【大きいわたくしと小さいあなた】

王宮筆頭魔法使いたる我が夫、エギエディルズ・フォン・ランセントの突然の出張が決まったのは、驚いたことについ昨夜のことである。我がヴァルゲントゥム聖王国の北部のとある村に、魔物が群集して押し寄せているのだそうだ。
先達て魔王が討伐されて以来、魔物は絶滅こそしないものの全体としての勢力はかなり減退し、その被害もまた大きく減少したとは知っての通りだ。平和な王都で暮らす私ですら、そのあたりのことついては多少なりとも聞きかじっている。
北部の村を襲った魔物は、一匹一匹の力はごくごく弱い、それこそ魔物の襲撃に慣れた北部の農民ですら、農具一本で討伐できるような下位のそれであるらしい。もとより北部の住人は魔物に慣れており、当然その対応に関しても同様で、常であれば王都にまで報告されるような事案ではなかったはずだった。
だがしかし、今回はその魔物の動きというものの勝手が違っていたのが問題だった、というのが我が夫の弁である。
聞くところによると、数が。そう、数が尋常ではないらしいのだ。文字通り群れを成して襲い来る下位の魔物達に、村人達は当初はなんとか対応していたものの、それでも襲撃は文字通り立て続けに続き、最終的に「これは自分達だけでは終わりが見えない」と悟ったのだとか。
どうか増援を、と王宮に伝令が届いたのが三日前のこと。幸いなことに死者が出るような事態に陥ることはなさそうだが、常に緊張を強いられる日々に村人達はそろそろ限界を迎えつつあり、早期の根本からの解決を望むと――そういうこと、だったらしい。
そこで白羽の矢が当たったのが、王宮筆頭魔法使いサマ、もとい我が夫だったわけだ。
本来であれば黒蓮宮のトップにして、王都の結界の要である男が、王都を離れて北部に向かうなんて……そんなこと、許されていいのだろうか。
そう私が考えるのも無理はないことだと思うのだが、なにやらそのあたりについては既に男自身も散々四の五のもめた後らしく、結局「次の休暇を連休でもぎ取ることで話をつけた」とのことだ。
そういえばこの男、結婚してからというもの、まともな連休なんて滅多に取ったことがなかったなぁ、なんて私が重ねて思ったのは余談である。
そんなこんなで、本日、男は出張に旅立つことと相なったのだが。

「いいか。見ず知らずの奴が訪ねてきても無視をしろ。出かける時は必ず明るい時間に。戸締りを忘れるな。それから……」
「あの、エディ。それ、昨日も一昨日も、まったく同じことを聞きましてよ」

玄関まで見送りに来た私に、大真面目な顔をして語るこの男。もはや何度なのか数えるのも馬鹿馬鹿しくなったお留守番におけるアドバイスを繰り返す男に、もうただただ苦笑するしかない。
私を一人残して旅立つことをそれはもう嫌がっているのは解るし、心配してくれるのはこそばゆくも嬉しいのだが、それにしてもここまで同じことを繰り返さなくてもいいのではなかろうか。いい加減だんだんこの男がめんどうくさ……いや、言うまい。そうではなく、ここまで心配させてしまう自分の情けなさを反省しなくては。
私の言う『大丈夫』がいかに信用ならないものなのか改めて思い知らされる。流石にここまでとは思わなかった。うーん、申し訳ない。と思いつつも、それでもついつい半目になってしまう私はやはり反省すべきなのだ。

「おい、聞いているのか? 一応一週間という予定にはなっているが、俺としては三日で事を片付けてくるつもりだ。その三日、絶対に気を抜くなよ。周りはすべて敵だと思え」
「エディ……」

私はますます半目になった。いや流石にこれは酷い。
戦場におもむくのは自分の方なのに、まるで私のことを戦場に置いていくような口ぶりである。そこまで言うか。

「あなた、わたくしのこと何だと思ってますの? 幼い子供ではありませんのに」
「当たり前だ。お前は俺の、たったひとりの妻だろう」
「でしたら」
「だからこそだ」

恥ずかしげもなく私を唯一無二と言ってくれる男に照れつつ反論しようとしたら、その台詞を遮って、その白い手がそっと私の頬のラインをなぞっていく。思いの外冷たいその温度にぱちりと瞬けば、男はやはり大真面目に続けた。

「俺は敵が多い。今回の遠征については秘匿されているが、知る者には知れた事実だ。俺の不在を狙ってお前に近付く奴がいないとは限らない」
「はい。心得ておりますとも」

この男の妻となった時点で、ある程度は理解しているし覚悟しているつもりだ。しかし私はそういう点においては本当に……情けないことに本当に信用がない。案の定、男は「どうだか」という顔をした。そして実際に「本当に解っているのか?」と首を傾げられた。
そろそろ私も怒りや呆れや情けなさを通り越して悲しくなってきたのだが、そんな私の複雑な心境などちっとも知らない様子で、男は難しい顔をして眉をひそめた。

「……やはり俺がいない間はアディナ家に戻るべきでは」
「わたくしとしてはそれでも構いませんけれど、きっとお父様とフェルナンは、そのままわたくしのことをあなたの元に返してくれなくなりますよ」

私のことをそれはそれはかわいがってくれる父と弟は、きっとこれを好機にして、ここぞとばかりに私を実家住まいにしてしまう気がする。「やはりエギエディルズには任せておけないな!」「姉上は僕が守りますからご安心を!」と満面の笑みを浮かべて頷き合う姿が目に浮かぶ。
それは私ばかりではなかったらしく、男もまた、その美貌を渋く歪めた。どうすべきかとても悩ましく思っているらしい。そしてその短くも長い葛藤の末に、男は「仕方ない」と深く溜息を吐いた。溜息を吐きたいのはわたくしも同じなんですが、とは言わぬが花だろう。

「とにかく、気を抜くなよ。何かあればすぐにブレスレットの魔宝玉を使って俺を呼べ……いや、いっそお前も一緒に北部に……」
「さ、エディ! お時間ですよ!」
「いや待て、まだ話は終わっていない」
「ええ、ご無事のお帰りを心からお待ちしておりますわ。どうか、どうかお気をつけて。それではいってらっしゃいまし」
「フィリ……」
「ごきげんよう!」

ぐいぐいぐいぐいと男の背を押し、玄関から外へと追い出す。王宮からの迎えの馬車が既に待機していたのをいいことに、そのままバタン! と勢いよく扉を閉めた。我ながら最高の笑顔だった。
まだ男は言いたりないことがあれこれあるらしく、更に何かを言い募ろうとしていたけれど、ここまで来るともう知ったことではない。たぶん、全部聞いていたら日が暮れてしまう。それは色んな意味で頂けないので、丁重に送り出させていただいた。
閉じられた扉の向こうからはしばらく不穏な空気が感じられた。しかしやがて、馬車が走り去る音が聞こえてきたので、ほっと安堵の息を吐く。
ふふふ、よしよし、ミッションコンプリート。これで私は。

「少なくとも三日間自由だわ……!」

思わずガッツポーズを決めてしまった。いけないいけないはしたない。けれどこの喜び、そうそう抑え切れるものではない。
いや、当たり前のことだが別に、あの男と暮らすのが嫌な訳では決してないのだ。断じてそんなことはない。ただ、たまに、本当にごくごくたまに、「たまにはお一人様気分を思い出したいなぁ」と思うだけで。
あれだけかつて結婚を夢見ていたというのに、今となってはこんなことを思ってしまうのだから、我ながら現金なものだ。けれど仕方ない。だっておひとり様でなければ、なかなかお手軽時短ご飯は食べられないし、夜更かしもできないし、ノーメイクでは過ごせないし、お昼過ぎまでゴロゴロなんてもっての外だし。
実は今日から三日間に向けて、昨日、市場で三日分の保存食を調達している。存分にダラダラおうち時間が満喫できるという訳だ。いくら下位であるとはいえあまたの魔物が待つ戦地におもむいた夫をよそにダラダラなんてとんでもない! という思いがない訳ではないが、なんというか、あの男ならもう大丈夫だと思ってしまう。
魔王討伐に旅立った際とは訳が違う。あの男は、絶対に無事に私の元に帰ってきてくれる。そういう確信があるからこそ、私は存分はダラダラしようと思えるのである。

「大丈夫だもの」

そう、大丈夫なのだ。私だって。あの男だって。大丈夫だと信じて待つことしか結局できないことを歯がゆく思うからこそ、余裕ぶってダラダラ過ごしてみせるのだ。
そうやって、三日後、最高の笑顔でおかえりなさいを伝えよう。大丈夫。寂しくなんかない。大丈夫、大丈夫。

――と、そう、自分に言い聞かせて過ごした一日。

一つ夜を数えて、あの男が不在の朝。結局、いつも通りの時間に目覚めてしまった自分に頭を抱えた
。いくら探してもどこにも見つからないぬくもりに、あの男の存在がどれだけ〝当たり前〟になっていたかを思い知らされる。

「……悔しいわ」

ものすごーく、悔しい。認めるのがとっても悔しくて、悔しすぎるから、二度寝を決め込もうとしても、ちっとも夜の妖精はやってきてはくれない。脳裏をちらつくのはあの男の美しい面影ばかりだ。
こうなればもう諦めるしかない。溜息を吐き出して、えいやっと身を起こす。寝巻きから着替えもせずにガウンをはおるだけに留めて、そのまま中庭まで降りた。
まだほんの少しひんやりとしている朝の光が心地よい。何をするでもなくうろうろと歩き回るこの姿は、自宅の中庭でなかったら完全なる不審者だ。

「エディのせいだわ」

笑顔で追い出し……もとい、送り出したのは間違いなく私なのだけれど、それでも理不尽にあの男のことを責めたくなる。結婚前はたまにアディナ家の屋敷を訪れてくれるだけで嬉しかったのに、今ではこのありさまなのだから、あの男もとんだ面倒な女に捕まってしまったものだ。ああ、どうしよう。

「さびしい、なんて」

どんな顔で言えばよかったのかしら。
そう続けようとした、そのときだった。

「やはりか」
「え?」

予想外の声が、予想外のところから聞こえてきた。なんだ今の。聞き間違い? それとも空耳? あの男恋しさにとうとう私はそんな――と、きょろきょろと周囲を見回す。
もちろん誰もいない。やはり聞き間違いか空耳か、と、溜息を吐こうとしたところ、「ここだ」と予想外ながらも聴き慣れた声が聞こえてくる。
ここだ、って、え?
そうして私がそちら――つまりは庭の片隅で愛らしく咲く酢漿草の群れを見下ろすと、そこには。

「…………ええ?」

我ながら随分まぬけな声が出てしまった。我が目を疑うとはこのことだ。まさかまだ夢を見ているのだろうか。
ごしごしと目をこすり、それから何度も瞬きを繰り返す。けれど、そこにいる〝それ〟は消えはしない。酢漿草に埋もれていた、手のひらにちょうど収まるサイズの〝それ〟は、呆然と立ち尽くす私の前までやってくると、「やはりおれがきてせいかいだったな」と胸を張った。
小さな小さな〝それ〟は、まるでお人形のように整った顔立ちをしていた。身にまとうのは、選ばれた者にしか許されない黒のローブ。聴き心地のよい声に、小さな手、小さな足。そして何より、朝焼けを掬い取ったような橙色と紫色の入り混じる瞳と、陽の光の下で艶めく漆黒の髪。
〝それ〟は、まさしく、我が夫たるエギエディルズ・フォン・ランセントを、そのまま小さくしたような見た目をしていた。

「え、ええと……」

どちら様ですか、と、往生際悪く視線で促せば、〝それ〟は私に向かって優雅に一礼してみせた。
まあ、かわいらしい。思わずそう呟けば、そうだろう、とばかりに頷いて、〝それ〟は続ける。

「おれはちいさいエギエディルズだ」
「ち、小さいエディ?」
「ああ」

こっくりと深く、そのかわいらしくも美しい、非常に見たことのある面差しの小人さん――自称〝ちいさいエギエディルズ〟さんは再び頷いた。
……うん? やはり私は寝ぼけているのではなかろうか。なんだこのこ。どうすればいいんだ。そう迷ったのは数秒。

「……二度寝しましょう」

正確には三度寝かもしれないが、そういう細かいことは置いておこう。あの男恋しさに謎の小人さんを幻視したなんて恥ずかしくて誰にも言えやしない。ここはひとつ、ぐっすりもう一眠りしてすべてなかったことにするに限る。
いやはやいやはや、私、思っていた以上にあの男のことを……なんて思いつつきびすを返す。すると、非常に低い位置から、ネグリジェの裾が引っ張られた。無視しようとしてもし切れない、絶妙な力加減の、くいくい、である。
恐る恐る振り返って下を見ると、私のネグリジェの裾をその小さな手で掴む存在の、朝焼け色の瞳とばっちりと目が合った。思わずひっ! と息を呑んでしまった私はひどい女だろうか。

「ねむるのならばつきあうぞ」
「…………いえ、結構です」
「そういうな」
「言わずにいられますか!」

かわいい。確かにとてもかわいいのだけれど、それで片付けてしまってはいけない。
だからこそ拒否する私を見上げ、小さなエギエディルズさんはふむふむと訳知り顔で頷いた。

「ほう。ざんねんだが、ふむ、それでいい。おまえとともにねていいのは、おおきいおれだけだからな」
「……『大きい俺』? まさか、エディのことですの?」
「ほかにだれがいるんだ?」

まさかほかにいるのか、と、じろりと睨み上げられる。私はぶんぶんと首を左右に振った。他に誰もいるものか。
青ざめた私の顔色に納得したらしい小さいエギエディルズさんは「とうぜんだな」と満足げにその唇に弧を描いた。まあかわいらしくも美しい……と、言っている場合ではない。

「ええと、小さいエディ?」
「なんだ?」
「その……あなたは、エディからの、何と言いますか、お使いのような感じですか?」
「そうでもあるし、そうではないともいえる」

要領を得ない問いかけに対する返答は、これまた要領を得ないものだった。
この小さいエギエディルズさん、見たところ、害はなさそうである。どこからどう見てもあの男の関係者……どころか、当の本人自身疑惑すらある。だがしかし、いくら過保護であるとはいえ、仕事を放り出して私にくっついてくるとは思え……ない、とは言い切れないのだが、今回におけるあの様子を鑑みるに、その可能性は低いだろう。
となるならば、何かしらの手段を使って、この小さいエギエディルズさんを用意したのでは、と思ったのだけれど、小さいエギエディルズさん本人曰く、そういう訳でもなさそうだ。
うーん、これはどうしたものか。結局、小さいエギエディルズさんを見下ろして途方に暮れることしかできない。
そんな私を見上げて、その私の悩みの原因は、「ちょうしょくのじかんだな」と呟いた。

「ちーずくっきーがたべたい」
「……それは、お茶の時間になってからにしましょうね」
「わかった」

じゃあいくぞ、と、颯爽と……ではなく、ちまちまと小さな足を動かして屋敷の中へと向かい始めた小さいエギエディルズさんを見下ろして、またしても飛び出しかけた溜息を飲み込む。
なんかもういいや。考えても解らないならば、深く考えても仕方がない。とりあえずは、さびしく思う暇もなさそうなことを、喜んでおこうではないか。
そう自分に言い聞かせ、ちまちま歩む小さいエギエディルズさんを両手で掬い上げる。私に文字通り拾い上げられて瞳を瞬かせる小さなエギエディルズさんを肩の上に移動させると、彼は大人しくそこに腰を下ろしてくれた。

「いいながめだ」
「それはよろしゅうございました」

かくして、私と小さいエギエディルズさんの、おそらくは期間限定の暮らしが始まったのである。
そのまま、あっという間に二日が経過した。小さなエギエディルズさんは、よく食べ、よく遊び、よく眠る。
基本的に私の肩に乗って移動し、何をするにも一緒で、当初感じたはずのさびしさなんて、私はすっかり忘れてしまった。なにせ寝るときすら、枕元に置いたバスケットの中で彼は大人しく眠ってくれるので、それはもうとっても心強い。同じベッドはだめでも、バスケットの中ならば別らしい。彼なりにルールがあるのだそうだ。
そんな風にかたときも私から離れようとしないくせに、朝晩のあの男との連絡の際には、小さいエギエディルズさんなりに気を遣っているらしく、彼はすべて席を外してくれている。
せっかくだから顔合わせでもいかがですか、あなたをエディに紹介させてくださいな。
そう誘いをかけても、「だいじょうぶだ、きにするな」の一点張りなので、それ以上私も強くは言えずに今日に至る。なんとなく、小さいエギエディルズさんの存在は、本人が望まないならばあの男に伝えない方がいい気がするのは何故だろう。不思議で仕方がないのだけれど、きっとそれは正しい判断であって、だからこそあの男との通信も、我ながら驚くほどあっさりとしたものになっている。
そんなこんなであの男が不在の二日目。今朝のあの男からの通信連絡によると、一週間かかるはずの魔物討伐を既に片をつけており、当初の宣言通り、三日目である明日、王都に帰還する運びであるのだとか。
それがとても嬉しくもあり、そして、少しだけ残念でもある。

「複雑だわ」
「なにがだ?」

中庭のベンチに腰掛けて呟くと、隣の小さいエギエディルズさんが、こちらを見上げて首を傾げた。幼さを帯びたその仕草、抱きしめたくなるようなかわいさである。
ついついその頭を撫でくりまわしたくなるけれど、初日にそれをやらかしたところ「こどもあつかいするな」と大いに機嫌を損ねてしまったので、以来ぐっと我慢することにしている。

「あす、おおきいおれがかえってくるのだろう。うれしくないのか?」
「ええ、もちろんとても嬉しいですわ。でも」
「でも?」
「……あなたは、いなくなってしまうのでしょう?」
「そうだな」

いっそ残酷なほどにあっさりと、何のためらいもなく、さっぱりすっぱり、小さいエギエディルズさんは頷いた。自分の眉尻が情けなく下がるのを感じる。解っていたことだとはいえ、本人からこうもはっきりと肯定されると、忘れていたはずのさびしさとはまた別の、何とも言い難い切なさが胸を締め付ける。

「もっといてくださって構いませんのに。エディだってきっとあなたに会いたいと仰るはずですよ」
「そうか?」
「そうですとも」

深く頷いてみせれば、小さいエギエディルズさんは、惑うようにその朝焼け色の瞳をゆらりと泳がせて、それから結局、「それでもだめだ」と首を振った。
ああ、と私は落胆の溜息を吐く。まったくつれないものだ。いかにも私が残念がっていることに、小さいエギエディルズさんは聡く気付いたらしく、殊勝にもわざわざ私の方へと移動してきて、ぴとりと私の膝にその身を寄せた。
あらまあ、と、その愛らしさに顔を綻ばせれば、小さいエギエディルズさんはほったしたように小さな息を吐いて、それからすっくと立ち上がった。

「だいじょうぶだ、おおきいフィリミナ。またあえるさ」
「きっとですか? それとも、絶対に?」

意地悪な問いかけであるとは解っていた。それでも聞かずにはいられなかった。
小さいエギエディルズは、あの男とまったく同じ笑い方で笑った。

「おまえがのぞんでくれるのならば、かならず」

力強い言葉だった。何の根拠もないというのに、信じずにはいられない言葉。
こんな風に言われてしまっては、もう私には彼を引き止めることなどできはしない。

「では、もう行ってしまわれるので?」
「ああ。だが、その前に」

『その前に』、なんだと言うのだろう。それまでの穏やかな声音が嘘のような、いきなり妙にドスの効いたその声音に首を傾げる。
小さいエギエディルズさんは、そんな私の疑問に直接答えようとはせずに、代わりに、「てをだしてくれ」と私に命じた。乞われるがままに両手でお椀を作ると、彼はぴょんっと身軽に私のその両の手のひらの上へと飛び乗る。
そして小さな懐から、その空間に収まっていたとは思えないような大きさの本を取り出した。ぱたんとその本が開かれる。細かな文字がびっしりと綴るのは、旧い魔法言語である。

「おれはおれのやくめをはたそう」

そう小さいエギエディルズさんが宣言した、その瞬間だった。彼の指先から、美しい朝焼け色の雷がほとばしる。
宙を切り裂く稲光は、そのままこの中庭の片隅へと走り――――そして。

「ギャッ!?!?」
「え?」

なんとも無様な悲鳴が聞こえてきた。ぱちくりと瞬いてからそちらを改めて見つめてみれば、朝焼け色の雷に撃たれた不審者が、真っ黒こげとなって、ぶすぶすと黒煙を上げながら痙攣してその場に倒れ伏した。
……え? 待ってほしい。どういうことだ。誰だ、あれ。
頭の上に疑問符を飛ばしまくりながら手のひらを見下ろすと、その上に立つ小さいエギエディルズさんは、ミニマムサイズの魔導書を片手に、もう一方の手の人差し指でぱちぱちと光を弾きながら、ふん、と鼻を鳴らした。

「おおきいおれがこのやしきをはなれたすきにできたけっかいのあなをぬけて、おまえをねらったのだろう。まったく、ごくろうなことだ」
「あらまあ……」

まっっっったく気付かなかった。我ながら不覚である。小さいエギエディルズさんがいなければどうなっていたことか。
そう思うと、ついぶるりと身体が震えた。直にその震えを感じ取った小さいエギエディルズさんは、不審者を見ていたときの氷よりも冷たい瞳から一転した優しく穏やかな瞳で私を見上げ、どこかからかうように小さく笑う。

「あんしんしろ。ちゃんとごみはかたづけていく。たつとりあとをにごさずというだろう」

くるくるくるくる、と、小さな人差し指が宙をかき混ぜると、その周りを遊んでいた紫電が龍の姿を形作った。ロウと鳴いた朝焼け色の龍は、小さいエギエディルズさんの目配せに頷き、倒れ臥す不審者の元まで宙を滑り、その首根っこをぱくりと咥えてさらに高く飛び上がった。
あっという間にそのまま不審者は龍によって連れ去られ、残されたのは私と、手のひらの上の小さいエギエディルズさんのみである。

「さて。そろそろじかんだ」
「あら、もうですの?」
「ああ。おれはおれのフィリミナをむかえにいかなくては」

〝おれのフィリミナ〟。
その言葉を内心で繰り返すと、驚くほどすんなりと納得していく自分を感じた。
ああそうか、なるほどなるほど。小さいエギエディルズさんがいるのであれば、小さいフィリミナがいるのは道理だ。何一つ不思議なことはない。

「まあ、それではこれ以上引き止められませんね」

二日間ものあいだ、小さいエギエディルズさんを独占してしまって、小さい私には悪いことをしてしまった。
そういう気持ちを込めて呟けば、小さいエギエディルズさんは「そういうことだ」と頷いた。
うむ、そういうことなのだ。となればもう潮時である
。ベンチから立ち上がり、小さいエギエディルズさんを地面に下ろす。小さいエギエディルズさんの手に、あの男のものと同じ、身の丈はあろうかの思われる大きく立派な杖が現れる。

「じゃあな」
「ええ、ありがとうございました。小さいわたくしに、よろしくお伝えくださいまし」
「こころえた」

小さいエギエディルズさんの杖の先端の、朝焼け色の魔宝玉が大きく輝き、彼の身体を包み込む。そうして瞬きののちに、彼の姿は描き消えた。
後には何も残っていない。ただ私だけがこの場に佇むだけだ。

「――――会いたいわ」

あの男に、とても。
帰還予定の明日が待ち遠しくてならなくて、私はほんの少しのさびしさと、それ以上の期待を抱き締めて、晴れ晴れと笑ったのだった。

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