【とある数学者にとっての未解決問題2】

※このお話は、中村朱里がツイッターにて時折呟いている現パロ(仮)です。
※魔法のない現代において、エディが数学者、フィリミナが図書館司書であり、二人が幼馴染ではなく大人になってから出会ったという設定です。
※全体的にふわっとした設定なので、深く突っ込まない方向でお読みください。

***

【恋】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
恋(こい)とは、特定の相手のことを好きだと感じ、大切に思ったり、一緒にいたいと思う感情。

「…………」

携帯端末に並ぶ簡潔な言葉の羅列を、エギエディルズは眺めていた。流石ウィキペディア、なるほど大変解りやすい。恋とはつまりそういうものであるらしい。
職場である大学の研究室にて、デスクに様々な専門書やプリントアウトした論文の数々を積み上げて、あるいは広げて、すっかり散らかり切った中でただ『恋』という言葉について調べるという、なんとも言えない滑稽な自身の姿を、かつての自分が見たらなんて言うだろうか。どうせ冷笑とともに馬鹿にされるのだろう、と他人事のようにそう思う。
そうだとも。エギエディルズ・フォン・ランセントとは、そもそもそういう人間であったはずだ。
数学にしか興味がない生きた電卓、とは、誰が呼んだか。エギエディルズのことを幼少期に引き取ってくれた敬愛すべき養父母は、その呼び名を聞いた時、二人揃って腹を抱えて笑ってくれたものである。特に養母は、「電卓……! せめてAIと呼んでほしいわよね」とまったくフォローにならないフォローをしてくれたものだ。
そう、養父母にすらAI疑惑をかけられるエギエディルズが、今更、この歳になって初恋に落ち、その手に余る感情を持てあましているだなんて、一体誰が信じてくれるだろうか。
脳裏に浮かぶのは、この大学から徒歩圏内にある市立図書館で司書として働くとある女性の姿だ。つい先日、彼女の苗字が『アディナ』であると、人伝にたまたま運よく知ることができた、それ以外には何も知らない相手である。
特別美しいわけでもなく、目立つわけでもない彼女にどうして恋したのかなんて、エギエディルズが一番教えてほしかった。
「恋はするものではなくて落ちるものよ。私がエルネストに恋に落ちたみたいにね」といつだったかちっとも浮いたうわさの一つも持ち上がらないエギエディルズに、「だから焦ることはないわよ。いつかそういう相手に出会うわ」と養母は言い聞かせてくれた。
当時のエギエディルズは「別にそんな相手なんて必要ありません」と切り捨てたものだが、今はどうだ。エギエディルズを恋に叩き落してくれた彼女の微笑みを思い浮かべるだけで、どんな講義や公演、学会発表の前よりも緊張し、胸が高鳴る。「ランセント先生」と呼ばれるだけで、どんな相手に名前を呼ばれるときよりも嬉しくなるし、同時に「エギエディルズ」と呼んでほしくてたまらなくなるのだ。
これが恋というものなのか。なんて厄介極まりない問題なのか。数学の難問に出会うたび心躍らせられるものだが、あのアディナという女性を前にして突き付けれられた問題は、いっそ誰かの手を借りてでも一刻も早く解決したいと思ってしまう。

「………………解決、と、言ってもな」

俯いていたせいで下がってきた、仕事中だけかける眼鏡をそっとかけ直す。
この問題を解決するための手段は簡単だ。実にシンプルで手間のいらないたった一つの解決法がある。そう、告白すればいいのだ。あなたが好きなのだと、あなたに恋しているのだと、ただ一言そう伝えればいい。たったそれだけのことなのに、それができない自分は、こんなにも臆病者だったのか。いっそ新鮮な驚きすら覚えるといったものである。
彼女に今の状態で告白したとしても、さっくりと“お断り”されるより他がないことが解り切っている。
こう言っては何だが、エギエディルズは女性関係において不自由したことはない。何もせずとも言わずとも、異性……いいや、老若男女を問わない者達が、エギエディルズの歓心を買おうとあの手この手で近寄ってくる。それをエギエディルズが好意的に受け止めてきたかと問われればその答えはまったく正反対であるのだが、それはそれとして、周囲は基本的にエギエディルズに好意的であり、嫉妬ややっかみを向けてくる者がいたとしても、こちらの実力を見せつけてやればすごすごと引き下がってくれる。
だからこそ、と言うべきなのか、あのアディナという女性に対して、今更どう接していいものなのかが解らないのだ。彼女はエギエディルズに、はっきり言って、一切興味がない様子なのだから。
自慢ではないがエギエディルズは顔はとびきりの一級品、スタイルはモデルのようだとささやかれ、若くして有名大学の助教授の座にあり、幼少期から自身が発見し続けた数々の特許のおかげで左団扇状態である。年頃の女性にとっては魅力的に映るはずの要素を数えきれないほど有している自覚はあるのに、どれ一つとして、彼女の心には響かないようなのだ。
いつだって事務的な対応ばかりで、彼女がすすめてくれた本の感想を短く伝えるときだけ嬉しそうにしてくれる。その笑顔がまた見たくて、もっと見たくて、エギエディルズは彼女のすすめてくれた本をこっそり隠れて読み続けている。
別に隠れて読む必要なんてどこにもないのだが、その本を読んでいる間は彼女と二人きりになれるような気がして――そう、だからだ。こんな自分が存在していたことを、エギエディルズは知らなかった。知らないままの方がよかったのかもしれない。だが彼女を知らないままではいたくなかった。もっと早くに出会いたかった。
彼女と出会ってからというもの、どんどん欲深になる自分を感じる。わざわざ自分から何かを求めずとも、周囲が進んで自ら与えてくれてきた人生の中で、初めての感覚だった。
もっと彼女のことが知りたい。もっと一緒にいたい。そう、きっと、これが恋なのだ。
改めて携帯端末のウィキペディアの文字列を見返して、その画面を指先で弾いて電源を切り、目の前に何枚も重なる読みかけの論文を見下ろした。片肘をついてその紙面に目をすべらせる。
エギエディルズが目をかけている学生から提出された論文は、まだまだ稚拙ではあるが見どころがある。とはいえ甘やかす気など一切ないので、再提出だな、と結論を出し、次の論文へと移る。
自分でマグカップにたっぷり淹れたコーヒーはもうすっかり冷めていた。本当はハーブティーの方が好みなのだが、たまにはいいかと適当に妥協して淹れたせいだろう。飲む気がないのならば最初から淹れるべきではなかった。
一気にコーヒーを飲み干して、空になったマグカップをわきに追いやる。そういえば彼女は……アディナという彼女は、どうなのだろうか。
コーヒー派なのか、紅茶派なのか、それとも、と、そこまで何とはなしに思った、そのときだった。

「あの、ランセント先生!」

耳に無理矢理飛び込んできた甲高い声音に、エギエディルズはぱちりと瞳を瞬かせた。自分以外に誰もいないはずだったこの研究室に、見知らぬ女の声。それが確かに自分の名を呼んだことを確認してから、そちらを肩越しに振り返る。
気付けば背後に、大学の学生であると思われる年若い女がたたずんでいた。エギエディルズの許可なく勝手に研究室に入ってきたらしい女学生は、ばっちりかわいらしくきめたメイクがよく似合うかんばせに甘ったるい笑みを浮かべて、嬉しそうにさらにこちらに近寄ってくる。
すぅっとエギエディルズの視線が冷たくなるが、若い少女はその視線の意味に気付かず、たっぷり媚びを込めた視線をこちらへと向けてにっこりと、一般的には魅力的とされるであろう笑みを浮かべてみせた。

「あの、あたし、今日の二限の先生の講義について質問があって。何度かノックしたんですけど、気付いてないご様子だったから勝手に入っちゃいました。突然ごめんなさい」

“ごめんなさい”と口にするわりにはまったく悪びれる様子はなく、むしろ「あたしみたいなかわいい子が来てくれて嬉しいでしょ?」とでも言いたげな様子である。
しまったな、とエギエディルズは内心で舌打ちをした。いつもであれば在室中でも内鍵をかけるというのに、今日に限って忘れていた。こういう勘違いした輩が研究室に押しかけてくることは珍しくなく、だからこその内鍵なのだが、近頃すっかり色ボケ、もとい恋煩いに苦しむエギエディルズはそれをうっかり失念してしまったのだ。
らしくもない、と自身の失態に溜息を吐くエギエディルズをどう思ったのか、女学生は顔を赤らめてエギエディルズの隣に並び、断りもなくデスクの上にノートを広げる。

「ここなんですけど」
「……ああ、ここか」

椅子に座ったままのせいでこちらが動けないのをいいことに、大きく胸のひらいた服を着た女性とは、わざとらしく身を屈めて、その身体をこちらに寄せてくる。
甘ったるい香水の臭いが鼻について不快だった。こんなわざとらしい臭いよりも、図書館の紙とインクの匂いの方がもっとずっとよっぽど好ましい。比べるべくもないほどだ。
こみ上げてくる気色悪さを無理矢理飲み込んで、努めて淡々と女学生のノートに更なる数式を解説のためにかき込んで、最後に証明完了を意味するQEDを記し、ノートを閉じてそのまま女学生へと差し出す。

「以上だ。追加の例題と、その解説も書いておいたから、これで解るだろう」
「えっ、あ、は、はい」

どこまでもにべもない態度を貫き通すエギエディルズに、女学生は目論見が外されたのだろう。
ノートを受け取りつつも、まだこの立ち去りがたいのか、慌てたように研究室をばっちりとマスカラに縁どられた大きな瞳が見回して、そしてその瞳がデスクの上の空のマグカップを捕らえた。
ぱっと名案だとばかりに顔を輝かせた女学生は「あたし、お礼にコーヒー淹れます!」と言い出した。

「もともとお礼にと思って、ドリップコーヒーのパックを持ってきてるんです。ご存じですか、駅ビルにもこのあいだポップアップで出店してた……」
「必要ない。遅くなる前に帰れ」
「えっ? ランセント先生、心配してくれるんですか? わあ、やっぱりホントは優しいんですね。あ、それとも、相手があたしだから心配してくれる、とか」
「…………」

きゃー! と顔を赤らめて恥じらう女学生に、エギエディルズは心の底から辟易とした気持ちになった。
男女を問わず、こういう人種はどこにでもいるものらしい。ポジティブシンキングと言えば聞こえはいいが、その独りよがりのポジティブを押し付けられているこちらとしてはたまったものではない。いい迷惑であることこの上ない。
エギエディルズの朝焼け色の瞳ににじむ呆れに気付く様子もなく、女学生は「だったらコーヒー飲んだ後、先生、あたしのこと家まで送ってくださいよ」なんて言い出している。感心するほどポジティブシンキングである。
一応教員であるという立場の手前、溜息をかみ殺していると、女学生はさっそく手に提げていたブランド物のバッグから、ドリップコーヒーのパックを取り出した。その拍子に、一緒にバッグに入っていたらしい別の紙袋が、どさっと音を立ててデスクの上、ちょうどエギエディルズの正面に落ちてくる。
何の気もなしにその薄い紙袋の包みを手に取ったエギエディルズは、その紙袋の中心に押されているスタンプに大きく目を開くことになる。

「……アディナ古書店? 俺宛てに?」

それは、ここ最近すっかりエギエディルズの胸も頭も心も占めてならない響きと同じものだった。紙袋の中心に記されたスタンプには、『アディナ古書店』という印璽とともに、電話番号と住所が並び、その紙袋の片隅には『ランセント先生に』とメモがクリップでとめられている。
不意打ちを食らう形となって、紙袋を持ったまま固まるエギエディルズをどう思ったのか、慌てたように女学生が「そ、それはっ」と声を荒げた。

「その、それ、後で先生に渡そうと思ってたんです! ついさっきこの研究室の前に立ってる女の人がいて、あの人きっと先生のファンですよ! 先生に渡したいものがあるからって大学まで来るなんてホント非常識ですよね。だからあたしがそれを預かって……って、あの、ランセント先生? きゃっ!?」

紙袋を片手に、ガタンッと勢いよく立ち上がる。突然のエギエディルズの行動に女学生は驚いたように目を瞠るが、構うことなくそのまま研究室を後にする。
外出の際には眼鏡と白衣は身に着けないし、背後から女学生の声が追いかけてくるが、構うことはない。ばさばさと長い白衣の裾をひるがえしてただ急ぐ。
『ついさっき』、と女学生は言った。ならばまだこの紙袋を届けてくれた相手は、そう遠くに言っていないはずだ。
いつになく急いでいる様子のエギエディルズに、道中を行く学生や職員が何事かという目を向けてくるが、やはり構っている暇はない。
急げ、急げ。この機会を逃すわけにはいかないと、ほとんど本能的に図書館へと続く道を走る。
そして、日傘をさして歩く女性の隣を走りながら通り過ぎたエギエディルズの耳に、ずっと聞きたかった穏やかな声が届く。

「あら? もしかして、ランセント先生?」
「っ!?」

ダン! と荒々しく足を止める。導かれるようにして振り返ったエギエディルズは、そうして息を呑んだ。
ほんの数秒前、その隣を通り過ぎた日傘の女性が、その日傘を傾けてこちらを見つめている。いつもの飾り気のないシャツとパンツ、エプロンの姿ではなく、その年頃の女性によく似合うシンプルながらも上品なワンピースを着た女性の姿に、エギエディルズはそのまま呆然と立ち竦んだ。

「……アディナ」
「まあ、覚えていてくださったなんて光栄ですわ。こんにちは、ランセント先生」

ふわりと春風のように微笑みつつ、ぺこりと頭を下げてくるのは、エギエディルズの心のすべてを奪っていってしまった女性で間違いない。ただいつも図書館で目にする姿とは違うものだから、だからだろうか。いつも以上にやたらと心臓が高鳴っている。鼓動の音がうるさくて仕方がない。
口内がからからに乾いていくのを感じながら、ほとんど無意識に彼女の元まで引き返すと、彼女はしげしげと珍しいものを見るようにエギエディルズの姿を眺め、そんな自分に遅れて気付いたらしく、申し訳なさそうにまた頭を下げてきた。

「申し訳ございません、不躾な視線を……。ランセント先生の白衣と眼鏡のお姿なんて、まるで知らない方のようで驚いてしまいまして。ご不快に思われたらすみません」
「い、いや。仕事中はこの姿ですごしている。その、そっちこそ……」
「あ、然様ですね。ふふ、わたくしも図書館での仕事着とは別に、こういうたぐいの服が普段着ですの」
「そ、うか」

なるほど道理でいつもとは雰囲気が違うわけだ。普段図書館でしか顔を合わせることが叶わない彼女の新たな姿を知ることができて、素直に嬉しくなる自分を感じた。
飾り気のない服装もまたきっと彼女らしいのだろうけれど、今のワンピース姿も、とてもよく彼女に似合っている。ロングスカートから覗くくるぶしと、低いヒールのバレエシューズのようなパンプスになんだかどきまぎとしてしまう。
そんなこちらをどう思ったのだろうか。「あの」と、彼女はおずおずとこちらのことを見上げてきた。

「ランセント先生、お急ぎでいらっしゃるのでは? わたくしに構わず、どうぞお仕事の続きをなさってくださいまし」
「い、いいや、違う」
「え?」
「その、急いでいたのは、あなたを探していたからだ。これを、届けてくれたのだろう?」
「あ」

手に持っていた紙袋を視線の高さまで持ち上げてみせると、彼女は納得したように頷いて、「お忙しいところ申し訳ございません」とまた頭を下げてくる。
そんな真似をさせたいわけではないのに。それなのにどう言葉をかけていいものか解らずに、ただ立ち竦むことしかできない自分がこんなにも不甲斐ない。というか、そういえば。

「この届け物だが、一体何なんだ?」
「あら? まだご覧になっていらっしゃらなかったのですか?」
「……すまない」
「え、あ、そんな、謝らないでくださいませ。わたくしが勝手にお届けしたものなんですから。よければ今、ぜひ開けてみせてください」

促されるままに紙袋の封を切る。そして中身を取り出すと、出てきたのは一冊の数学にまつわる雑誌だった。数年前のものだ。その特集タイトルを見て、自然と目を見開くエギエディルズに、普段司書として働く彼女はどこか照れくさそうに笑った。

「先日、図書館においでになった際に、もう取り寄せもできない古い雑誌のバックナンバーを探していらしたでしょう? それが実家の古書店にちょうど入荷しまして。よければランセント先生にと、勝手にご用意させていただきました。図書館で私的なやりとりはできませんから、直接お届けに上がったのですが……本当に申し訳ございません、ご職場にアポもなしに押しかけるなんて、なんて失礼な真似を……。学生さんにも怒られてしまいましたわ。あのかわいらしいお嬢さんが無事に代わりに届けてくださって何よりです」

ほっと安堵したようにこちらの手にある雑誌を見つめてくる彼女の姿に、エギエディルズはぐっと胸が締め付けられるようだった。
そうだ。つい先日図書館に訪れた際の目的だった数学の雑誌のバックナンバーが、今この手にあるこれだ。
古すぎてもうどこの図書館でも取り扱いがなく、目の前の彼女に申し訳なさそうに頭を下げられたのは記憶に新しい。
それがたまたま、彼女曰くの実家である古書店に入ったから、彼女はわざわざエギエディルズの元まで届けてくれたのだという。
実家は古書店である、という彼女の新しい情報を得られたことが嬉しいし、それ以上に、てっきり仕事上の付き合いでしかない相手だと思われていたとばかり思っていたのに、それなのに彼女が日常の中で自分のことを思い出し、こうして心配りをしてくれたことがこんなにも嬉しくてならない。
気を抜けばらしくもなく笑み崩れてしまいそうになる顔をなんとか取り繕っていると、目の前の彼女は「それでは」とあっさりと頭を下げてきた。

「では、わたくしはこの辺で。お仕事頑張ってくださいね」
「ま、待ってくれ!」
「はい?」

これでも何の心残りもないとばかりにあっさりさっぱりとその場を去ろうとした彼女の手を、気付けば掴んでいた。
ぱちん、と大きく瞳を瞬かせる彼女のそのわずかな所作にどきんと大きく胸を高鳴らせつつ、エギエディルズは相変わらずからからに乾いた口をなんとか動かす。

「礼を、させてくれないか。俺の研究室で、何か飲んでいってくれ。茶菓子もごちそうする」

言えた。我ながらなんてぎこちない台詞だとは解っていたが、それでもなんとか言いたいことは言えた。
ぎゅうと彼女の手を握り込み、恐る恐る彼女の言葉をただ待つばかりのエギエディルズを、彼女は困ったように見上げてくる。
違う。困らせたいわけではない。けれどこの手を放すことができない。何もかも自分のわがままだと解っていながら、それでもなお、どうかどうか、どうしても、と、願うエギエディルズの必死の懇願は、どうやら天に、そして彼女自身に伝わったらしい。
彼女が浮かべていた社交辞令のような苦笑が、穏やかな微笑へと変わる。その変化に見惚れてしまうエギエディルズに、彼女はまた頭を下げた。

「でしたら、一杯だけ、ごちそうになってもよろしいでしょうか」
「あ、ああ! コーヒーでも、紅茶でも、その、ハーブティーでも、好きなものを選んでくれ」
「まあ、ハーブティーもあるんですね。わたくしも職場に持ち込んでいるんですよ」
「そ、そうか」
「はい。それで、その、そろそろこの手を……」

非常に言いにくそうに、申し訳なさそうに、おずおずと向けられた彼女の視線の先にあるのは、彼女の華奢な手を握り締めるエギエディルズの白い手だ。は、と、改めて自身の現状を顧みたエギエディルズは、白皙の美貌と謳われるかんばせを、やはりこれっぽっちもらしくもなく、真っ赤に染め上げた。

「すまない!」
「いいえ。わたくしこそ、お気を使わせてしまい申し訳ございませんわ。お気遣いありがとうございます」
「お、お互い様だ」
「そう仰っていただけますと幸いです」

バッと勢いよく手を放すと、彼女はいつものようにやわらかく微笑んでかぶりを振る。ばっくばっくと心臓がうるさい。彼女が不快に思っているわけではないことをその笑みから感じ取って安堵するとともに、一応いい歳をした異性に手を掴まれても照れもしない彼女に、自身が少しも意識されていないことを改めて思い知らされる。
悔しい。苦しい。自分ばかりが彼女に踊らされている。それが嫌なわけではなく、不思議と心地よい感覚すらあるのだから不思議なものだ。
恋とは『特定の相手のことを好きだと感じ、大切に思ったり、一緒にいたいと思う感情』だという。エギエディルズにとってのその“特定の相手”は間違いなく目の前の彼女で、いつか彼女にとってもその“特定の相手”が自分になればいいのに、と思わずにはいられない。
そう、いつか。いつか、いつか、と、そう願い祈りながら、エギエディルズはようやく「こっちだ」と彼女を促して一緒に歩き出す。
そうしてその日、ようやくエギエディルズは彼女のフルネームである“フィリミナ・ヴィア・アディナ”という名前を知ることがはからずも叶うのだが、このときのエギエディルズはまだそれどころではなく、ただ脳裏で円周率を数えて懸命に彼女との今後の会話をシミュレートするのに必死なばかりだったのだ。

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