母になった娘の話①
母の日に合わせてポストカードを選び、最新の息子の写真を印刷して送る。毎年恒例になったそれを、今年も行う。
今回は、亡くなった愛犬に似たポストカードがあったので、少々値は張ったが購入し、一言二言添えてつい一昨日送った。
こんな事を書くと、私と母はとても仲の良い親子に見えるだろうか。
けれど、私たちは仲の良い親子では無かった。
決して、そうでは無かった。
≪私の目に映る母≫
私の目から映る母は、世間一般で謳われる優しさや慈しみの象徴のような人ではなく、私が何をするにも否定し失敗を嗤い、家の中に留まらず外に向けても大げさに吹聴して回る人だった。
それに対し私が怒ると徹底的に叱られたので、随分と理不尽だと子供心に思っていた。
しかし、衣食住に不自由はしなかったし、それ以外は普通の親子と何ら変わりは無かった。
だから、傷ついたし悲しんだりしながらも、こんな扱いを受けるのは出来損ないの自身のせいで些細なことなのだと受け入れ、どこにでもある当たり前の事なのだと信じるようになった。
本当に信じていた。一片の疑いも無かった。
この手でわが子を抱くまでは。
生まれたての、頼りないという言葉では言い表せないぐらいふにゃふにゃとした身体を抱き、初めておっぱいをあげた時、涙が出た。
どうしてこの子に、あんなひどい言葉を投げかけることができるだろうか。冷たい仕打ちができるだろうか。
私はこの子に自身を蔑んで生きるような真似をしてほしくない。
胸を張って生きてほしい。
そう、切に願った。
≪理想の母親≫
里帰り中であるにも関わらず、母との距離は広まる一方だった。
産褥期は何もしてはいけない、と部屋の中に閉じ込められ、歩き回るのすら厳しく監視されるのは閉口した。
勿論、それは母なりの気遣いだったのだと、今は思う。
けれど、完全に母に対して猜疑心が目覚めていた私は、衣食住を依存しながらも、『私は決してこんな母親にはならない』と心の中で誓い、反面教師にしようと毎日敵意を滾らせていた。
そんな訳で、里帰りを終えてからの生活は、まさしく孤軍奮闘という言葉がぴったりの日々になった。
夫は土日も仕事で、越してきたばかりで知人もいない。
病院すら何処にあるか分からない。
保健所から配布される資料を噛り付くように見、ネットでの調べ物は欠かさない。
勿論、子供の様子には一部の隙も無いぐらい神経を尖らせた。
決して母のようにはならない。なりたくない。
せめて私はこの子にとって優しさと慈しみに満ちた良い母親であろう。
そう思っていた。
この頃の私の思い描いた『良い母親』とは何だったのだろうか。
振り返って見れば、それは、かつてテレビで、本で、映画で見たそれぞれの良いところをかき集めたモザイク画のようなものだったと思う。
歪で、しかしとても美しい理想的な母親。
まるで、サン・ヴィターレ聖堂のモザイク画のように、1つ1つ光り輝く壮大で美しい彼女には、かつて私が母に求めていた物が、全て詰まっていた。
しかし、モザイク画の美しい母親像は、孤立と劣等感を私に与えた。
何せ彼女は理想の塊なので、疲れを知らず、社交的で、常に笑顔と慈しみがあった。
本来の私は人見知り出不精ですぐに怠けてしまう。
全く以て程遠い。
追い求めても追い求めても、決して埋まることのない彼女と私との距離に、私は疲弊し、子供に向ける感情すら分からなくなるほどすり減った。
ただ機械的に子供と接し、過ごす日々に、私は絶望した。
(私も、母のようになるかもしれない)
ぼんやりと、息子の頬に生えた産毛が柔らかな日差しを受けて光るのを、暗い気持ちで眺める。
穴の開いた船に乗り、ゆっくりゆっくりと、海底に沈んでいるような日々だった。
母のようにはならないと決めてやってきた事なのに、母のようになる未来が私に待っている。
理想と現実とがせめぎあい、ギリギリと追い込まれる。
このまま行っていたら、私と息子はどうなっていただろう。
想像するだけでおぞましい。
だが、ほんの些細なきっかけで、私は美しい彼女を追うのを止めることができたのだった。
≪続く≫