『災厄令嬢の不条理な事情2』発売記念SS
2022年4月20日、『災厄令嬢の不条理な事情2 使用人が私だけに甘すぎて身の危険を感じるのですが!』が発売されました!
おかげさまで続刊が叶いました。本当にありがとうございます。
1巻はゼロサムオンライン様にて柴田五十鈴先生の御手によりコミカライズ連載中!
今回の2巻の電子書籍版は、2022年4月27日ごろに配信開始予定となっております。
あわせましてよろしくお願いいたします。
【あらすじ】
王太子との婚約を解消した聖爵家令嬢マリオン。彼女は恋仲となった途端、塩対応だった大魔法使いな使用人リヒトが甘々になりすぎて困惑する日々を送っていた。
そんなある日、叔父シラノが王家の命によってお見合いをすることになり、見合い相手が大挙して押しかけてきて!?
ド貧乏な我が家で令嬢達の世話をするのは私だけだし、リヒトからはお見合いで賭けを持ちかけられるし……。
でも待って! 負けた時は金貨十枚分の私が欲しいってどういうこと?
災難に愛されすぎている令嬢の前途多難なラブファンタジー第2弾!
(一迅社文庫アイリス様公式HPより抜粋)
【2巻発売記念SS:嵐の前はお静かに】
2巻発売を記念して、2巻本編前日譚にあたるSSを公開させていただきます。
1巻終了後、2巻本編開始よりも少し前の、ストレリチアス家の新たなる日常です。
1巻読了後をおススメしたい程度にネタバレを含んでおります。
1巻、2巻ともども、楽しんでいただけますように。
***
風が頬を撫でていく。春の名残のやわらかさと、夏の始まりを予感させるさわやかさをはらんだ風だ。その心地よさに、マリオン・ストレリチアスは思わずその銀灰色の瞳を細めた。
「いい風だこと」
空は高く遠く晴れ上がり、一面の青が広がっている。絶好の洗濯日和だ。いたずらな風に乱された、長く伸ばした鈍色のくせ毛を払ってから、よいしょっと洗濯かごを持ち上げる。
貴族の令嬢が自ら洗濯なんて、と呆れられるかもしれない。だがしかし、古くから続く《寛容》の聖爵位を冠するストレリチアス家の令嬢たるもの、むしろこれくらいできて当然なのだ。
そのストレリチアス家に生まれた者だからこそ見舞われるはずのアレソレも、本日はまだ到来していない。だからこそ油断はできないのだが、それはそれとして、順調に午前中に終わらせたいと定めた家事をこなしていけることを素直に嬉しく思う。
鼻歌を歌いながら、中庭に設置した物干し台の竿に、洗濯物を干していく。ふんふんふふんと調子はずれの旋律をなぞれば、足元で、一か月ほど前の一件以来、ストレリチアス家の長男坊となった子狐、ウカがきゅうきゅうと、それこそマリオンの歌声を追いかけるように鳴く。
彼が足元で踊るように跳ね回るたび、ふかふかの毛並みが足首に触れて、そのこそばゆさにマリオンは思わずふるりと身体を震わせた。
「ウカ、ウカったら。もう、甘えたさんなんだから」
手に持っていたシーツをとりあえずいったん丸めたまま物干し竿にかけて、しゃがみ込んでわしゃわしゃとウカの顔や体を撫で繰り回す。
出会ったばかりのころよりも格段にウカのよくなった毛艶が、改めて嬉しい。あとでしっかりブラッシングしてあげなきゃ、と、午前中の目標にさらにもう一つ加えて、そろそろ洗濯物の続きを……と、マリオンが立ち上がりかけた、そのときだった。
「きゃっ!?」
突然の突風である。既に春をすぎ去り、初夏と呼ぶべき時候となった今日この頃では、その風を『春の嵐』と呼ぶにはふさわしくないのだろう。だがしかし、勢いとしては正しくそう呼ぶのがふさわしかった。
マリオンの長い髪が大きくあおられ、地面に寝そべっていたウカがころころと転がって行ってしまう。きゅうん、ときゅっと胸が締め付けられる悲鳴が上がり、マリオンは慌ててその後を追おうと腰を浮かせる。
「ウカ! ……っ!?」
そんなマリオンの上に、ふと影が落ちた。あ、と思っても遅い。
先ほど中途半端に干した状態になっていたシーツが突風を受けたために、物干し台がバランスを崩す。物干し台の竿には既に、シーツだけではなく、既にタオルや衣服などといった多数の洗濯物が干されている。それがそのまま、大きく傾いで、マリオンに襲い掛かろうとしているのである。
青ざめる暇もない。とりあえずウカは突風によって転がって行ってしまったので巻き込まれることはないだろうが、物干し台のすぐそばにいたマリオンは、確実に下敷きになるだろう。
ひええ、とおののきながらも、どうすることもできず、とりあえず次に襲い来るであろう衝撃に身構えて、再びしゃがみ込み目をつむる。
ああもう、またこうなるのね! と内心でしっかり叫ぶのも忘れない。
バサバサバサッ――――ドサッ!
それなりに重量があるはずの物干し台が、文字通りひっくり返った。当然、濡れた洗濯物はすべて宙に舞う。
そして、そのすぐそばにいたマリオンもまた、あえなくそれらの下敷きに――……なる、ことは、なく。
「……あら?」
「ご無事ですか、僕のおひぃさま」
「え?」
気付けばマリオンは、力強い腕の中に閉じ込められていた。
覚悟したはずの衝撃も痛みもなく、代わりに聞こえてきた、安堵の混じる気着心地のいい声。
自らが抱え込まれているのだと遅れて気付き、大きく胸の鼓動が跳ねる。耳に馴染んだその声に、恐る恐る目を開けたマリオンが一番に見たのは、鮮やかに輝く色濃い金色だった。
「リヒト……」
「はい、あなたのリヒトです」
呆然とその名を呼んだマリオンに対して、マリオンを抱え込み庇ってくれた青年は、にこりと微笑んだ。
老若男女問わず目を奪っていってしまうと評判の、優美な笑みだ。黄金よりももっと鮮やかにきらきらと輝く濃金色の長い髪をうなじでまとめ、同色の瞳を甘く細めた誰しもが認めるとびっきりの美貌を誇る青年は、ストレリチアス家における唯一の使用人である。
彼の腕は、一方はマリオンを抱え込み、もう一方は宙に向けて掲げられていた。その先に転がるのは、ひっくり返った物干し台と、地面に散乱する洗濯物である。ただそのまま突風によって倒れたならばありえない場所である地面の上に、物干し台も洗濯物も転がっていた。
「え、えっと……リヒト、ありがとう」
彼に――リヒトに、助けられたのだ。ようやくそうと理解したマリオンは、間近にある青年に向かって小さく頭を下げる。リヒトはやはり優美に微笑んでかぶりを振った。気にしないでいい、と言葉なく告げてくるその仕草は、マリオン一人で独占するにはもったいないほど絵になるものだった。
見慣れているはずなのに、なぜだかどうしようのなく気恥ずかしくなって、ぼっと顔を赤らめる。そんなマリオンのことを、リヒトの片腕は依然として抱え込んでおり、そればかりか、宙に掲げられていたもう一方の腕もまた、その居心地がよいからこそ余計に居心地が悪いという、やはりなんとも気恥ずかしい理由で身じろぎするマリオンの腰へと回る。
結果マリオンは、誰がどう見ても、自分自身からしても、抱き締められている以外の何物でもない状態になった。
「ね、ねえ、もう大丈夫だから放してちょうだい!」
「おや、助けて差し上げた見返りとしては安いものでしょう? それとも、改めて礼として、おひぃさまから口付けでもしてくださいますか?」
「なっ!」
なにそれ!? と怒鳴ろうにも、声が出てこない。人間、許容量を超えた恥ずかしさに襲われると、何もできなくなるものらしい。
ぱくぱくと陸に打ち上げられた魚のようにただただ口を開閉させるしかないマリオンに、リヒトはにっこりと、楽しげに笑う。なんだか満足げである。
マリオンとしては冗談ではない。
「リ、リ、リリリ、リヒト!!」
「はい、僕のおひぃさま」
かろうじて絞り出した悲鳴に対し、なんでしょう? とリヒトは首をかしげて見せた。
彼の肩にかかっていた見事な濃金のまとめ髪が、さらりとなんのひっかかりもなく背に流れていく。その美しい残像に目を奪われそうになったマリオンだったが、気付けば自分と、自分を抱き締め続けているリヒトのすぐそばまで駆け寄ってきてくれていたウカの、きゅん! という鳴き声に、ハッと息を飲む。
危なかった。ごまかされるところだった。
その手に乗ってなるものかと、リヒトの胸を両手でぐいっと押し返すと、ようやくリヒトはいかにも名残惜しげにしながらも、こちらのことを解放してくれた。
恐る恐るリヒトを見上げると、彼がこちらに向けてくる視線に、名残惜しげな光ばかりではなく、なんとも不満げなものが混じる。
「わざわざ魔法まで使っておひぃさまを助けた僕に、おひぃさまはもう少し感謝の意を示してくださってもいいのではないかと思うのですが?」
「た、確かに、魔法まで使って助けてくれたことについては感謝しているわ。ええ、そうね、本当にありがとう。でも、それならウカのことも助けてほしかったし、ついでに洗濯物のことも助けてほしかったわ。ねぇウカ?」
「確かに僕はそれだけの実力を持ち合わせているという自負がありますが、だからと言って無駄にこの力を行使するつもりはないんですよ。お解りいただけますか、“そもそもの原因”である可能性が非常に高くいらっしゃる、《寛容》が聖爵家ご令嬢様?」
「んぐっ」
文字通り言葉に詰まった。そう言われてしまってはぐうの音も出ない。
リヒトの言う“そもそもの原因”、それは何も知らない者にとってはこの初夏に吹いた季節外れの春の嵐、もとい、マリオンとウカ、そして物干し台を襲った先ほどの突風だ。
マリオンに原因があるはずがない。しかし、それはマリオンが、ストレリチアス家――《寛容》の聖爵家令嬢ではなかった場合の話である。
マリオンは間違いなく《寛容》の聖爵家の生まれであるため、突風を招いた原因ではないと否定するどころか、胸を張って自身が原因であると声高々に宣言しなければならない立場であるのだ。
そして、その上で、今回洗濯物の惨状すらも回避できたはずの能力を持つのが、マリオンの目の前に立つリヒト、すなわち《強欲》の魔法使いなのである。
「おひぃさま」
「……なぁに?」
「僕は確かに《強欲》の魔法使いですが、それ以前にもっと重きを置くべきは、おひぃさま、あなたの恋人であるという立場であることをお忘れなく」
「…………」
かあっと、また顔が赤くなっていくのを感じた。
リヒトの言うことは解る。一か月前の事件をきっかけに、確かに自分と彼は、世間一般で言うところの、『恋人』になった。
マリオンは彼に恋をしている。リヒトもまた、マリオンに。
だからこそ彼の言うことは一理どころではなく、二理も三理もあるのだ。
リヒトはストレリチアス家の使用人であり、《強欲》の魔法使いでもあるけれど、それよりももっと大切なのはマリオンの恋人であるという事実だ。
「こ、恋人としての好意だけじゃなくたって、使用人の気を利かせた働きとして、その、ちょっとくらい……!」
「ならば次はそうするよう努めて差し上げましょう。かわいい『恋人』の頼みですから。もちろん、対価はいただきますが」
そのご覚悟は当然お持ちですよね、と。
問いかけではなく確認の形で告げられた言葉に、マリオンはウカを抱いたまま、顔を真っ赤にしてずささささっと勢いよく後退った。
ふるふると震えるマリオンに、ウカが腕の中できゅう? と小首を傾げるが、今ばかりは構っていられない。
「い、いい、い、いいわ! ごめんなさい! あなたはあなたの好きになさいな!」
「おや、そうですか? それは残念」
「~~ッリヒト!」
「はい、おひぃさま」
「…………………………なんでもないわ」
「さようで」
優美に微笑むばかりのその顔が子憎たらしくしてならない。
悔しい、と、そう思うのは、恋人として正しい感情なのだろうか。ちっとも解らなくて溜息を吐くと、腕の中のウカが気遣わしげにこちらのことを見上げてきた。
どんぐりのような黒い瞳と目が合うと、彼は「だいじょうぶ?」とばかりにきゅうと鳴いた。その優しさが嬉しくて、ちょいと彼を視線の高さまで持ち上げて、「ありがとう」という礼とともにその黒く濡れた鼻先に口付ける。ウカはくすぐったそうに瞳を細めてくれた。
なんてかわいいのだろう。一緒にいてくれるだけでこの波立って忙しい心に凪を導いてくれる、最高の癒しである。
ふふ、とようやく落ち着きを取り戻し、さらにその顔にすり寄ろうとしたのだが、それよりも先に、ウカの小さな身体が遠のいていった。リヒトが彼の首根っこをつまんで、マリオンから遠ざけたのだ。
「ちょっと、リヒト?」
「おひぃさま」
「何かしら」
「口付ける相手を間違えておいでです」
ぽいっとウカを足元に放し、先ほどまでの笑顔も一緒に放り投げて、リヒトがさも面白くなさそうに言い放った。
唖然と口を開けてしまった自分を誰が責められるというのだろう。
リヒトの濃金の瞳が、何やら期待に輝いている。彼はそれ以上何も言おうとはしないが、「解っていらっしゃいますよね?」と、丁寧ながらもドスの利いた声音が聞こえてくるようだった。
――っ女は度胸よ、マリオン!
いざ覚悟を決めて、ぐっと両手を握り締め、マリオンはそのままリヒトの頬へ唇を寄せようと、ちょいとつま先立ちになり、そして――……
「マリィ、リヒト、いるかい?」
「っはい叔父様! なんでしょう!?」
リヒトの白くすべらかな頬に唇が触れる寸前で聞こえてきた、ストレリチアス家現当主にしてマリオンの愛すべき叔父であるシラノ・ストレリチアスの声に、マリオンはリヒトから飛びのいて大きく返事をした。
チィッ!! とリヒトがその優美なかんばせに似合わない凶悪な表情で盛大な舌打ちをするが、それは聞かなったことにする。
そのまま、両手に何やら大量の郵便物を持ってこちらへと向かってくるシラノの元へと足を急がせた。トトトと急ぎ足でついてくるウカをひょいと抱き上げてシラノと向かい合うと、彼はマリオンと同じ銀灰色の瞳を細めて、穏やかに笑った。
「いやなに、見ての通り郵便物が届いてね。私が受け取っておいたから、マリィもリヒトも、今日の分はもう気にしないでおくれと言っておこうと思ったんだ」
「まあ、叔父様。申し訳ございませんわ。わざわざありがとうございます」
家長たるシラノ自らに郵便物を受け取らせるという雑務をさせていた間に、こっちはこっちできっとよくしつけられた獣すらも食べてくれそうにないやりとりをしていたなんてあまりにも申し訳ない。
マリオンは自分が割とお人好しであるという自覚があるが、シラノはそれに二重、三重に輪をかけたお人好しであり、しかもその自覚が皆無だ。気付けば何かと貧乏くじを引かされがちな叔父だからこそ、マリオンは彼の負担をできる限りなるべく少なくしたいと思っているというのに、また一つ面倒ごとを押し付けてしまったのが心苦しい。
シラノ本人は「郵便物の受領くらいで」と笑うのだろうけれど、そういう些細なことの積み重ねが最終的にとんでもない重荷になるのである。ちゃんと気を付けなくちゃ、と自分に改めて言い聞かせて、マリオンはシラノが抱える郵便物を見下ろした。
ウカがマリオンの腕の中から首を伸ばして、ふんふんとその匂いを嗅いでいる。お気に召さなかったらしく、きゅううん、と、いかにも不満げな鳴き声を上げてウカが顔を背ける郵便物の量は、ここ最近続いている通り、とんでもない量だった。
「叔父様、それはやはり……」
「ああ、そうだよ。すべて私宛の縁談話のようだね」
ははは、と、シラノは笑った。その笑顔は解りやすく明らかに力のない空笑いだった。彼の銀灰色の瞳は、どこか遠くへと向けられている。軽く現実逃避をしている叔父の姿に、マリオンは目頭を押さえたくなった。
ああ叔父様、なんておいたわしい……と目を伏せるマリオンの横から、マリオンとシラノのやり取りを静観していたリヒトが手を伸ばし、気の利く使用人らしく主人であるシラノの手から郵便物を奪っていった。
リヒトの濃金色の瞳が冷ややかに郵便物を見下ろしていることに気付かないまま、マリオンはシラノに「どうなさるおつもりですの?」と問いかけた。
ここ最近――正確には一か月前の王都における事件以来、間を置かずしてストレリチアス家に持ち込まれるシラノの縁談話についてである。レジナ・チェリ国の頂点に座す王家を介して持ち込まれる、数えきれないほどの縁談話が、ここ最近におけるシラノのもっぱらの悩みの種であることを、マリオンはよく知っていた。
というか、知らないはずがないのだ。
日々届けられる郵便物、すなわち縁談は、そろそろマリオンですら顔を引きつらせたくなるほどの量である。
「どうするも何も、今回も見送らせていただく所存だけれどね。うーん、しかし今回はどういう理由をこじつけたものかな……」
困ったね、と、シラノは悩ましげに唸った。
物憂げに溜息を吐く姿がやはりいたましい。なんとかその悩みを解消してあげたくても、この件においてはマリオンはどこまでも無力だ。できることはと言えば、せいぜい、郵便物の仕分けを手伝い、シラノが縁談お断りの文句を丁寧にしたためた便箋を封筒に収めるくらいが関の山である。
「叔父様、私にできることがあればなんでも仰ってくださいね。今夜は叔父様のお好きな献立にしますから!」
シラノの手を取って両手で包み込み、マリオンは力強く頷いてみせた。
彼の疲れた心を、せめて少しでも癒したい。そんなマリオンの強い願いが伝わったのか、ようやくシラノは先ほどまでの疲れ切った笑みとは異なる、やわらかな笑みを浮かべてくれた。
「ありがとう、マリオン。リヒト、持たせてしまってすまないね」
「いえ、大したことでは」
書斎に運びましょうか、というリヒトの提案を、シラノは軽くかぶりを振ることで答え、リヒトの手から再び山と積み上げられている郵便物を受け取る。
はあ、と再び溜息をこぼした彼は、身をかがめてマリオンの腕の中のウカに鼻先を寄せる。
ウカは、ぺし、と、ふにふにの肉球をシラノの頬に押し付け、そのままぐいーっと押し返した。そのままツンと顔を背ける長男坊のつれない反応にシラノはまた笑い、「また後で」と言い残して屋敷の中へと踵を返す。
「叔父様……」
哀愁を帯びた後ろ姿がこれまたなんとも痛々しい。足取りは重く、腕に抱えた郵便物もまた重くてならないのだろう。見守ることしかできないこの身の、なんて歯がゆいことか。
そうマリオンも溜息を吐こうとしたその瞬間、先ほどの突風の一件において、リヒトが魔法によって吹っ飛ばした洗濯物が、シラノの足元にあることに気付く。
「叔父様!」
「え? うわぁっ!?」
だが、遅かった。シラノは見事に洗濯物を踏みつけてしまい、そのまま足を滑らせひっくり返る。その手から郵便物が宙に舞い、どしーん! とそれはそれは勢いよく彼は尻餅をついた。
マリオンが悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、シラノはすぐに立ち上がってこちらを片手で制し、郵便物を拾い集めて今度こそ屋敷の中へと消えていく。ストレリチアス家に生まれた者の宿命であるとはいえ、あまりにも気の毒な後ろ姿だった。
昼食ばかりではなく、お茶の時間にも、彼の好きな焼き菓子を作ってさしあげなきゃ。
そうマリオンはウカを片腕に抱き直し、空いた片手で今度こそ目頭を押さえた。
「叔父様がおモテになられるのは喜ばしいことと思っていたけれど、あのご様子じゃそうとも言い切れなくなってきたわね……」
そろそろ結婚適齢期を逃しつつあるシラノ・ストレリチアス。先代ストレリチアス家当主であった今は亡きマリオンの父の、歳の離れた弟が彼だった。
未だに浮いたうわさ一つ持ち上がらない叔父のことを、マリオンはひそかに心配していた。彼が何を思い、どうして妻を娶ろうとしなかったのか。その理由を直接聞かされたことはない。聞いていいことなのか、解らなかった。
だから、今回――いいや、今回ばかりではなく、ここ一か月ほどの間続くシラノへの縁談の持ち込みは、もしかしたら彼にとって素敵な結果を招いてくれるのではないかと期待していた。
この件について、はたして隣の青年はどう思っているのだろう。だが、マリオンがそれについて問いかけるよりも先に、リヒトは手を持ち上げる。そして彼は、ぱちん、と指を弾いた。
ごくごくささやかな軽い音だったというのに不思議と大きく響いたその音を合図にして、散らばっていた洗濯物がマリオンの足元に転がる洗濯かごの中に飛び込んでいき、ついでに倒れていた物干し台も元の位置に戻る。あっという間の出来事だった。
「そんなことよりもおひぃさま、洗濯のやり直しをなさるべきでは?」
「え、ああ……そ、そうね。そうよね。ありがとう、リヒト」
「礼ならば行動で示していただきたいのですが」
にこりと微笑んだ彼は、またしてもちょいとマリオンの前で身をかがめてくる。ひえっと身をすくませるマリオンに、「唇が難しければ頬でも構いませんよ」なんて言ってのけてくれた彼に、どうしようもなく顔が赤くなる。
その意味が解らないほど、マリオンだって子供ではないのだ。この春に十八歳を迎えた、立派なレディなのだから。
ごくりと息を飲んで、マリオンはうろ、うろうろ、と、リヒトの美しく整ったかんばせの上で視線をさまよわせる。
濃金の瞳は、そんなこちらを焦らすでもなく、実に落ち着き切った、余裕たっぷりの態度で笑みをはらんで見つめてくる。どきどきと胸が高鳴って、ウカを抱いた手がふるふると震える。
その震えを受け取ったウカが、きゅん? と小首を傾げて、顔を真っ赤にしているマリオンと、そんなマリオンを優美な笑みを湛えて見つめるリヒトの顔をそれぞれ見比べた。
どうしたの? とでも言いたげなウカの表情がこれまた気恥ずかしくて、マリオンは、えいやっと彼を片腕に抱いて、空いた片手でリヒトの手を持ち上げる。そのままリヒトの指先に、ちゅっと唇を押し付けた。
指先への口づけの意味は称賛、そして感謝だ。
物干し台からマリオンを守り、さらに散らばった洗濯物を集めてくれた彼の魔法への称賛と感謝を込めた口付けである。これが今のマリオンの限界だった。
「こ、これで、いいかしら……?」
恐る恐る問いかける。リヒトは驚いたように目を見開いていた。
ま、間違えてしまったかしら。そうマリオンがぎゅっとウカを抱き締めると、濃金をまとう青年は、その色を映した蜂蜜よりももっと甘く、とろけるように笑みを深める。
「ぎりぎり及第点、ですね」
「んむっ!?」
リヒトの唇がマリオンの唇に重なる。ほんの一瞬の口付けは、驚くほど甘く、火傷しそうなくらいに熱かった。
そのまま震えるばかりのマリオンに、リヒトは「それでは僕は旦那様のお手伝いに参りますね」と去っていった。
その先ほどのシラノとは正反対の、スキップでも始めるのではないかと思われるくらいに軽く弾む足取りの後ろ姿を見送って、へなへなとその場にへたり込む。
「な、なんなのっ!? ねぇウカ、その、あの、こ、恋人って、こういうものなの!?」
物語の中で語られるような恋愛譚くらいでしか知らない異世界に、いきなりぽんと放り込まれた気分である。
その世界に憧れたことがないとは言わない。むしろ、幾度となく夢見た世界だ。その最たるものが、幼いころからの愛読書である『金色の王子様』と呼ばれる物語である。
金色の王子様はいつだって、恋をささげた姫君に幾度となく愛をささやいていた。その美しくも胸を焦がす言葉の数々に、何度胸をときめかせたことか。
けれど、実際にやられるとこんなにも恥ずかしくてならないものだなんて知らなかった。知らない方がよかったのでは、とすら思えてくるくらい、近頃のリヒトの態度は度を越している。
嬉しくないわけではない。むしろ、そこから生まれる照れくささすらも含めて、とても嬉しい。
けれどいくらなんでも物事には限度というものがあるわけで、近頃のリヒトのその態度に、マリオンはすっかり振り回されっぱなしなのだ。
「恋人って、こういうものなの?」
先ほどと同じセリフを繰り返す。なんだかむずがゆくて、それから少しだけ、なんとも言えないさびしさのようなものが、苦く口の中に広がっていく。リヒトが自分のことを気にかけてくれるのは嬉しい。
けれど、何もかも守られたいとか、誰よりも甘やかされたいとか、そういうわけではないのだ。むしろマリオンは。
「今までと同じじゃ、いけないのかしら」
守られてばかりいたいわけではない。甘やかされてばかりいたいわけでもない。ましてや、負担になりたいわけでは決してないのだ。
マリオンだって彼を守り、彼の支えとなりたいのに。
それなのに今の状況は、マリオンが望んだ関係とはなんだか違う気がしてならなくて。
「ぜいたくな悩みよね」
あんなにも美しい青年に尽くされて、これ以上何を望むことがあるというのだろう。尽くされたいわけではないなんて、そんなの、きっとマリオンのわがままでしかなくなってしまうのだ。
なんてままならないのだろうと溜息を吐くと、その吐息がくすぐったかったのか、ウカがもぞもぞと身動ぎした。
そのままお返しとばかりに首を伸ばしてマリオンの鼻先を舐めてくる子狐に、ようやくマリオンは笑みを取り戻し、さて、と立ち上がる。
「とにかく、洗濯物だわ!」
晴れているうちに終わらせなくちゃ、と、ウカを地面に降ろして代わりに洗濯かごを持ち上げる。
風が吹く。夏を招く風だ。
今年の夏は例年とは違うものになる気がしてならない。
期待と不安を同時に胸に抱きながら、マリオンはウカを引き連れて、井戸へと足を向けたのだった。
(――そして、2巻本編へと続きます。嵐、到来です)
【書籍情報】
タイトル:災厄令嬢の不条理な事情2 使用人が私だけに甘すぎて身の危険を感じるのですが!
作者:中村朱里
イラスト:鳥飼やすゆき先生
レーベル:一迅社文庫アイリス
出版社:一迅社
発売日:2022/4/20
ISBN:9784758094559
文庫判 定価:730円(税込)
1巻、コミカライズともども、2巻をよろしくお願いいたします!