【神様にだって秘密】
けほ、と小さな咳がもれる。喉は乾いてひりひりと痛む。鏡を見なくたって自分の顔が赤らんでいるのが解るし、なんとなく視界が歪んでいるのはまぶたが熱ぼったく涙がにじんでいるせいだ。頭がぼうっとしていまいちはっきりしない。ぽかぽかと湯上りのように熱をはらんだ身体は重く、あちこちの関節がみしみしとこれまた痛む。
これらの症状が意味するものなんてたったひとつ。すなわち風邪である。
私、フィリミナ・フォン・ランセントは、現在立派な風邪っぴきさんなのだ。
原因は解っている。昨日、にわか雨が降った。ただのにわか雨ではない。土砂降りと呼んでも差し支えないほどのひどい雨だった。わずかな時間であったものの、そのすさまじさはわざわざ今朝の王都の機関紙で『高位水精が大挙して、王都上空で宴を催したとみられる』なんて取り上げられたくらいだった。
そのにわか雨の中、慌てて中庭に干していた洗濯物を取り込んだのがまずかった。いや、取り込んだ行為そのものは別段悪くなかったのだろうけれど、問題はその後だ。完全にぬれねずみになってしまった私は、「まあこれくらいなら」とタオルで拭き、着替えるだけに済ませてしまったのである。
いくら今の季節が春であるとはいえ、ぬれねずみになってしまえばそれはもう当然身体は冷える。その場はよかったのだけれど、夜になってからどんどん身体が芯から冷えてきて、「あっこれはまずいやつ」と気付いたときにはもう遅かった。前述の通り、一晩明けた今朝、立派な風邪っぴきさんが出来上がっていたという訳だ。
不覚、ああ、返す返すも不覚である。
横着せずに早めにお風呂をいただいておけばよかった……なーんて後悔しても遅い。後悔とは後で悔いるからこそ後悔なのだ。現代にまで残る先人の格言はいつだって正しい。さすが長く誰にともなく口にされ伝えられてきただけある。ついでに風邪をすぐに治す方法も残してくれればよかったのに、なんて思っていたら、けほけほ、とまた咳が続けて口から飛び出してきた。
うう、ただ咳が出るだけならともかく、ついでにそのたびに喉が痛み、なんなら胸まで痛くなるのが本当に辛い。
お医者様の見立てでは肺炎にはなっていないし、薬を飲んでゆっくり眠れば問題ないだろうということらしい。それは本当にありがたい限りなのだけれど……けれど、も。
「大丈夫か? ほら、氷枕を取り換えるぞ」
「エディ……」
昨日の夜から私よりも敏感に私の不調に気付いてくれていた旦那様、もとい、エギエディルズ・フォン・ランセント氏が、努めて優しく丁寧に私の頭を持ち上げてくれて、その下にあった、既にぬるくなっていた氷枕をキンキンに冷たい新たなものへと取り換えてくれる。
頭をそっとその上に降ろされると、新しい氷枕のひんやり感が心地よく後頭部から全身へと広がっていく。
ああ、気持ちがいい。思わずほうと吐息をこぼして目を細めると、そんな私の額に、更に男は冷たくぬれたタオルを乗せてくれる。これまたひんやり心地よい。
本日の男の定位置となったベッドサイドの椅子に腰かける彼の顔を寝たまま見上げて、「あの」と私は熱による乾燥でひりつく唇を動かした。
「ありがとうございます、エディ。ですが、もう看病は結構ですから、あなたもお休みになってくださいな。そうでなかったら今からでも王宮に……」
「断る。何度言わせる気だ? 今日はもう昨日のうちに休暇を取ってある。大体今を何時だと思っているんだ。こんな夕暮れに登城しても、俺が成せる仕事など限られている。それよりもお前の看病をしていた方がよほど建設的だ」
「…………」
取り付く島もなく却下されてしまった。男の言う通り、もう今朝から今現在の夕方に至るまで、何度も何度も繰り返してきた会話であるとはいえ、こうも完璧に論破されてしまうとなんとも悔しくなってしまう。もとを正せば自業自得であるとは解ってはいるのだけれども。
史上最年少で王宮筆頭の座に登り詰めた、稀代の魔法使いであるこの男ならば、たとえ夕方からわずか数時間であるとしても、部下の皆様に引けを取らないくらいにお仕事ができるだろうに。それなのにこの男と来たら、仕事ではなく妻である私のことを優先してくれたのだ。
仕事人間のくせに。ワーカホリックのくせに。好きなことと趣味を一緒くたにしてお仕事にしているくせに。
それなのに、昨夜の時点で私の体調を見抜いて、本日の休暇をもぎ取ってくれたこの男。
この男の忙しさは、それはもうよーく存じ上げている。本日の休暇を急遽取ったがために、相当無理を言ったのだろうし、同時に対価として無理を求められたに違いない。それが申し訳なくて仕方がなくて、さっきまでよりももっとぐにゃりと視界が歪んだ。
「ごめんなさい、エディ」
ああ、ああ、情けない。普段ならこんなことで泣く私ではないのに、どうにも情緒が乱れていて、それがそのまま涙腺に直結している。
ぼろりとこぼれそうになった涙を、鉛のように重い腕をなんとか動かして、ゴシゴシと目元を拭う。
「こら。余計に目元が腫れるぞ」
「だ、って」
何もかも風邪のせいだ。正確には、風邪を引く原因を作ってしまった私の不覚のせいだ。それとも、更にその根本的な原因である昨日のにわか雨、機関紙曰くの『高位水精達』のせいにすればいいのだろうか。
私は確かに幼い頃に高位火精の怒りを買って精霊の加護を失ったけれども、水精から個人的な恨みを買うような真似はしていないはずなのに。ひどい。ひどすぎる。こんなのあんまりだ。
ああまた涙がこみ上げてくる。ただでさえ水分補給を求められている身体なのに、こんなことでまた体内の貴重な水分を失うような真似は避けたい……って。
「エ、ディ……!」
「風邪を引いても涙の味は変わらないな」
「~~~~っ!」
目元を更に拭おうとした私の手を捕まえて、わざわざ身を屈めて私のまなじりに口付けて、そこから流れようとした涙を舐め取ってくれた男は、涼しい顔でひとつ頷く。あまりの恥ずかしさに言葉もなく唸る私のことなんてまるで気付いていないかのように――というか、気付いている上で心の底から私のことを心配しつつも現状をどうにも楽しみながら――男は、すぐそばに寄せたキッチンワゴンを更に手元に引き寄せる。
そしてワゴンの上で、ほかほかと湯気を立てているおかゆとスプーンを手に取った。
「朝も昼も果実水と薬湯しか摂れていないだろう。そろそろ腹が減ってきたんじゃないか?」
「え、あ、はい……」
「ほら、そうだろう。氷枕を変えたばかりでなんだが、起きれるか?」
「……はい」
なんだろう。うまいこと話を逸らされて、男の都合のいい方向に誘導されている気がする。えっわたくし、すごく恥ずかしいことされたし、その前には泣きそうになっていたのですが……お忙しいあなたにご迷惑をおかけして本当に申し訳なく思っているのですが……なんて、言える雰囲気ではない。
男の表情も、こちらに向けられるまなざしも、ごくごく自然なもので、ついでにその手のお椀のおかゆもとってもおいしそうで……だめだ、勝てない。
万全の状態であっても不意打ちを狙うからこそ私はこの男に勝てるのであって、こんな不調真っ只中の状態で先手を取られては勝てるはずがなかったのだ。
ここは諦めて甘えてしまうより他はない。
「ごめんなさい、エディ」
「ここは『ありがとう』と言うべきだと俺に教えたのはお前だったはずだが」
「……ふふ、そうだったかしら。そうかもしれませんね。ありがとうございます、エディ」
大真面目に言い切ってくれる男に、今更ながらなんだか救われた気持ちになる。やっと、ずっと今朝から胸の内に募っていた申し訳なさが少しだけ軽くなってくれた。心が軽くなると身体も軽くなるようで、私は男に促されるままにベッドの上で上半身を起こす。
男の言う通り、今朝から果実水や薬湯といった水分以外には、まともなものを口にできていない。ようやく空腹を思い出すと、ぐう、と腹の虫が鳴いた。あ、と思ってももう遅い。
「やはり頃合いだったようだな」
「っここは聞かなかったふりをするのが淑女に対するマナーですよ……!」
「これは失礼、俺だけのレディ」
「もう!」
悔しいったらないのだけれど、同時にどんどん元気になっていく自分の体調をまざまざと感じて、もう何も言えやしない。
差し出されたグラスを受け取ってかさつく唇と渇いた口内を湿らせて、いざおかゆのお椀を受け取ろうと手を伸ばす。だがしかし、お椀が私の手に渡ることはなかった。サッとこちらの手からお椀を遠のけた男に目を瞬かせると、男はやはり大真面目な表情を浮かべて、スプーンでおかゆをすくう。
おや? そのおかゆは私のためのものではなかったのかな? と頭の上で疑問符を飛ばす私の視線の先で、保温用の火属性魔法石の効果でスプーンの上に移動してもなおまだ熱いおかゆに、男はふうふうと息を吹きかける。
そうして、「えええっと……?」と戸惑う私の前に、そのスプーンが差し出される。
「ほら。あーん」
「!!」
やはりこれまた大真面目な顔で男は言った。「あーん」と。確かにそう言った。
スプーンとその大真面目なお美しいかんばせを見比べる。
これを、食べろと? そう仰っているのですか?
そう無言で問いかけると、男はこっくりと頷いて更にスプーンを差し出してくる。なんならもう突き付けてくると言っても過言ではない勢いである。
いや、いやいやいやいや。
「じ、自分で食べられますわ」
「ああ、解っている。俺がやりたいからやっている」
ずっとそう言っているだろう、と、至極もっともらしく男は言い切ってくれた。
ああそうだ。そうだった。本日何度も聞いた台詞だ。『やりたいからやっている』のだと事あるごとに私に言い聞かせては、それはもう甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれた。
先程氷枕やタオルを変えてくれたのなんて序の口だ。午前中、今よりももっと調子の悪かった私が、何かを言う前に自ら先んじて行動してくれた。たとえば喉が渇いたと思えば、心得たように果実水が差し出され。たとえば肌寒さを感じたら、やはり心得たようにタオルケットが一枚追加され。たとえば部屋の空気が停滞しているようで息を詰まらせていたら、これまたやはり心得たように窓を開け放し部屋の空気を入れ替えてくれて。
……まあ、流石に汗でべたつく身体をなんとかしたくて着替えようとしたところに割り込んできて手伝ってくれようとした挙句、ついでにその汗ばむ肌を拭いてくれようとしたときには悲鳴を上げたけれど。あのときばかりは風邪っぴきの不調がとかなんとか言っていられなかった。「自分でできます! いいえ、自分でさせてください! お願いですから!」とタオルケットを抱き締めて抵抗しても、結局先程のようにざっくりと論破され、あられもない姿を見せる羽目になってしまった。
つい数刻前の話なのにまるで遠い昔の話のようだ。ははははは、不思議と遠い目になってしまう。
これで不埒な他意があるのならば最後まで抵抗できたのに、この男ときたら、こういうときにはちっともそういうそぶりを見せずに、やはり“大真面目”で、だから私はこの男が好きなのだなぁと改めて思……って話がずれてきた。
そう、もう着替えまで手伝わせておいて今更何をという話なのだけれど、それはそれ、これはこれだ。
子供のように「あーん」されるなんてそんな、そんな、いくらなんでもそれはちょっと!
「エディ、本当にいいんです。自分でできますから。さ、そのスプーンとお椀をわたくしに……」
「……そんなに嫌か?」
「え」
「こんなときですら、お前は俺に甘えてくれないのか」
「…………………………」
こらこらこらこら、そういう言い方は卑怯ではないか。まるで私の方がいじめているような気持ちになってしまう。先程までの大真面目な表情から一変して、しょんぼりと肩を落として落ち込む男の姿に、ぎゅうっと胸が詰まる。
ああもう、仕方がない。この調子で着替えのときも押し切られたことはよーく理解しているけれど、こんな顔をされたらもう叶わない。最初から勝てる訳がなかったのだ。女は度胸、ではないけれど、潔く諦めてドーンと受け入れてみせようではないか!
熱に浮かされている今だからこそそう思えるだけで、きっと全快したら気恥ずかしさに悶絶する羽目になることはまず間違いない。けれど、いい。それで私のために休日をもぎ取ってくれたこの男が喜んでくれるなら、仕方がないのだ。
惚れた方が負けなのである。悔しいことに。
「で、では、お願いします」
あーん、と口を開けると、パッと解りやすく顔を明るくした男が、スプーンを差し入れてくれる。
はむ、とおかゆを口に含むと、優しくほんのり甘みがある味が口いっぱいに広がった。滋味深いとはこういう料理のことを言うのだろうなぁとしみじみと感動してしまうおいしさだ。
「どうだ?」
「おいしいです」
とても、と付け足すと、男は嬉しそうに口元に弧を描いて、更に“あーん”するようスプーンを差し出してくる。大人しくまた口を開ければ、またおかゆを味わうことができる。
私だってそれなりに料理をこなせるつもりだけれど、この男にはこういうところでも敵わないのだということを思い知らされる。くそぅ、おいしくて悔しい。いっそ毎日この男に食事を作ってもらいたいくらいにおいしいのだ。けれどご本人曰く「構わないが、お前は宮廷料理が毎日食べたいのか?」とのことで。そして更に「俺はお前の家庭料理の方がずっと好ましい」なんて続けてくれたので。だから結局、私はこの男のためにまた料理を作るのだろう。今日はそれが叶わなかったけれど、回復したらたっぷりこの男の好物を作ってあげようと心に決める。
そうして綺麗にお椀が空になる頃、私のお腹も心地よく満たされた。それから、心も。
なんだか心身ともにいよいよ元気になってきた気がする。ぽかぽかと心地よいぬくもりが身体の奥底から湧いてくるようだ。
「ほら、最後の薬湯だ」
差し出されたカップを受け取って、お医者様が処方してくださった苦みのある薬湯を飲み干すと、一気に眠気が襲ってくる。
うと、とゆっくりと瞬きをすると、やはり私が何かを言うよりも先に男の方が動いた。私の手からカップをさらい、氷枕を整えて、私を再びベッドの上に横たわらせてくれる。
「ありがとう、ございます」
「大したことじゃない。ゆっくり眠れ」
「は、い……」
髪を払われて、額に唇を落とされる。その口付けを合図にしたかのように、驚くほどあっさりと、心地よく私の意識は眠りの淵に沈んでいった。
――――そうして、どれだけの時が流れたのか。
は、と息を呑む、そのわずかな自分の声に驚いて目が覚めた。
窓の外はすっかり暗くなっている。私が眠る前は、まだ夕暮れで、空はまばゆい朱橙色に染まっていたのに、今はもうそんな色が思い出せない。
「起きたか」
「エディ? まあ、あなた、起きていらしたのですか?」
眠る前はかすれていた声が、いつも通りの張りのあるそれへと戻っていたことに気付く。
私が独占状態になっていたベッドの横の椅子に腰かけていた男にも、それは伝わったらしい。ベッドサイドランプと、窓から差し込む星影だけというわずかな明かりの中で書物を読んでいた男が、身を乗り出して私の顔を覗き込んでくる。
そのまま男は、こつん、と私の額に自らの額を重ねてきた。これ以上ないくらいの至近距離で目にする美貌に改めてドキリとする私に気付いているのかいないのか、しばしそのままの状態でいた男は、やがて私から離れ、改めて椅子に腰を下ろす。
「熱はほとんど下がったな。とはいえまだ微熱はあるようだから、油断は禁物か」
「あ、あの、エディ。申し訳ございません、わたくし、ベッドを……」
「フィリミナ。こういうときは?」
「……ありがとうございます。いえでも、その」
「俺がやりたくてやっているのだと何度言わせる気だ?」
いい加減にしろ、とその手が握り締められて、こつんと私の額を小突く。痛みも衝撃もなく、ただ気遣いばかりが感じられるという器用な拳だ。
こんなときに嘘や偽りを言うような男ではないから、心の底から本当にそう思ってくれているということは解る。解るのだけれどしかし、だからと言って「はいそうですかありがとうございます」とばかりは言えないのだ。だって迷惑をかけているのは事実なのだから。
ほぼほぼ全快しつつある中で鮮明になってきた思考だからこそ、改めて余計にそう思えてならない。
でも、「ごめんなさい」も「申し訳ございません」も、これ以上この男は望んでくれない。とはいえ「ありがとうございます」だけでは私は片付けられない。
どうしたものかと悩む私の葛藤を、男は敏く読み取ってくれたらしい。はあ、と、聞こえよがしな溜息が耳朶を打つ。
「気にするな、とも何度も言っているんだが……お前は納得できないのだろうな」
「す、すみま……」
「謝るな。……ああ、そうだな。解った。俺も言い方を変えよう。というか、本音を言おう」
「本音、ですか?」
この期に及んで何のことだろう。これ以上なく本音を聞かされてきた気がするのに、まだあるというのか。
ああ、そうか。あれか。今度こそ「実は途中から面倒になってきていた」とか言い出してくれるのかもしれない。うん、はっきりとそう言ってくれた方が正直なところ気が楽だ。そうしたら私だって今度こそちゃんと「ごめんなさい。申し訳ありません。すみませんでした。次からはちゃんと気を付けます」と誓うことができる。
よし、覚悟はできた。
さあどうぞ、と男を見上げると、またしても巨大な溜息が降ってきた。え、と固まる私の、汗で湿る髪がひとふさ、男の手によって持ち上げられる。
「正直言って、俺は嬉しい」
「……はい?」
ぱちん、と大きく目を瞬かせると、男は小さく笑って、持ち上げた私の髪をくるくるともてあそぶ。
その動きに目を奪われる私の頬に、反対側の手を寄せて、男は笑みを含んだ声で続けてくれる。
「もっと言うならば楽しいし、役得だと思っている。結婚前は、俺は看病どころか、見舞いすら許されなかったからな」
「あ……」
男の笑みに自嘲が混じった。その切なく悔しげな笑みに、そういえば、と思い至る。
結婚する前、私がこの男の姓であるランセントではなく、実家住まいのフィリミナ・ヴィア・アディナだったころ。
ごくごくたまに、そう、たとえば季節の変わり目などに体調を崩したとき、私はこの男がアディナ家にやってくることがないようにとアディナ家の面々とランセントのお義父様――当時はおじ様――にお願いしていた。忙しいこの男に、万が一でも風邪だのなんだのと言った不調の原因をうつす訳にはいかないと思っていたからだ。なんなら今でもそう思っている、というのはひとまず置いておいて、とにかく私は、体調を崩した時には徹底してこの男を避けたし、周囲にもそうなるように協力してもらっていたのである。
合理的で敏いこの男のことだから、私の考えなんてお見通しで、「そういうことならば」と納得しているだろうとばかり思っていたのだけれど……今のこの、表情。
どうやらまったくちっともぜんぜん、納得なんてしていなかったらしいことを、大変遅ればせながらにして私は知ってしまった。
「病の時は気が弱くなるものだろう。そうでなくても、身体が不調なれば人恋しくなるものだろう。そんなときに、そばにいてやれない男が、どんな顔で“婚約者”だなどと名乗れたと言うんだ?」
「それは、その、申し訳……」
「違う。お前が謝ることじゃない。結局俺が勝手に、お前に頼ってもらえない自分に腹を立てていただけだ」
こちらの謝罪を皆まで言わせずに、被さるようにそう言い切った男は、そうして「だから」と私の頬のラインをなぞっていく。
「今回のことは、お前にとっては不運なことでも、俺にとっては幸運なことだった。お前の世話を焼くのは楽しくて、嬉しい。いっそ礼を言ってもいいくらいだ」
くつくつと男の喉が鳴る。どことなくどころでなく弾む声音が紡ぐ通り、本当に楽しそうで嬉しそうだ。
これは、どうしたものだろう。喜んでいいのだろうか。それともやっぱり申し訳なく思うべきなのだろうか。稀代の純黒の魔法使いにここまで言わせるなんて、なんだかとても恐れ多いような……いいや、そうでもないな。
だって私は“純黒の王宮筆頭魔法使い”の妻である前に、“エギエディルズ・フォン・ランセント”という一人の男の妻なのだから。女冥利に尽きると鼻を高くすべきところということにしておこう。
そう思ったらなんだか妙に面白くなってきて、ぷっとつい噴き出してしまった。私がようやく心の底から笑ったことに、男はどうやら安堵してくれたらしい。
また身を屈めて、眠る前と同じく額に口付けてくれた男は、そうして私に「眠れるか?」と問いかけてきた。身体は随分とすっきりとしていて、思考もクリア、情緒も安定していて、実に心地よい。うーん、これは。
「無理です。おめめぱっちりです」
「なるほど、ぱっちりか」
「ええ、ぱっちりなんです。ねえエディ、何かお話をしてくださいます?」
「幼い頃のお前のようにか?」
「別に物語でなくても構いませんわ。あなたのお話が、あなたの声が聞きたいのです。そうだわ、あなたが先程まで読んでいらしたそのご本。それを読んでくださいまし」
“おめめぱっちり”と言いつつ、まだ私の不調は残っているらしい。病になると気が弱くなって、不調は人恋しさを呼ぶのだったか。つまりはそういうことだ。
私は今、他の誰でもなくこの男の存在を、もっとつぶさに感じたかった。
お願いします、と続けると、男はベッドに移動させていた書物を手に取って、苦笑交じりにその整った眉尻を下げた。
「ただの魔導書なんだが……ああ、だが、そうだな」
「エディ」
「そのまま、見ていろ」
ぱたんと男は、本人曰く“ただの魔導書”であるという書物を開き、その上に片手をかざす。そうしてその薄い唇が、美しい詩歌を口にするように、旧い魔法言語を紡ぎ始める。
あら? と目を瞠りつつも、男に言われるがまま大人しく見ているだけの私の周り――いいや、この夫婦の寝室そのものが透けていく。そう、調度品も壁も何もかも、すべてが透けていくのだ。
ますます目を瞠るばかりの私の視界は、そうして、一面の夜空に塗り替えられた。
いいや、ただの夜空ではない。満天の星が残るのは西の空で、東の空はもう既に橙色に染まりつつある。もう夜明けなのかと、頭のどこかで冷静に時間帯を把握する私がいたけれど、それよりもただただ、周囲が美しい夜明けの空を描き出していることに感動することしかできない。
「外の光景……正確にはこの屋敷の高さよりももう少し上空の光景を投影した。どうだ、なかなか見ものだろう」
「……はい」
どこか自慢げに、誇らしげに、男は遥か彼方の橙色の水平線を見つめている。その橙色が、西に行くにつれて、紫色へと変化していく。見事な朝焼けだ。
それを見つめる男の横顔。左目の下に走る傷跡。ぬれたように艶めく漆黒の髪。黒髪を際立たせる白磁の肌。通った鼻梁。何よりも、あの空と同じ、その、瞳。
「なんて、綺麗なのかしら」
「今朝の朝日は特に格別だな。大気の精霊達の機嫌がいいらしい」
違います。わたくしが綺麗だと言ったのは、空ではなく……と、言おうかと思った。けれど、黙っておくことにした。本人にだって言うのが惜しいと思えてしまうくらいに、私だけのものしておきたいと思えて仕方がないくらいに、本当に、男の横顔が、とても、とても、美しかったから。
だから私はそれ以上は沈黙を選んで、言葉の代わりに男の手を握る。そっと握り返してくれる手のぬくもりに、風邪を引くのも悪くないな、なんて、罪深いことを思ってしまう。
そしてそれ以上に罪深いのは、この男の美しさを独り占めしようとしているこの気持ちなのだろうけれど、そこはそれ、何せ私はこの男の妻なので、許されてしかるべきだと一人納得するのだった。