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『災厄令嬢の不条理な事情』発売記念SSその2

2021年8月20日、『災厄令嬢の不条理な事情 婚約者に私以外のお相手がいると聞いてしまったのですが!』が発売されました!
新作文庫です。
同年8月27日には電子書籍版も配信開始となります。

【あらすじ】

――王太子殿下は、とある男爵令嬢にご執心。
自身との婚約を公表するという王太子からの手紙が届いた聖爵家令嬢マリオンは、同時にそんな不穏な噂を耳に!
そこで彼女は、真相を究明すべく、王太子に不満たらたらな美貌の従者リヒトと共に旅立った。遥かな王都へ二人だけで……。
仕方ないじゃない、我が家はド貧乏なのよ!
しかも、馬の暴走で徒歩になるし、道中では賊に襲われ、災難続き……。
でも、襲い来る不運を撃退して目的を達成してみせるんだから!
災難に愛されすぎている令嬢の前途多難なラブファンタジー。
(一迅社文庫アイリス様公式HPより抜粋)


【発売記念SSその2:アンラッキーバースディ?】

発売を記念して、先日に引き続き本編前日譚にあたるSSその2を公開させていただきます。
ちなみに、前回のSS【赤い果実の名前】はこちらです。

こちらは本作ヒーローたる美貌の使用人リヒト視点の物語でしたが、今回は主人公にしてヒロインたるマリオン視点、彼女の18歳の誕生日の物語です。
前回以上に本編にそのまま繋がる前日譚となっております。
楽しんでいただけますように。

***

「突然の通り雨に、バルコニー倒壊、極めつけは腐った果実……我ながら素晴らしいフルコースだわ」

 ちゃぷん、とたっぷりと石鹸を溶かして泡立てた湯をつま先ではじきながら、マリオンは溜息とともに小さく呟いた。誰に向けたものでもない呟きは、高いドーム型の天井の下で、驚くほど大きく響く。なんともむなしい呟きをかき消すために、ぶくぶくぶく、と泡立つ湯の中に息を吹き込んだ。より細かくなった泡を頭に乗せて、念入りに汚れた頭頂部を洗う。母譲りの柔らかい髪質の、珍しい鈍色の髪は、濡れるとよりくせが強くなる。だからこそ余計に、いつもよりも丁寧に、丹念に。だって今日は特別な日。ぱちりと大きく灰銀色の瞳を瞬かせ、マリオンはよし、と一つ頷く。
 本日、春の訪れを感じるようになったとある日。マリオン・ストレリチアスは、十八歳になった。
 素晴らしき日となるべき本日、まずはこの春になったばかりの真新しい日差しを浴びるために、朝一番にマリオンはバルコニーへと足を踏み出した。それがはじまりだ。突如としてどしゃぶりの雨に降られてしまったのである。それはほんの数秒にすぎない通り雨だったけれど、マリオンをびしょびしょの濡れネズミにするには十分すぎるほどの雨量だった。
 そこまでは予想の範疇内だったのだが、その通り雨がトドメとなったのか、老朽化が進んでいたバルコニーが倒壊したことには流石に驚かされた。バルコニーごと中庭に向かって投げ出されて、まさか十八歳の誕生日が命日になるかと一瞬思ったものだ。だがしかし、持ち前の運動神経でもって宙返りをばっちり決め、華麗に着地した自分を心から褒めてやりたい。
 とはいえ話はそれでは終わらなかった。季節を間違えて実っていた中庭の樹木の果実が、熟すを通り越して腐り切り、着地を決めたばかりのマリオンの頭にぼちゃりと落ちてきたのである。特別な誕生日であるマリオンに対し、あんまりな仕打ちである。だがそれもやはりいつものことと言ってしまえばそれまでだったので、マリオンはバルコニー倒壊の騒ぎを聞きつけてやってきた、ストレリチアス家現当主である叔父シラノと、ストレリチアス家唯一の使用人のすすめに従って、贅沢にも朝風呂を浴びることになったのである。
 古くから付き合いのあるドワーフの秘術により、ストレリチアス家の屋敷では、水が使いたい放題だ。わざわざ井戸水を汲みにいかなくても、ドワーフが“蛇口”と名付けた取っ手を捻れば、天井からあたたかな湯が降り注ぐ仕様となっている。
 頭からその湯を浴びて、べたべたと気持ちの悪い感触がする潰れた果実を洗い流し、湯船にしっかり身を沈めて、マリオンはほうと溜息を吐く。
 曲がりなりにも貴族のはしくれとして、シラノが、今日はお祝いをしようと約束してくれている。大好きな叔父がお祝いしてくれるのはとても嬉しいけれど、何せ相手はあの叔父だ。何をやらかしてくれるのか若干どころではなく不安はある。

「大丈夫、大丈夫よ、マリオン。今日くらいは叔父様だって大丈夫なはず!」

 お祝いをしてもらえるのはさておいて、風呂を出たらまずはブランチの用意だ。それから庭の畑の様子を見に行きたい。先程の通り雨で今日の水やりは終了したようなものだけれど、野菜はただ水をやればいいというものではないのだ。雑草は抜きたいし、収穫の時期を迎えているものがあるのならばきちんと無駄なく収穫したい。今日が十八歳の誕生日だからと言えども、やらなくてはならないことはたくさんある。
 そうだとも。誕生日だろうとも……いいや、誕生日だからこそ気が抜けない。頑張らなくちゃ、と気合入れにぱんっと両頬を両手で叩き、ざぶりと湯船から立ち上がる。髪と身体にまとわりつく泡をシャワーで流し落とす中で、降り注ぐお湯が気付けば水に変わっているのだって慣れたものである。
 くだんのドワーフに何度依頼しても「どこにも異常はないんですけどねぇ。なんででしょうかね」と首をひねられる謎のシャワーヘッドである。なんでだなんて、そんなことマリオンが聞きたい。古いことは間違いないのでそろそろ交換すべきなのかもしれないが、生憎そこまでできるほど金銭に余裕がある家ではないし、たとえできたとしても同じことになるのは目に見えている。なにせマリオン・ストレリチアスは、『災厄令嬢』なので。
 今日も今日とて災厄令嬢は、記念すべき誕生日であろうとも関係なく、元気に災難に見舞われている。その結果がこのバスタイムであり、ほぼほぼ毎日の恒例行事だ。せめて今日くらいは、と思っていただけに、この結果は誠に遺憾なことこの上ない。

「だめだめっ! 落ち込んできちゃう」

 ふるふるふるっとかぶりを振り、完全に身体が冷えてしまう前にさっさと泡を落として、マリオンはてきぱきと髪と身体をタオルで拭いて風呂から出た。
 身に着けるドレスは、十八歳の誕生日に着ようとずっと前から決めていた、大人っぽい紺色のもの。数少ない母の遺品の一つでもある。くせが強いためにきつく波打つ、瞳と同じく銀色の光沢を放つ鈍色の髪を丁寧に梳かし、姿見鏡で全身を確認する。

「よし、完璧」
 
 さして美人というわけでもない自分だけれど、これはこれでなかなか悪くない出来である。これで今日から自分も立派なレディの仲間入りだ。そう思うだけで、沈もうとしていた心が浮上していくような気がする。よしよし、この調子。
 姿見鏡の前でくるりとターンを決めて、ふわりと花のように広がるドレスの裾の残像を見届けてから、いよいよマリオンは今となっては唯一の血縁である叔父と、唯一の使用人である青年が待つであろう居間へと向かう。修繕が追いつかず、歩くたびにみしみしと悲鳴を上げる床のきしみすら、今日はなんだか嬉しいものだと思えなくもない。
 さあ、いよいよだ。

「叔父様、リヒト、お待たせしました」
「十八歳の誕生日、おめでとう、マリオン!」

 居間に入るなり、満面の笑みを浮かべたシラノがソファーから立ち上がって駆け寄ってきた。心から嬉しそうな、なんなら誕生日を迎えた本人であるマリオン以上に喜びをあらわにしている叔父の様子に、改めて今日という日がどういうものであるかを思い知る。

「ありがとうございます、叔父様」
「私の姪はなんて美しいのだろう! そのドレスは義姉さんのものだね? よく似合っているよ。本当は新品のものを用意してやれればよかったんだが……」

 マリオンのドレス姿を感慨深げに見つめてから、シラノは悔やむように銀灰色の瞳を伏せた。その力ない手を両手で包み込み、マリオンは「いいえ」と笑う。

「新品なんてもったいないですわ。私、お母様のドレスに袖を通すのが夢だったんです。やっと夢が叶いました」

 掛け値なしの本音だった。そもそもストレリチアス家に、わざわざドレスを新調するような余裕などない。だが、たとえ余裕があったとしても、このドレスを今日着ていたに違いないという自信がある。のんびりおっとりとした気質だった父をいつも凛々しく支える女傑であった母は、マリオンの誇りであり自慢でもある。そんな母のドレスを、胸を張って着られるようになったことが素直に嬉しい。

「そう、か……。そうだな、そうだとも。本当によく似合っている。兄さんも義姉さんもきっと喜んでいることだろう。さぁ、ドレスの代わりにはならないが、今日はとっておきのご馳走を用意したから早速……」
「お、叔父様がっ!?」
「ん? ああ、そうだ。いつもお前に任せきりだからね、今回は私が頑張ったんだよ」

 ふふふ、と自慢げに胸を張るシラノとは対照的に、マリオンの背筋を冷や汗が伝っていく。さあ見てくれ。そうシラノが身体をずらし、背後のテーブルにはここ数か月もの間、口にするどころか見たこともなかった豪勢な食事がどどんと並んでいるのを見せてくれる。
 なるほど、いい匂いがすると思ったらこういうことか。前々から「十八歳の誕生日は期待しておいておくれ」と繰り返していた叔父である。よほど頑張ってくれたのだろう。その気持ちは嬉しい。嬉しいのだがしかし。

「あ、あの、叔父様、このごちそうはどうやって……?」

 朝、起き掛けに感じた嫌な予感が的中している気がした。
 自慢ではないが、ストレリチアス家の財政状況はお世辞にもよいものではない。いくら国内有数のド田舎であるとはいえ――いいや、ド田舎であるからこそ、ストレリチアス家の領土は広い。つまりそれだけ税収がある。となれば決して金銭について困ることなどないはずなのだが、ここで唯一にして致命的な問題がある。
 現ストレリチアス家当主、シラノ・ストレリチアスが、稀代のお人好しであるという点である。領地への還元ばかりではなく、詐欺師やペテン師に騙されるばかりの彼の散財はとどまるところを知らない。涙ながらに「これが売れなくてはかわいい我が子が……!」と縋られでもすると、シラノは驚くほどあっさりと「それは大変だ」とぽんと私財を投じてしまうのである。大抵、マリオンが気付いたときには正しく『時すでに遅し』という状況に陥っている。高額で売りつけられた、本来は二束三文の壺を、何度悔しく磨いたことか。
 マリオンの愛すべき叔父の、明日の食事に困ることになっても人を助けようとしてしまう精神は、確かにすばらしいものだ。そんな叔父だからこそ心から慕っているのだが、それはそれとして、というやつだ。困るものは困る。
 おかげで、かつてその美しさは妖精の舞台とまで謳われたストレリチアス邸の中庭は、今はほとんどが自給自足のための畑となり、マリオンは日々を畑の世話に費やしている。土いじりは好きだから別にいいけれども。いやでも、だからつまりは、それはそれとして、なのだ。
 そんな財政難が続くストレリチア家。つつましやかな食卓が続く我が一族において、このごちそうは何だ。どうやって、どこから準備した。まさかとうとう家宝を売り飛ばしたか。
 だらだらと背筋を伝い落ちる冷や汗をぬぐうこともできずに、固唾を飲んでシラノを見つめるが、彼はその視線の意味が例によって例のごとくまったく解っていない様子で「うん?」と首を傾げ返してくる。

「どうしたんだい、マリィ。喜んでくれないのかい?」
「いえ、あの、そういうわけでは……」

 そう、そういうわけではないのだが、状況によってはこの場に崩れ落ちる羽目になるかもしれない。せめて、せめて、お願いだから家宝だけは無事でありますように。
 そう祈るマリオンの耳に、聞きなれた穏やかな笑い声が届く。バッとそちらを振り返れば、ストレリチアス家の唯一の使用人たる美貌の青年が、いつの間にか佇んでいた。片手には本日の郵便物を持ち、もう一方の腕には、洗い立ての洗濯物の入った籠が抱えられている。

「リヒト?」

 そういえばいないと思ったら、と瞳を瞬かせつつ、とりあえず洗濯籠を受け取るマリオンに、リヒトは「大丈夫ですよ」とにっこりと頷いてみせる。マリオンが小さな頃からいっとうお気に入りの絵本の中の王子様のような完璧な微笑みだ。長く伸ばされた濃金色の髪と、同色の瞳が、なんともまばゆく輝かしい。見る者すべてを魅了するに違いない優美な笑み。けれどマリオンにとってはいい加減慣れたものだ。何がどう大丈夫なのかと視線で促すと、リヒトはシラノと視線を交わしてから更に笑みを深めた。

「心配なさらなくても、僕がお手伝いさせていただきましたから。実質的な当家の出費はほぼゼロです」
「私が出すと言ったのだけどね。リヒトがどうしてもと言うから、献立だけ伝えて、あとは彼に準備を任せたんだ」

 もっと私だって頑張りたかったんだが、と、いかにも残念そうにシラノは眉根を寄せるが、マリオンとしてはリヒトに拍手を贈りたい気分だった。ありがとう、ありがとうリヒト……と、感動の眼差しで彼のことを見つめてから、ふと気付く。ちょっと待った。

「出費がほぼゼロって……まさかあなたまた、領民の皆さんに貢がせたの!?」
「貢がせたとは聞こえが悪い。あちらがご自分からぜひおひぃさまにと差し出してくださったんです」

 嘘をつけ嘘を。災厄令嬢と名高いマリオンのことをわざわざ祝いたがる奇特な領民なんているわけがない。むしろ「関わったら自分にも災厄が!」と恐れ怯え逃げていくに決まっている。今までずっとそうだったのだから、いくら成人を迎える誕生日と言えども、例外であるはずがないのだ。
 別にその件について領民を責める気など毛頭ない。領民達の反応は正しい。懸命な判断だ。本当にマリオンやシラノが困っている時には、彼らはちゃんと自分達を助けてくれてきた。真実自分達を忌避するのならば税だって納めてはくれないだろう。
 だから別に彼らにわざわざ祝ってもらえなくても気にすることはないのだが、主であるマリオンがそういうふうに、当たり前のように領民から避けられているのに対し、リヒトは逆だ。その甘いマスクのおかげか、人当たりのよい態度のおかげか、彼は老若男女を問わずにもてはやされ、気付けばストレリチアス領のアイドルになっていた。なんだそれ。リヒトが道を歩けば農作物が押し付けられ、佇んでいれば搾りたてのミルクが差し出され、しゃがみこめば数多の手が差し伸べられる。
 タチが悪いのはリヒト自身がそういう自分のことを正しく理解し、ここぞとばかりに利用しているという点だろう。リヒトは『あちらが自分から』と言うけれど、そういうふうに領民達が自分から食料を差し出したくなるように仕向けたのは他ならぬリヒト本人であるに違いない。リヒトという青年はそういう青年だということをマリオンはこの四年間でよーく思い知らされている。「あ、僕は頭脳労働派なので」とさっくり言い切り、使用人であるならこれくらいやってほしいのだけれど、とマリオンが思うような仕事のほぼほぼことごとくを断ってきた青年だ。おかげでマリオンは元々得意だった家事の腕がさらに伸びたし、畑作業にかかせないクワの扱いも慣れ切ってしまったし、屋根の修繕だってできるようになった。
 そうだとも。ストレリチアス家の家訓は“労働ある富”である。労働あってこそすばらしい富が得られるのだという教えだ。逆を言えば、働かざる者食うべからず。理由はどうあれ、そしていくらマリオンと叔父のためだとはいえ、こずるい真似をして得た豪勢な食事なんて、そんな、そんな。

 ……ぐうううううう。

「…………」
「おやおや」
「マリィ、お腹が空いたんだね。さあさあ! 冷めないうちに食べようじゃないか」
「…………………………はい」

 どれだけ理由を並べ立てても、結局空腹には勝てないということを思い知らされてしまった。マリオンの、レディらしからぬお腹の音に、くつくつとリヒトは喉を鳴らし、叔父はぱあっと顔を晴れやかに輝かせてマリオンをテーブルへといざなう。リヒトが心得たようにマリオンから洗濯籠を優雅に奪い、隣に寄り添い、その手を取って、それこそ一国の姫君に対するかのように、丁寧にマリオンを椅子に座らせてくれる。
 恥ずかしさと悔しさに顔を真っ赤になっているのが解る。それをごまかすためにさりげなーく片足を少々持ち上げる。そのまま勢いよく足を床へと落とす。高いヒールで足の甲を踏みつけられ、ぐっ! と青年がひそかに息を飲んでいる様子に少しばかり溜飲が下がった。ざまあみなさいと胸の内で舌を出す。

「おじさま、それからついでにリヒト、私、本当に嬉しいわ。ありがとうございます」
「喜んでもらえて何よりだよ」
「ええ、光栄です」

 おそらくまた今後しばらくお目にかかれないであろうごちそうを前に、満面の笑顔でマリオンがお礼を言うと、シラノは照れたように頬を掻き、リヒトはさっと涼しい顔を取り戻して一礼してきた。前者はかわいいが後者はつくづくかわいくない。

「叔父様も早く座ってくださいな。一緒にいただきましょう?」
「ああそうだね。せっかくだ。まだ昼だが、ワインも開けようじゃないか。やっと一緒に酒が飲めるようになってくれて、私こそ本当に嬉しいよ。リヒト、任せていいかい?」
「もちろんです、旦那様」

 椅子に腰を下ろしたシラノに対し、粛々と頷いたリヒトは、ワインクーラーからワインボトルを持ち上げて、布で濡れた表面をぬぐってから、そのラベルをマリオンに向ける。なにかしら、と思いつつそのラベルの文字に視線を滑らせたマリオンは、大きく銀灰色の瞳を見開いた。

「これ、は」

 マリオンの反応に、嬉しげにシラノが深く頷いた。ラベルに記載されたワインの製造日は、十八年前の今日。マリオンがこの世に生を受けたその日だ。

「数多の財産を手放してきたが、このワインだけは手放せなくてね。誕生日おめでとう、マリィ」
「叔父様……!」

 これだからこのシラノ・ストレリチアスという叔父のことが大好きなのだ。どれだけ頼りなくたって、ここぞというときに決めてくれる、それがこの叔父である。
 感動のあまり思わずシラノと同じ色の瞳を潤ませたマリオンだったが、ふともの言いたげな視線が横から向けられていることに気が付いた。

「……リヒト? どうかしたの?」
「…………いいえ、何も。お注ぎいたします」

 何も、というわりには、随分と面白くなさそうな表情を浮かべていたように見えたのだけれど、気のせいだったのだろうか。気付けばリヒトの顔にはいつも通りの優美な微笑みが浮かべられていて、やっぱりいつものようにマリオンには先程の表情の意味が掴めなかった。そつのない動作でワイングラスにワインを注ぐ青年の横顔はただただ美しいばかりで、他の何の情報も得られない。
 なんなのかしら、と思いつつ、マリオンは隣に並ぶ椅子を引き、ぽんぽんとその背もたれを叩く。

「ありがとう。でも注ぐのは一度でいいわ。それよりあなたも早く座って? あなたも一緒に食べなくちゃ意味がないじゃない」

 いくら叔父の命令だったからとはいえ、なんだかんだ言いつつ、リヒトもリヒトで、彼なりにマリオンを祝おうとしてくれたことは解っている。これだけの量のごちそうを揃えるには、いくらストレリチアス領のアイドルといえども骨が折れたことだろう。食事の席をともにするのはいつも通りのことだけれど、今日は特別『とくべつ』なのだ。一緒においしいものを分かち合いたいと思うのは当然の心理である。
 だからこそ食事に手を付けずに、シラノと一緒にリヒトが椅子に腰を下ろすのを待つ。リヒトはまたなんとも言い難い変な顔を一瞬浮かべた。なによ、とその美しい顔を見上げるマリオンをどう思ったのか、はあ、と溜息を吐いたリヒトは、諦めたようにマリオンの隣の椅子に腰を下ろす。

「揃ったね。では、いただこう。マリオンの十八歳の誕生日を祝って、乾杯」

 シラノの音頭に合わせて、揃ってワイングラスを天井に掲げる。ゆらりと揺れるワインの色は見事な赤。血のように深く鮮やかな赤に目を細めてから、マリオンは生まれて初めての酒を口にした。

「……………」
 その場にいる全員が、いっせいに口をすぼめた。そして沈黙が落ちる。果てしなく長く感じる沈黙ののちに、はは、と、シラノがぎこちなく笑う。

「……いや、その、これはこれで……」
「叔父様、どうかご無理はなさらず」
「…………すまない」
「いいえ」

 ワインは渋かった。とてもとても渋かった。渋すぎると断じてもいいくらいに渋かった。流石災厄令嬢、生まれた時より背負ったさだめは、しっかりワインの中にも封じ込められているらしい。一口でもこれはもう飲めないと諦めるしかない味のワインを悲しく見下ろすマリオンの隣で、ぐいっとリヒトが一気にグラスをあおる。

「ちょっ! リヒト!?」
「味はどうあれ、酒は酒です。おひぃさま達が飲まれないなら、僕がありがたくいただきますね」

 それはフォローのつもりなのか。空になった自らのワイングラスに手酌でどう考えても失敗作のワインをなみなみと注ぐリヒトに、マリオンは何も言えなくなってしまう。ごめんなさい、と言うのはなんだか違う気がした。でも、ありがとう、と言うのは、どうにも気恥ずかしい。

「――――ああ、そういえば」
「……な、なにかしら?」

 渋すぎるワインを、これまた実に渋い表情で口に運んでいたリヒトが、テーブルの片隅に追いやられていた郵物に手を伸ばす。そこから一通の手紙を抜き出し、そのまマリオンに差し出す。ぱちりと瞳を瞬かせるマリオンに、リヒトはやはり渋い表情で続ける。

「お待ちかねのお方からです」
「!!」

 持ち前の反射神経でもってリヒトの白い手から手紙を奪い取り、その勢いのままに立ち上がる。がたーん! と大きな音を立てて椅子が倒れたが、気にしてなんていられない。震えそうになる手で手紙を裏返し、封蝋に刻まれた薔薇の家紋を確認する。ああ、間違いない。

「私の愛しのアレクセイ・ローゼス王太子殿下……!」

 手紙を両手で天へと掲げ、ありったけの想いを込めてその名を呼ぶ。たったそれだけのことで、ワインの渋みが蜜のような甘みで塗り替えられていく。
 シラノが苦笑を浮かべていることにも、リヒトが無表情になっていることにも、どちらにも気付かず、マリオンはいそいそとまだ未使用のテーブルナイフで手紙の封を切る。「マリオン」とシラノに諫めるように名を呼ばれたけれど、今ばかりは構ってなんていられなかった。
 はやる心のままに、封筒の中から、ストレリチアス家の経済状況では手が出せない上質な便箋を取り出す。せわしなく高鳴る胸の鼓動を感じながら、便箋の内容に目を滑らせ、そしてマリオンは大きく目を見開く。

「……きたわ」
「は?」
「ん?」

 ぽつりとこぼした呟きに、リヒトが整った眉をひそめ、シラノがきょとんと首を傾げた。そんな二人に向かって、マリオンはおもむろにその手の紙面を突き付ける。

「とうとう来たんですこの日が! ああ、なんてことかしら!」
「マリィ、マリオン、少し落ち着きなさい」
「無理ですわ叔父様! もっとよく、よく見てくださいませ!!」
「んん? どれどれ」

 ぐぐいと大きく身を乗り出し、その勢いあまって片手をテーブルに着いたために、がちゃん! とごちそうの乗った食器が悲鳴を上げたが、サッとリヒトがそれらの食器を持ち上げることで事なきを得る。
 シラノが付き付けられた便箋をしげしげと眺めた。そして、「おやおや」とぱちくりと銀灰色の瞳を瞬かせる。

「レジナ・チェリ国王太子たるアレクセイ・ローゼスの名のもとに、マリオン・ストレリチアスを、王太子の正式なる婚約者として公表する……?」
「はい!」

 おやまあ、と呟くシラノに対し、マリオンは深く頷いた。突き出した手を胸の前に引き寄せて、そのまま、短い誕生祝いの言葉と、つい数秒前にシラノが読み上げた内容、そしてお披露目のために王都へすぐにでも来るように、という事務的な内容しか書いていない便箋をぎゅうと抱き締め……ようとして、ぐしゃぐしゃになっては困るので寸前でやめて、代わりに改めて紙面に視線を落としてその文字の流れを指先でなぞる。
 やっと、やっとだ。とうとうこの日が来たのだ。そう思うときゅうと胸が締め付けられるように痛んだ。恋しさと切なさがひたひたと胸を満たしていく。

「ああ……とうとうこの日が来たのね……!」
「おひぃさま、不気味です」
「なんとでもおっしゃいな」

 いつもなら腹立たしいばかりのリヒトの憎まれ口も、今ならばそよ風の子守歌程度にしか思えない。リヒトの優美な微笑にヒビが入ったような気がしたけれど、加えてまとう雰囲気に不穏なものが混ざり始めているような気もしたけれど、構わずにマリオンは何度も繰り返し手紙を読み返す。
 ――アレクセイ・ローゼス。
 それは、このレジナ・チェリ国の第一王子にして、王太子たるお人の尊きお名前である。

「やっぱり殿下は、私のことをお忘れになっていなかったんだわ」

 幼い頃に、ただ一度引き合わされたきり、かの王太子殿下とのやりとりは手紙だけだった。なんてことのないやりとりばかりが続いていたが、とうとう、今日。十八歳、成人を迎えた今日というこの日。いよいよ、来たるべき日が来てくれたのだ。やっとやっと、マリオンは、あの日の誓いを果たすことができる。
 アレクセイとマリオンの婚約は、双方の身の安全のために秘密裏にまとめられた内々のものであり、現在実情を知る者はごくごく限られていると聞かされている。だが、この手紙の内容を要約すれば、マリオンの成人を機に、ようやくこの婚約話が公にされるということだ。これで喜ばずにいられるはずがない。最低の誕生日だと思ったけれど、最高の誕生日に修正しなくてはならないだろう。

「そうと決まったら、早速準備しなくちゃ! どうしましょう、叔父様、何を持っていったらいいのかしら?」
「うんうん、そうだね、まずはとりあえず落ち着きなさい、マリオン。その話はせめて食事をしてからに……」
「あら、だって叔父様、善は急げと言うでしょう? それとも、私が王都に行くことを、叔父様は反対なさる?」
「うーん……」

 そういうつもりではないのだけれどねぇ、と、なんとも歯切れの悪い様子のシラノに、マリオンは首を傾げた。
 叔父様、どうなさったのですか? そう問いかけるよりも先に、隣で、涼やかな音を立てて空になったワイングラスがテーブルの上に下ろされる。続いて、ワインボトルも。その中身も、やっぱり空だ。マリオンはぎょっと隣に座っている青年の顔をうかがった。

「リヒト!? あ、あなた、こんな短時間に一本空けてしまったの!?」
「はい、おいしくいただきました」
「うそでしょう!?」

 あんぐりと口を開けるマリオンを見上げ、リヒトは「そんなことより」と笑った。何故だろう。寒気がした。

「な、何よ」
「そううまくいきますかね」
「え」

 何やら含むモノを多いに感じさせる物言いに、自然とマリオンは身構えた。リヒトがこういう言い方をするときは大抵ろくでもないことばかりであるということを経験上よく知っていたが、何故このタイミングでそんなことを言い出すのかが解らない。
 うまくいくに決まっている。そうだ、なにもかも。
 世俗なんて知りません、とでも言いたげな浮世離れした美貌を誇っているくせに、実はお金が大好きななのがこのリヒトという青年である。マリオンが王太子の婚約者としての立場をはっきりさせれば、彼の給与は自然とアップ。となれば当然、てっきり喜んでくれると思ったのに。それなのにどうして、その笑顔が妙に苛立ちを孕んでいるように見えるのだろう。
 何を言い出すつもりかと戦々恐々とするマリオンに対し、リヒトはやけにもったいぶった仕草で、ワインで濡れた薄い唇を赤い舌でちろりと舐める。ぞっとするほどの色気を孕んだ所作だが、だからと言って今更マリオンが見惚れるはずもなく、むしろ余計に色濃くなる不安にぞわっと肌が粟立つ。反射的に、空いた椅子の上に置きっぱなしになっていた洗濯籠を持ち上げて、盾のように両手で掲げる。

「リ、リヒト?」

 何を言いたいのかはっきりしてほしくてその名を呼ぶと、美貌の青年は、いつものようににっこりと優美なる笑みを深めた。

「――王太子殿下は、とある男爵令嬢にご執心」
「…………え?」

 あれだけさっさと先を話してほしかったのに、いざ話されてみたら、その内容が理解できなかった。今度はぽかんと大口を開けて硬直する。ぴきっと何かにヒビが入る音がした。テーブルの上に飾られていた花瓶だ。そのまま前触れなく倒れた花瓶は、勢いよく転がって床に落ち、大きな水たまりを作る。その上に、どさりと、マリオンは洗濯籠を落としてしまった。洗い立ての洗濯物が無残に濡れていく。
 はたから見たらさぞかし間抜け面に見えるであろう表情を浮かべて立ち竦むマリオンのその顔を、据わっていると言うのに何故だか見下ろすように――あわれむように見上げて、リヒトは更に言葉を紡ぐ。

「王都でもっぱらの噂らしいですよ。麗しの王太子殿下と、愛らしい男爵令嬢の、身分違いの秘密の恋とやらは」
「リヒト!」

 咎めるようにシラノがらしくもなく声を荒げるが、リヒトは「事実を伝えない方が残酷でしょう」と肩をすくめてどこ吹く風である。なるほど、叔父もまた知っていたわけだ。となれば、リヒトの言う噂とやらは、本当に、まことしやかに王都でささやかれている噂なのだろう。

「殿下に、恋人がいらっしゃるということ……?」

 呆然と呟いたその言葉が、まるで他人から言われた言葉のように自分のもとに返ってくる。

「平たく言えばそういうことですね。いくら噂にすぎないとはいえ、このストレリチアス領の領民の耳にまで届く噂ですから、信憑性はさぞかしのものでしょう」

 お気の毒に、とにっこりとリヒトはマリオンに微笑みかけてきた。いつもであれば腹立たしい、憎たらしい、と、そう思うことだってできたはずなのに、今ばかりはそれができない。めまいがした。足から力が抜け、立っていられない。
 そのままぺたんとその場に座り込むマリオンに、慌ててシラノが立ち上がるが、古くなっていた椅子の足が折れて彼もまた地面に大きく尻餅をつく。駆け寄って助け起こしたいのに、身体が自由に動かない。
 床に座り込んだままうつむくマリオンの前に、ゆっくりと立ち上がったリヒトが膝をつく。嫌味なくらいに綺麗な濃金色の瞳が、いつになく優しくこちらの顔を覗き込んできた。

「そう落ち込むことはありませんよ、おひぃさま。王都に行く手間が省けたじゃありませんか。旅費だって馬鹿にならないんですから、今回は婚約破棄を含めたお断りの書状を送り……」
「いいえ」
「はい?」

 思いの外優しくなぐさめるようのささやかれるリヒトの言葉をさえぎるように、マリオンは一言告げた。リヒトが濃金の瞳を瞬かせるのを後目に、ばっとマリオンは立ち上がる。銀灰色の瞳には、硬く強い決意の光が宿っていた。

「私、王都へ行くわ」
「……あァ?」

 普段は穏やかながらも魅惑的な声音が低く険を孕み、濃金の瞳が鋭くなったことにも気付かないまま、マリオンはぎゅうと拳を握り締める。

「だって噂は噂だわ。今までアレクセイ殿下がくださったお手紙に、嘘はないはずだもの。大体、もし本当に殿下にお相手がいらっしゃるなら、婚約のお披露目のためのお招きになんてありえないはずじゃない」
「…………それは、まあ、そうですね」
「でしょう?」

 同意というにはなんとも不承不承な声音のリヒトに対し、マリオンはふんっと鼻を鳴らす。
 脳裏によみがえるのは、今まで送られてきた手紙の文面の数々だ。言葉少なながらも、いつだって労わりに満ちていた言葉の数々は、どれもマリオンの宝物である。
 マリオンが冗談混じりに自身に降りかかった災厄について語れば、アレクセイは冗談として流すことはせずに真剣にマリオンの身を案じてくれた。
 災厄令嬢にとってはどんな災厄だって『当たり前』なのに、かの人はいつだってそれを『当たり前』とはせず、心から心配し、時には憤ってくれさえした。その言葉のつづりを、一つだって忘れたことはない。
 あれらがすべて嘘であったというならば、アレクセイ・ローゼスという人はとんだペテン師だ。そんな相手だというならば、最初からマリオンが敵う相手ではない。だからマリオンは今までの手紙すべてを懸けて、王都に行くことにする。この目で、アレクセイ・ローゼスという人を見極める。そして、本当に彼が『そういうひと』であると納得できたそのときにこそ、マリオンは幼き日の誓いを果たそう。
 となればもう、すべきことは決まっている。

「そうとなったらまずは腹ごしらえね! さあ叔父様、さっさと席についてくださいな。リヒト! あなたにも王都まで付き合ってもらうわ。これは命令よ!」

 猛然と既に冷めつつあるごちそうを口に運び始めると、よろよろとようやく立ち上がったシラノが苦笑し、リヒトもまた立ち上がりつこれ見よがしに深い溜息を吐く。
 そんな二人の反応をあえて無視して、マリオンは大口を開けて久々に口にする肉の塊を頬張った。視界が涙で歪んだのは、肉にふりかけられたスパイスがききすぎたせいなのだと、自分に言い聞かせながら。


(――そして今回もこうして本編へと続きます。)


【書籍情報】

タイトル:災厄令嬢の不条理な事情 婚約者に私以外のお相手がいると聞いてしまったのですが!
作者:中村朱里
イラスト:鳥飼やすゆき先生
レーベル:一迅社文庫アイリス
出版社:一迅社
発売日:2021/8/20
ISBN:9784758093897
文庫判 定価:730円(税込)

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鳥飼やすゆき先生による発売記念イラストです。
前回のSSでも載せさせていただきましたが、ここでも再び掲載させてくださいませ。
本編では更に素敵なピンナップや挿絵の数々をご覧いただけますのでぜひに。
マリオンとリヒトに挟まれているもふもふの活躍も、本編にてぜひぜひに。

『災厄令嬢の不条理な事情 婚約者に私以外のお相手がいると聞いてしまったのですが!』

よろしくお願いいたします!


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