヘアである訳で。未だに見慣れることはないその姿に、どことなく私の知らない誰かを感じさせられて、それでも相手は他ならぬ我が夫である訳で、つまりはその辺で頭と感情の処理が追い付かなくなってしまったのだろう。お恥ずかしい限りである。
気付かれないように、じい、と、隣を横目で見上げる。うう、どうしよう。か、格好いいなんて、そんな、今更、いまさら……!?
ただ髪と服装が違うだけなのに。現金にも程がある。そんな馬鹿なという話である。自分で自分が信じられない。ああどうしよう。顔が熱い。見つめるのをやめられない。
どうしよう、どうしよう――と、私が内心で転げ回っていたその次の瞬間、ばちりと音がしそうな勢いで、男と目が合った。こちらを横目で見下ろしてくる男に反射的についびくりと身体を震わせてしまう。
それでも目が離せず、余計に顔が赤くなっていくの感じる。
「あ、あの」
「……」
おろおろと見るからにうろたえる私を見下ろす男の、その大きなマントが翻る。マントを持ち上げて私を包み込んだ男は、そのまま私と自身を隠す。
何事かと目を瞬かせていると、男はマントの影で身をかがめて、そして、それから。
「エ、エディルカ様? ……ッ!?」
軽くついばむように触れ合った唇に、ぴゃあああああああああ! と、声にならない悲鳴を上げる羽目になった。
顔色はもう言うまでもなく真っ赤である。きっと茹でタコだってこんな赤にはならないに違いない。
「なななななん、なに、何なさいますのっ!?」
「いや、誘われているのかと思って」
「さそ……っ!?」
「違ったか?」
「違いますとも! いくらわたくしでも、時と場所と場面はわきまえております!」
「なるほど、時と場所と場面を考慮したら構わないということか」
「エディ!! ……じゃなくて、えでぃ、エディルカ様!」
なんてこと言うのだこの男は!! どれだけ私が怒りをあらわにしても、男の涼しい顔は崩れない。
ああもう、本当、本当に格好よくていらっしゃることで……! と拳をふるふると震わせていると、「君達」と、声を掛けられる。どうにも複雑そうなその声は、初めて聞くもの。
そちらを見遣れば、クランウェン殿下が、デスクの向こうで書類から顔を上げて、初めて見る苦笑を浮かべていらした。
「いちゃつくのは時間外にしてくれるかな?」
呆れ返っているような、同時に心底面白がってもいるような、なんとも不思議なその声音に、私がその場に崩れ落ちそうになったとは、言うまでもないことである。ちなみに男はやはり涼しい顔だった。
このやり場のない感情を、私はいったいどこへぶん投げればよかったのであろうか。答えは誰も、教えてくれるはずがなかったのだった。