【花筐はきみのため】
不本意であるとはいえ、最終的な結果としては、あくまでも自分から望んだこと。
そう理解しているとはいえ、いまだに納得はしたくない。我ながら往生際が悪すぎるとは解ってはいるが、それでもエディルカ・ヴィンス、もとい、エギエディルズ・フォン・ランセントはやはりそう思わずにはいられない。
王弟殿下にして神殿の高位神官であるクランウェンの護衛役を拝命して数日。
ときに騎士たるエディルカ、ときに王宮筆頭魔法使いたるエギエディルズ。その二足のわらじを履きこなす日々にも慣れてきた。
とはいうものの、フィリミナ一人をクランウェンのそばに残してそれぞれの仕事をこなさねばならないときに湧き立つ苛立ち――いいや、正直に言ってしまえば、降って湧く怒りには、どうしても慣れることができない。毎回新鮮な怒りを覚える。自分でも驚くことに。
基本的に冷静沈着であるという評価を自他ともに認めるエギエディルズだが、フィリミナに関することとなると、そうはいかない。フィリミナの友人を自称するクレメンティーネ姫に言わせれば「てんで駄目ね。本当に貴方って面倒な男だこと。フィリミナも苦労するわ。こんなののどこがいいのかしら?」とのことだ。
心底不思議そうに首を傾げられたことはまだ記憶に新しい。こちらこそ心底巨大なお世話である。やかましい。放っておけ。
現在エギエディルズは、王宮筆頭魔法使いとしての仕事を終えたのち、エディルカの姿に扮して、クランウェンとフィリミナの元へ戻るために足を急がせていた。
無駄に広く遠いこの距離がもどかしく苛立たしく腹立たしい。チィッ! と思わず口汚くも盛大な舌打ちがこぼれてしまった。偶然擦れ違った人々がこちらの鬼気迫る様子に「ヒッ!?」と息を呑んだが知ったことではない。むしろそれを呼び声にして、エギエディルズは足をますますより一層急がせる。
王宮筆頭魔法使いとしての職務をまっとうするために、クランウェンの元から離れて、既に一時間は経過している。エギエディルズの裁可がなければ動かせない案件が、大祭を前にして一気に押し寄せてきた結果だった。こればかりはどうしようもないことなのだが、だとは言え、フィリミナを一人にはしておけない。クランウェンと二人きりになどもっとさせてはおけない。
エディルカとしての予定としてはこのあと、クランウェンの元に戻り次第、彼を中心にして、大祭に向けた、神官、青菖蒲宮の騎士、そして神殿騎士達との会合が入っている。
クランウェンの世話役であるフィリミナも、当然その場に同席することになってしまう。つまり、彼女が人目にさらされるということだ。自分ではない男どもの前に立つということなのだ。
もしかしたら予定が前倒しになって、〝エディルカ・ヴィンス〟抜きで会合が始まっているかもしれない。
冗談ではない。一刻も早くクランウェン……ではない。フィリミナだ。彼女の元に戻り、その隣に立ち、余計な虫どもを叩き潰すまではいかなくとも、せめてにらみをきかせて牽制する程度の真似はしなくては。
そう大股でエギエディルズは王宮を突っ切り、たっぷり秋波をふりかけた声をかけてこようとする身分や立場を問わない女性陣や、嫉妬ややっかみをふんだんに込めて絡んでこようとするこれまた身分や立場を問わない男性陣すべてを無視し、ようやくクランウェンが王宮にて過ごすために用意された貴賓室へとたどり着いた。
状況が許せば、いくらでも転移魔法を使って時間が短縮できたというのに、そうはいかないのが悔しくてならない。
エギエディルズ・フォン・ランセントが王宮のあちこちに、前触れなく突然現れても、ある程度は許容範囲として受け入れられる。まあ確かに驚かれるし恐れられもするが、「あの純黒の魔法使い様ならまあ……何をやらかされても不思議ではないのでは……それにしてもくわばらくわばら……」というように、とにかくある程度は仕方ないもの、触れてはならないものとして受け入れられる。諦められる、という方がふさわしいのかもしれない。
しかしエディルカ・ヴィンスはそうはいかない。あちこちひょいひょいぽんぽんと出現する謎の騎士。その美貌もあいまって、幽霊か妖精か魔物か妖怪かなどというあらぬ噂が立ちそうだ。〝エディルカ・ヴィンス〟の存在を認め保証したクレメンティーネ姫と、王宮騎士団長たるアルヘルムが頭を抱える姿が目に浮かぶ。
そんなこと知ったことではない、と言い切るには、二人はエギエディルズ、そしてフィリミナとの仲がそれなり以上に親密なもので、その性格も相まってあまり波風を立てるべきではないと解ってはいる――と、話がずれてきたが、とにかくエギエディルズはともかくエディルカにはさまざまな制限が課され、その一つとして、転移魔法が使えないという訳である。
だからこそ足を急がせて、ようやく戻ってこれたこの貴賓室。
心なしか乱れた息を一息で整えて、エギエディルズは扉をノックした。返ってきたのは、「はい」という穏やかな声。フィリミナだ。
逸る心をおさえて、「エディルカ・ヴィンスです」と短く答えると、向こう側から扉が開けられる。
「エディ……ルカ、様。お疲れ様でございます。どうぞお入りになってくださいませ」
いつものくせで「エディ」と呼びかけたところを寸前で堪えたところがなんとも愛らしい侍女服姿のフィリミナが、扉の向こうに立っていた。
その瞬間、何もかも投げ打ってその華奢な身体を抱きしめたくなる衝動に襲われた。が、ギリギリのところで理性が勝った。そんな自分を心の底から褒めてやりたいとエギエディルズは思った。本当にギリギリだったが。
そんな一瞬の内面の攻防を一切感じさせない、素知らぬ表情を美貌に貼りつけて、招き入れられるままに貴賓室に足を踏み入れたエギエディルズは、ぐるりと室内を見回した。そして気付く。
「殿下は?」
そう、この部屋の主であるはずのクランウェンの姿がない。代わりに、テーブルの上に一人分のティーセットと焼き菓子が鎮座している。鼻腔をくすぐるこの甘く心地よい匂いはエギエディルズがよく知っているものだ。
どういうことかとフィリミナを見下ろせば、彼女は少しばかり気まずそうに視線を泳がせた。
「フィリミナ?」
「さ、さぼっていた訳ではないのですよ?」
どういうことかと視線で先を促せば、フィリミナはようやく観念したように肩を落とし、そうして「まず」と口火を切った。
「最初に、クランウェン殿下からのご伝言をお伝えいたします。エディルカ様におかれましては、戻り次第、当初の予定通りの会合に出席されるようにと。お部屋は先日も使った紫牡丹宮の会議室とのことです。急ぎではないと伺っております」
「ああ、解った。それで、クランウェン殿下付きのはずのお前は、ここで一人で何をしている?」
「う」
フィリミナから伝えられた言伝は予想の範囲内だったので特にこれ以上言及することはない。それよりも気になるのは、何故フィリミナが、一人でこの部屋で、おそらく……いいや確実に、優雅にティータイムを楽しんでいたのかということだ。
本人に自己申告されなくとも、彼女の性格上、職務を放り出してサボって遊び呆けていたばかりとは思えない。クランウェンからの伝言ということは、彼がフィリミナをここに残していくことを認めているということだ。あれだけフィリミナにベタベタベタベタベタベタベタベタベタと必要以上にくっつこうとする御仁が、フィリミナを置いていくとは、何か不測の事態でも起こったのか。
クランウェンに何が起ころうとも正直何も思わないでいられる自信があるのだが、それでフィリミナに害が及ぶのはいただけない。とにかく本人から話を聞くのが先決だ。
そうエギエディルズが視線で先を促すと、フィリミナはこちらが勘違いをしている訳でも、ましてやそれで気分を害している訳でもないことを悟ったらしく、ほっとしたように表情を緩めた。
「神殿騎士の皆様のご到着が早まりまして、殿下御自ら、ご予定を前倒しになさいましたの。会合と言っても本日のものは大したものではないし、エディルカ様がいらっしゃらずとも、王宮の騎士の皆様がいらっしゃるからと。わたくしもおともしようとしたのですが、エディルカ様にこのご伝言を伝えるようにと拝命しまして、それからついでに休憩のお時間も頂戴しました」
「なるほど。だからそれか」
エギエディルズがテーブルの上のティーセットを見て頷けば、フィリミナは気恥ずかしそうに「はい」と頷きを返してきた。
「わたくしがなかなか食事を摂る時間を取れないことを慮ってくださったのです。お茶どころか厨房の一角でクッキーを焼く時間まで頂けて……」
ありがたいことです、とフィリミナは微笑んだ。その笑みは本当に嬉しそうなもので、彼女の笑みはエギエディルズが非常に好むところにあるというのに、今は何故だかそればかりではなくちりりと胸を焦がすものを感じさせる。
このお人好しが、とエギエディルズは声には出さずに内心で吐き捨てた。何が休憩だ、何が茶だ、何がクッキーだ。それだけのことでクランウェンの好感度が上がる、とまではいかなくとも、少なからずフィリミナは彼のことを見直したのだろう。冗談ではない。
前述の通り、ここ数日において、普段必要以上にフィリミナに接していたのがクランウェンだ。それなのに今回に限ってはフィリミナを残して会合に出席だと? フィリミナの存在を見せつけるには絶好の機会をわざわざ避けたのか。これまでの彼の行動を思うと、どうにも引っかかる。おかしい。クランウェンの行動はどうにも一貫性に欠けるような気がしてならない。
フィリミナのことを本当に慮ったから彼女をここに残したのか。それとも――フィリミナには聞かせられない話をするために、彼女を置いていったのか。
もしも後者であるならば、神殿騎士の到着が早まったから予定を前倒しにしたというのも、最初からその手筈になっていたのではないか? エディルカ――エギエディルズがいない間にしかできない話を、今、クランウェンはしているのではないか。
考えれば考えるほど疑わしく、疑惑が深まっていく。
「……エディルカ様? どうなさいまして? もしかして、やっぱり、ご自分がお仕事をなさっているのに、わたくしばかり休憩を頂いたのを怒って……」
「それはない」
こちらが無意識に眉をひそめていることに気付いたフィリミナがいかにも申し訳なさそうに伺ってきたため、エギエディルズは即座にかぶりを振った。怒るなどありえない。むしろ、エギエディルズの知らないところでクランウェンのそばにいられるよりももっとずっとマシなので、よくやったと褒め讃えたいくらいである。
そんなこちらの否定に改めて安堵したらしいフィリミナは、「それでは、エディルカ様はこのまま殿下の元に?」と首を傾げてきた。
エギエディルズはもう一度即座にかぶりを振りたくなったが、かろうじて耐えた。表情は耐えきれず、我ながらなんとも嫌そうな顔になってしまったことは自覚している。フィリミナのかんばせに、苦笑が広がった。
「エディルカ様……」
「言うな」
解っている、と噛み締めるように続ければ、エギエディルズの願い通りにフィリミナはそれ以上は何も言わず、こっくりと頷いた。本当によくできた妻である。エギエディルズの妻は今日もこんなにも気の利くすばらしい女性なのだ。だからこそ余計にこの場を離れがたくてならない。
いっそ黒蓮宮での仕事が長引いたふりをして、もっとフィリミナのそばに居座ってしまおうか。王弟殿下相手だろうが職権濫用だろうがなんだろうが、本当に心の底から、そんなもの全力で知ったことではないのだから。エギエディルズにとって何よりも優先すべきは目の前にいるこのフィリミナという妻なのだ。
それなのに。
「それではエディルカ様、お仕事頑張ってくださいまし」
それなのにその妻ときたら、エギエディルズの想いも知らずにあっさりと送り出そうとしてくれるのである。本当に、本当によくできた妻だ。フィリミナ・フォン・ランセントとは、エギエディルズがいっそ切なくなるくらいよくできすぎている妻なのである。
少しくらいならばいいではないか、という気持ちを込めて見下ろせば、フィリミナは本当に困ったように苦笑を深めた。
――ああ、仕方ない。
フィリミナを困らせたくはない。仕方がないから、大人しくあの忌々しい王宮殿下様の元に向かおうではないか。
そうエギエディルズがきびすを返そうとすると、くん、と。肩からまとうマントに、何か引っかかりを感じた。
肩越しに振り返ると、フィリミナのそのほっそりとした手が、マントのすみをそっと掴んでいる。
どうかしたのか。ぱちりと瞬いてみせれば、「少しだけお待ちくださいね」と言い置いてから、フィリミナはマントを手放し、早足でテーブルに向かったかと思うと、また早足でエギエディルズの元まで戻ってきた。その手には、かわいらしくリボンと紙製のテーブルでラッピングされた、片手に収まる程度のささやかな包みがある。
差し出されたそれを反射的に受け取ると、フィリミナは控えめに微笑んだ。
「お食事のお時間がなかなか取れないのは、エディルカ様も同じでしょう? お時間ある時に召し上がってくださいまし。チーズクッキーです」
「……!」
なんてことだろう。エギエディルズの妻は本当によくできた妻だが、彼女はエギエディルズが思っていた以上に、もっとずっとよくできている。
彼女は、彼女ばかりのためではなく、エギエディルズのためにもわざわざクッキーを……それもとりわけエギエディルズが好むチーズのものを用意していてくれたのだ。状況に寄っては無駄に終わるかもしれないというのに、わざわざこんな風にかわいらしくラッピングまでして。なんて、なんてよくできた妻なのか。
そのことに驚くほど衝撃を受け、呆然と立ち竦んでいると、何を勘違いしたのかフィリミナは、そっと「ご迷惑だったかしら」と気遣わしげにこちらを見上げてきた。その瞳の中で揺れる不安に、気付いたらエギエディルズは、身をかがめてその額に口付けていた。本当に、無意識の所業だった。
自分が何をしたのかに気付いたのは、額を押さえて真っ赤になって震えるフィリミナの姿に改めて気付いたときだった。
「エ……ッ、エディ…………っルカ、さま!」
ふるふると震えるフィリミナは、こんなときでも律儀にエギエディルズのことを〝エディルカ〟と呼ぶ。
そう呼ぶように言ったのは自分だが、今は不思議とそれが惜しいなとエギエディルズは思った。
「い、いくら人目がないからとはいえ、わたくしは〝エギエディルズ・フォン・ランセント〟の妻なのですからね? な、なに、何をなさいますの……!」
気恥ずかしさが過ぎていっそ恨めしげに見上げてくるフィリミナに、エギエディルズは本日嫌と味わわされた苛立ちや怒りがすべて洗い流されていくのを感じた。自然と口元に笑みが浮かぶ。
「ああ、解っているさ。お前は、〝エギエディルズ(俺)〟の妻だ」
「ぜんぜん解っていらっしゃらないでしょう!」
「さて。これは貰っていこう。礼を言う」
じゃあな、と、フィリミナだけに向ける微笑を最後に、エギエディルズは改めてきびすを返した。懐には、しっかりチーズクッキーの包みをしまって。
そんなエギエディルズに対し、何やら言い募ろうとしていたらしいフィリミナは、出鼻をくじかれたらしく、「……いってらっしゃいまし」と唇を尖らせてから、深く頭を下げた。
その気配を感じながら貴賓室を後にしたエギエディルズは、そうして一人歩きながら、人知れず溜息を吐く。すれ違う人々が、美貌の騎士の憂いを込めたその溜息のゆくえにうっとりと目を細めるのを後目にして、エギエディルズは思う。
エギエディルズの妻は、本当に、本当に、本当に本当に! とてもよくできた妻だ。
なんて魅力的な女性なのだろう。
それはとても誇らしいことのはずなのに、エギエディルズは何故だかそれを同時にとても残念なことだとも思うのだ。
彼女の魅力を知っているのは自分だけでいい。そう、いつだったか、結婚前に思ったことがある。宙に浮いたような婚約時代、事情を知らない輩がフィリミナに手を出そうとしたことがそれなりに重なったころだったか。
どうしてフィリミナの魅力を知っているのが自分だけではないのだろう。結婚すればもうそんなことなど思わなくてもよくなるに違いないと当時は信じていた。ところが実際はこのありさまだ。ようやく結婚まで持ち込んで、名実ともに彼女を射止めたと確信した今になっても、今なおそう思わずにはいられない。
結局のところ、フィリミナの魅力は、どれだけエギエディルズが隠そうとしても、決して隠し切れるものではない。気付ける者しか気付けない、気付かない者は永遠に気付かない魅力だが、だからこそ一度気付いてしまえば、総じてその者達はとぷんと静かに、けれど確実に、どこまでも深くその魅力に沈み、そのまま溺れてしまう。
いっそ彼女を誰の目にも触れられないところに隠してしまえばいいのだろうか。
それが許されるのならば、エギエディルズはきっと――……。
「ままならないな」
『きっと』、なんだと言うのだろう。フィリミナが望まないことを、エギエディルズは結局絶対にできないし、したくないのだから、どうしようもないのだ。諦めるしかない。惚れた方が負けだとはよく言ったものだ。エギエディルズはフィリミナに勝てやしない。いままでも。これからも。
だからその代わりに、エギエディルズの大切な雛菊に集まろうとする余計な虫どもを、エギエディルズは確実に仕留めていくことしかできないのだ。それこそ、いままでも、これからも。
はあ、ともう一度溜息を一つ。
そしてエギエディルズは、そっと懐のチーズクッキーの包みを服の上から撫でてから、目下における最大の虫を不本意にも今のところは守るために、足を急がせ始めたのだった。