夏を連れていくひと(単発SS)
祭り囃子が夜をどこか遠くでにぎやかすのを聞きながら、ぎゅうと唇をかみしめる。
なんとか守り抜いた、金魚すくいの成果をそっと目線の高さまで持ち上げた。透明なビニールの向こうでひるがえる鮮やかな朱色が少しだけ心をなぐさめてくれる。
友達とはぐれて途方に暮れていたところに同級生の男子達と偶然出会ったは不運だった。さんざん追いかけまわされて逃げ惑ううちに、祭りの喧騒が遠い神社のこの森の中へと迷い込んでしまった。
神社の神様はきつねなのだという。祭りの主役のおきつねさまは、夏の終わりにやってきて、秋の実りを運んできてくださり、代わりにその年の夏のすべてを連れていってしまわれるのだとか。
じっとりと湿気をはらんだ森の空気は重苦しくて、着崩れた浴衣は暑くて苦しくて、だったらもうさっさとその夏のすべてとやらを連れて行ってくださればいいのに、なんて思ったら、ちょうどそのとき、夜闇をひらりと白い何かが、金魚の尾のようにひるがえった。
ぱちりと瞬きをした次の瞬間、目の前に現れたのはきつねのお面。
「おまえか」
驚きのあまり腰を抜かして座り込む自分を見下ろす、昏い森の中でもなぜだかその輪郭がはっきり解るだれか。
きつねのお面の向こうから聞こえてきた声は、高くもなく低くもなく、真っ白なお衣装がまるで輝くようで、高足下駄を履いているせいか、随分と高いところから見下ろされているような気分になった。
そのひとはひょいと身をかがめて、呆然としているこちらの顔を覗き込んでくる。
「おまえが、俺の嫁御殿か。今年こそようやく悲願が叶うとじじばばどもがうるさくてな、ほとほとうんざりしていたんだが、うん、なるほどどうして悪くない」
よめごどの。
聞き慣れない言葉に瞳を瞬かせると、泣くもんかと決めていたのに、ぼろぼろと涙が止まらなくなってしまった。
「ああ、泣くな泣くな、もったいない。そんなにも俺の嫁が不満なら、俺が嫁になってもいいぞ。俺はどちらにでもなれるからな、ほら、だから泣くな」
大きな白い袖で顔を拭われる。
よめごどの、とは、どうやらお嫁さんのことらしい。意味が解らなくて涙が引っ込んだ。ぽかんとするこちらをお面越しに満足げに見つめてきたそのひとは、長い黒髪を軽やかに跳ねさせて立ち上がったかと思うと、「初潮も前の娘を隠すのはまずいか」とやっぱり意味が解らないことを言って、そうして白い指で、こちらの背後を指さした。
「まっすぐ、振り返らずあちらへ向かえ。来年、お前が大人の証を迎えたら、今度こそ俺はお前を隠しに来よう」
名前は。問いかけられて、反射的につい答えてしまった。お面の向こうで、そのひとは大層嬉しそうに笑ったようだった。
「撫子か。秋を招く花よ。俺のつがいにふさわしい名だ」
白い手がこちらに伸ばされる。濡れた頬を撫でていく手はひんやりと冷たくて、ぞくりと肌が粟立った。なぜだかこわいと、そう思った。
言葉が出てこないこちらを見下ろすそのひとはくつくつと嗤い、ぱちんと指を鳴らす。
その途端、手に握りしめていた水で満ちていたビニール袋がはじけた。飛び出した朱色の金魚達は、ひらりひらりとそのひとの元へと宙を泳いでいく。
「今年はこいつらを贄としよう。なに、おまえの世話役として、この一年でみっちり仕込んでやるから心配するな」
いつの間にか聞こえなくなっていた喧騒が再び戻ってくる。
からん、と下駄を鳴らし、そのひとは森の奥にぼうと浮かび上がる、いつの間にかそこにあった朱塗りの鳥居へ向かって歩いていく。
白い後ろ姿を見ていることしかできない自分の方に、鳥居をくぐる直前、そのひとは振り返って、きつねのお面をそっと頭の後ろにずらした。
見たこともないような綺麗なお顔に、きらきら金色の瞳が輝いている。
「また来年。楽しみにしているぞ、撫子」
優しく、穏やかに、ぞっとするくらい綺麗にそのひとは微笑んだ。そのひとの向こうの、鳥居の奥には、青空が、真夏の入道雲が。
まぶしくて目が開けていられなくて、思わず目を閉じる。
ざぁっと風が吹いた。湿った夏の風ではなくて、涼やかな秋の風だ。全身から汗がひいて、やっと目を開けたとき、周囲はいつも通りの森になっていて、背後から囃し声がまた聞こえてくる。
――また来年。
耳朶によみがえる優しくもおそろしい声にぶるりと身体が震えた。
決して振り返ってはいけないと、振り返ったら最後だと、そう自分でも得体のしれない何かが訴えかけてきて、だからこそ決して振り返らずに、まろびそうになる足を急がせる。
今年も祭りが、夏が終わる。
そうして、今年も秋がやってくるのだ。
きっと来年もそれは変わらないはずなのに、来年の秋をいつも通りに迎える自分が、なぜだか不思議と想像できなかった。