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柴犬の仲間

夏が終わっていく。

季節は私たちの「まだ遊びたい」という気持ちを無視するかのように、あっという間に空の色を替えていく。

秋の空は好きだ。
凛としているし、発色が良いからそう思うだけだが、私は夏よりも前向きな印象があるので好きだ。

秋になると、必ずと言っていいほど前の恋人を思い出す。
結局、遠距離に負けて別れてしまった彼だ。
東京と静岡という、地球規模で見たら全然近距離の200kmに勝てず、私達は別れてしまった。
別れたのは10月20日、一昨年になる。

手帳を見返すのは私の趣味の1つだが、去年の今頃も同じように振り返っていて、我ながらやることが変わってなくて、笑える。

遠距離恋愛で良く揉める問題の一つとして、どっちに行くかというものがある。
私達は、別れ際、次はどっちがどっちに行くか、じゃんけんをして勝ったほうが次回、負けたほうに訪問するという方式を取っていた。
私が住む東京は歩くことが多かったので、車がメインで暮らす彼にとってはとても辛かったのを思い出す。
私は浅草に住んでいたので(街の活気が好きだった)、よく上野、浅草橋、そして錦糸町くらいまでは歩きたかったのに、彼が文句を言わずに着いてきてくれるのは蔵前、というか田原町にあるペリカンというパン屋くらいだった。
私は、朝食にペリカンが無いと始まらないタチだったので、それが私の生命線であるというのを彼は理解してくれていたのだろう、そこだけは良く一緒に行ってくれていたのだが、他の行き先にはブツブツ言いながら付き合ってくれていた。
ペリカンの食パンは、おそらく私の身体の一部だと認識してくれていたのだろう。少しだけ優しさを感じる。
とは言え私のアパートからは大きな信号を挟んで1つ目のブロック、わずか500mくらいのものだろう。
歩くのは一瞬だった。

ペリカンの食パンはパンの味しかしないから好きだ。

たまに会う柴犬が好きで、主人はたいてい中でパンを買っていて、あまり長い時間いることはないのだが、たまに会えるととても嬉しい気分になった。レア感というか。
柴犬は私を仲間か何か近い存在と思っている節があり、私に対しては尻尾を振りながら近寄ってきていた。
同じタイミングで近づいたオバさんにはウーウーと唸っていて、それを見た彼は、私が犬に好かれる匂いを醸し出しているんだろ、と言っていた。
柴犬は赤い首輪をしていて、赤いフレームの眼鏡をその頃にかけていたので、そのせいかなと話したら犬は白黒の世界しか見えないからそれは違うよね、と一蹴されてしまった。
確かにそうだ。
一つ言えるのは、柴犬はきっと私の色をちゃんと分かっていて、少なくともそれが彼(彼女かもしれない)の目には見えていたんだろう、ということだ。私は持論を捨てることはできなかった。今更、この持論を覆す人はいなくなってしまったので、もうこれはこのままで良いと思う。
彼と別れてからも私は足繁くペリカンへ通っていたが、彼と別れてからはその柴犬に会うことはなかった。
気のせいかと思うけれど、なんとなくドラマ的な印象もあり、私は悲劇のヒロインなんだ、と少女漫画よろしく考える事にした。どうでも良い話ではあるが。

彼との思い出は様々だ。

彼の家、静岡での思い出はだいたい車でドライブしていることばかりだった。あまり家にはいたくない人だった。
大きなダムを見に行ったり、砂丘を見たり。砂丘なんて鳥取にしかないと思っていたので、実際静岡にもあるんだよと聞いた時はそれこそ生まれて初めて聞いた話だったし、どうせ大したことないんでしょ、と思っていたけれど、実際は大きくて驚いた。
その後にうなぎを食べて終わり、というドライブだった。
どこまでも続く砂の丘、あの景色は忘れないだろう。うなぎの味も合わせて覚えておくべきだったが、当時も今も私の舌はそんな繊細にできておらず、残念ながらうなぎの味は早々に忘れてしまっていた。
彼はいつも鼻声だった。
私と会うと鼻声になる、と彼は言っていた。
どうも「都会の空気」に敏感なようで、静岡に来る時は君が都会の空気を持ってくるからだし、東京に行ったら行ったで都会の空気を吸うことになるから、いずれにしても俺の鼻が変な感じになるんだよ、と言っていた。風邪をひいた感じなんだよね、と言っていて、しかし風邪はひいておらず、本当に彼は「都会の空気」に馴染めない人なんだろう、と思う。

はじめは大した事のないような気分で話を流していたけれど、それが別れる原因になるとは思いもよらなかった。
彼は私との遠距離恋愛に終止符を打つべく、静岡に来ないか、一緒に暮らそうよこっちで、と私を誘った。
私は、もう少し東京にいたい、とやんわりと断ったのだけど、彼は待てなかった。
それから急に、お互い行きづらくなり、私はもうその頃には関係を続けるのが億劫で、考えるのも嫌になり、おそらく彼も同様の気分だったのだと思うが、どちらからともなく別れを切り出した。
とてもさらっとした別れだった。

あの時、私はついて行けば良かったのだろうか。

彼のことは好きだったし、お互いもう20代後半で、だんだん結婚を考える年頃になってきたし、なんかそう考えると「行き遅れた」なぁ、と思う。
あの頃は静岡がつまらなくてまだ東京にいたい、と思ってしまったのだ。東京なんて、別に面白くもなかったのではあるけれど。
「思ってしまった」と書くと、まるで私が後悔しているように思えるが、まだ私にはそう認められるほどの余裕がなかった。
余裕とは少し違うかもしれないけれど、物理的な距離は遠かったかもしれないが、少なくとも今よりは精神的に近い距離にいたんだと思う。彼とはつながっていたから。同じ方向を向いているというか。遠くにいたとしても、私を好きでいてくれるというある種の承認欲求のようなものがあるだけで、私は幸せでいられた。
その幸せを、あの頃の私は軽視してしまっていたのだ。とても残念だ。後悔だ、やっぱり後悔している。

こんなジメジメした気分じゃダメだ、と私はふらっと冷蔵庫に入っているところてんを食べようとした。

彼と別れてからというものの歩くことや軽い運動へのモチベーションが下がってしまい、私は太ってしまった。

ギリギリのラインで保てているのは、幸か不幸か食欲も落ちているからだ。

前を向こうとする気持ちがいつどんなタイミングで湧いてくるのか定かではなかったが、私は私の後悔を認めようと想った。ところてんを食べながら。
自分を受け入れるのって勇気がいる。結局自分を可愛がらないと、ダメなんだ。誰も振り向いてくれないんだ。恋愛なんてまだしばらく無理だな、少し自分の気持ちを立て直さないと。とぼんやり考えた。ところてんを食べながら。

そんなことを考えていると、ふと散歩がしたくなってきた。少し運動もしないと、と思いペリカンの方まで歩くことにした。

あの頃履いていたオールスターは気分転換という名目で捨ててしまい、私は今スタンスミスを履いている。
彼が履いていたというのに気づくまで結構時間がかかった。
オールスターを捨て、スタンスミスを買った後に彼との写真を見返していた時に気づいたのだ。
遅かった。スタンスミスを買う前に気づけば良かった。

ペリカンは夜だから閉店していて、もう23時を回っているし、もちろん、あの柴犬もいなかった。

途中、居酒屋から親密そうな面持ちで出てくるカップルがいた。
彼らは居酒屋の前で別れ、それじゃまた、とやけに余所余所しそうな雰囲気を醸し出していた。もっと親密そうな、と思ったのはなぜだろう、もしかして居酒屋の中でだけ、そんな雰囲気を出していたのかもしれない。いろんな付き合い方があるよね、と一人で納得した。

空は澄んでいた。
月は半月よりも少し欠けていて、少し頼りなさげではあったが、それでも澄んだ空のせいかとても鮮やかに輝いているように見えた。これから冬になっていくにつれ、月の存在感はもっと大きくなっていくだろう。

もう1度、彼に連絡してみる?月が私に問いかける。
もうそんな女々しいことは出来ないし、と私は考える。
犬に好かれる人に悪い人はいないでしょ?彼はあなたのそんなところに惹かれていたはずよ。月は私の背中を押す。そんなに押さないで、私、迷ってしまう。
素直に頷けない。月が私の背中を押す代わりに、私の気持ちがどんどん沈んでいった。
結局、モヤモヤした気分のまま家に戻ってきた。
こんなことなら散歩なんてするんじゃなかった。その夜はあまり眠れなかった。

秋になり、職場で小さな部署変更があった。私は派遣社員だし、部署を異動するようなことは無かったのだが、大きなニュースがあった。
派遣の終了が通達されてしまったのだ。しかも来月末、あっという間だ。
私は新たに職場を探さないといけなくなってしまった。貯金を切り崩しながら生活したとしても、どんなに頑張っても2ヶ月が限界だろう。

人生のターニングポイントは、思いもよらないタイミングでやってくるよね、と思ってしまった。

派遣元に次の仕事を探して下さい、と話を聞こうとするが、残念ながら今のところ良い感じのものはなさそうです、と拙い回答が返ってきた。本当に拙い、けど派遣社員なんてそんなもんなんだよなー、分かってたけどさ、と心の中で納得していた。
申し訳ないんだけど、ご自身で探してもらったほうが良いかもしれない、と、私は見放されてしまった。

背に腹は代えられない、と腹を括り、自分で探そうと動き出した矢先、
ペリカンがカフェをオープンします。従業員を募集します。連絡先は以下まで、
という貼り紙がペリカンの店先に貼ってあるのを見つけてしまった。
私はその場で、その連絡先に電話をかけた。

はい、今、ペリカンの前にいて、電話をしています。なるべく多く働きたいと思っています。ペリカンの近くに住んでいますので、交通費はいりません。
今働いていますが、なるべくこちらの始まるタイミングに合わせられるように調整したいと思います。と言った旨の連絡をしたところ、それじゃ一度お会いしましょう、というので、
私は「今からでも良いです」と告げ、カフェの店長になる人と話した。
ほぼ雑談しかしていなかったが、私はペリカンのパンが大好きなことと、今働いている派遣先が来月で終わってしまうこと、早めに働き始めたいということを告げると、ペリカンのことを良く知っているので採用です。一緒に働いていきましょう。
ひとつだけ気をつけていただきたいのが、ペリカンは最早ひとつのブランドになっています。
本当は下町の小さなパン屋というイメージをそのまま続けたいのですけど、もうこの勢いは止めることはできません。なので私は、ペリカンというブランドを大事にしつつ、この界隈を代表するパン屋が営む立派なカフェを作りたいと思っています。賛同してもらえますか?
と、なかなか熱い思いを込めて熱弁されたので、私は、は、はい、ぜひ一緒にこのブランドを大切に育てていきたいと思います、と心にも無いことを言ってしまった。

いや、心にはあるのだけど、私は生活するためにお金が欲しかったし、たまたまペリカンが募集してたから飛びついただけだし、といろいろ考えてしまったが、いずれにしても、まぁ採用ということなので一安心だ。

勤務先に次が決まったので早めに切り上げたい旨を伝えた。抵抗されるかなと思ったが意外に早く終わって貰った方が実は嬉しいという返事があり、今月末で派遣先から切り上げることになった。
こじれなくて良かった、私は余計なところで無駄な心配をし不安を抱えなくて良いことがわかり、本当に良かったと思った。彼と別れてからあまりいいことがなかっただけに、太ったりもしてたし、このトントン拍子感はとても嬉しかった。
派遣会社に次の仕事は自分で見つけたことを伝えると、それじゃ今の仕事、早くやめますか?実は派遣先から、早く辞められませんか?と聞かれていて。給料はきちんと1ヶ月分出しますが、早く辞めてもらう分には構わないそうです。
そんなに大したことないとは思っていなかったけど、私は驚いた。せめて今月いっぱいくらいまでは働けると思っていたから。
まぁでもしょうがない、ちょうどペリカンの主人は早くから準備したいって言っていたし、もしかしたら早く入る事、嬉しいかもしれない。
主人に電話をしてみると忙しそうで、手短にお願いできる?と聞かれたので私は明後日から入れる旨を伝えた。すると主人はやはり嬉しそうで、それはありがたい、それじゃ明後日、7時に来てくれる?覚えることがたくさんありますからね、と電話の向こうで喋っていた。
私はワクワクした。11月はあと8回職場へ行けば終わりだった。
私が今月で終わりということを伝えると、少しだけ近い人たちが寂しがってくれた。あまり一緒に仕事をすることはなかったが、たまにお昼ご飯を食べたり、ごくごくたまに夜、飲みに行ったりしていた人たちだ。
きっと彼らは私がいなくなってからちょっと経てば、忘れてしまうんだろう。寂しいけど、派遣社員なんてそんなもんだ。今までいくつかの職場へ派遣社員として働いたことがあるが、終わる瞬間だけ寂しくなるのだ。だけど翌日からはそんな寂しさなんて忘れてしまって、次のことを考えなければいけなくなるのだ。後ろばっかり振り返ってもいられないしね、と自分は自分を納得させるようにしている。
今回の職場は優しい人が多かったなぁ、と思う。人間関係で悩んだこともあるけれど、企業文化の一つなのだろう、周りを気遣う人が多かった。全般的に、仕事はやりやすかったと思う。

ペリカンでの仕事が始まった。私はホールの係になった。やることはだいたいイメージできていた。お客さんを案内し、注文を取り、料理を出し、食べ終われば会計、テーブルをきれいにし次のお客さんを入れる。とてもシンプルだ。

一点、オーナーから注意事項があり、それはペリカンの名前を汚さないようにして欲しい、とのことだった。ブランドだから、という言葉が重たいように感じたが、てきぱきと働くことでお客さんに清潔感を与えることができるし、嫌な思いをさせないような行動が、結果的にそのブランド維持に繋がるんだろうと思った。
11月になり、お店が開店すると多くのお客さんが来るようになった。オーナーの言うとおりペリカンのファンばかりなのだろう、みんなお店でペリカンのパンを食べられることに喜びを感じているような気がした。お店の開店と同時にテーブルはお客さんでいっぱいになり、それは閉店の頃まで続いた。余計なことを考える暇もなく、私はやるべきことをなるべくてきぱきとこなすように心がけた。ホール係は私とマホちゃんの2人で回すことが多かった。他にも数名のホール係がいたが、コンビでお店に入るような体制になり、それはオーナーが息を合わせるために必要でしょう、ということで決まったのだが、そんな訳でマホちゃんとはとても良い関係を築くことができているように思う。

あっという間に1ヶ月が経ち、マホちゃんとのコンビネーションに磨きがかかり、相変わらずお客さんは行列を作り、そして年末を迎えた。私は彼を別れてから何の予定もなく、仕事が楽しいから年末年始はどこかへ行きたいといった想いもなく、オーナーと話し最大限にペリカンカフェで働くことにした。

オーナーの想いは相変わらず熱い。私はそれに感化され始めていて、一緒にこのペリカンというブランドを守り、強くしていきたいと思うようになってきた。
そのためにはマホちゃんの、ちょっとだけルーズな性格も直してもらいたいし、とかその辺まで考えると、店先を綺麗にしなきゃだとか、いろんなところを気にしないといけないんだな、って思うようになった。
マホちゃんは24歳で、女子だけしかいない学校で小学校から育ってきた。
少しだけ雑なところがあり、それはマホちゃんが持っている魅力のうちのひとつだったりもするのだが、ペリカンカフェを運営するに当たってはもうちょっとだけきちんとしないといけない部分だったりする。
その、「きちんと」と言うのは個人差があるので、都度是正しないとちゃんとできないと個人的には思っているのだ。

ただマホちゃんは察しが良いところがあるため、きっと女子の中で揉まれたからだろう、私にはそんな才能を全く持ち合わせていないのだが、その察しの良さにより、お店もだいぶきちんと回るようになってきていた。
かく言う私もお客さんを前にした仕事ってしたことがなかったので、最初は散々だった。
オーダーを取り間違えるし、違うテーブルに出しちゃうし、まぁ、そんな感じで大変だった。
しかしだんだん時間が経つにつれ、オーナーからの教育の成果もあり、私はホールを代表するバイトにまで登り詰めた。登るといっても全部で5人くらいしかいないグループではあるけれど。
カフェは時々取材を受けることがあった。浅草を散歩するという企画だったり、都内のパンを特集するものだったり、オープンしたばかりで目新しいということもあり、取材の依頼は多かった。私はバイトという立場ではあるものの、ホールを代表する店員として登場することがあった。オーナーの隣で、オーナーの熱い想いに共鳴しつつ、大切なお客様の貴重な時間を、できる限りのおもてなしで過ごしてもらおうと思っています、といったニュアンスで答えることが多かった。多分正解なんだと思う。
お客さんの中には、私が雑誌に載っていることを知っている人もいて、あからさまに雑誌に載ったことをどう思うかなど聞いたり、または雑誌に載っているのを見て会いに来ましたという40代くらいの男性もいたりして、様々な人が来るなぁ、と思うようになった。取材を受けること自体は良いのだが、そういう副次的なものがもたらされるとは考えていなかった。

派遣先の人が来た時は驚いた。
まぁ、雑誌に載っていればいつかバレると思っていたが、その機会は思ったよりも早く訪れた。
私がこんなにテキパキと動けることにとても驚いていた。
私だってやる時はやるんだ。いつもボケボケしている訳ではなかったのだが、派遣先ではそう見られていたのかー、と少しがっかりした。
派遣先では部長の予定確認とか、経費申請とか、もろもろ庶務的なところを担当していたが日付や数を良く間違えるし、そこは私の苦手なところだった、はずだった。

だがここで働くようになってから、それは慣れとか、訓練するようになれば変わるということを知った。私、数字、もう苦手じゃない、と意識することも大切だと思った。

お客さんを前にすると不安そうな表情をしたらそれがお客さんに伝わってしまうし、それではせっかくの楽しい時間を奪ってしまうことにもなりかねないので、できる限り心地よく過ごしてもらうための一環で、私の態度も関係しているのだと思っている。
あとは人間関係も大切だと思った。信頼し合うというか。人には得手不得手があるので、無理してそこをやってもらうのは周りを不幸せにすることがわかった。マホちゃんはレジ操作が苦手だ、ルーズな性格も関係しているのだけど。いつまで経っても手順が覚えられず、最初は私ばかりやっていてイライラしたけれど、マホちゃんはお客さんの気持ちを察する担当、私は全体のコントロールと、レジを担当するようになった。

特筆するような事もなく時が過ぎ、年が明け、春になった頃、突然、事態が急変した。
あまり驚くことはない日々を送っていたが、久しぶりに仰天するようなことが起きた。

2年前に別れた元彼が店に訪ねて来たのだ。

マホちゃんは相変わらずレジに入らず、私はアツい想いを持ちながら働き、雑話に登場したりしていたのだが、そこで見つかった。
見つかったって書くと聞こえが悪いけど、別に、そういうわけではないのだ。

気づいたのは柴犬の飼い主だった。
あれ、シズさんの彼氏じゃないの?昔よくペリカンに買いに来てたよね?外に並んでるけど。

またまたー。というかだいぶ前に別れてますけどね私。あの人、東京に住んでないしー、、と外を見たら、彼が行列に並んでいた。

私と目が合うと、少しだけ微笑んだ。

髪が少しだけ薄くなったものの、それ以外はあの頃のままだった。

彼は次の次くらいの順番で並んでいた。

私は、来ないでほしい来ないでほしい、急に何を話したらいいか分からないし、来るなら来るで連絡してほしい、今日は髪も適当なバレッタで留めてるだけなんだし、と、考え出したら、マホちゃんが気づいてくれた。

シズさんの元彼?!
分かりました、私、やりますね。そんな急に、会いたくないですもんね。

マホちゃん、ナイスすぎる。
助かった〜、と思っていたところに2組のお客さんが帰り仕度をしたので私はレジに移った。
2組目は常連のお嬢さんで、ヨガのインストラクターをしているそうだ。最近この辺に引っ越してきたと言っていたが、なんでもペリカンのパンが好きで、仕事前にカフェ巡りをするのが趣味だと言っていた。私は今度彼女のクラスに行ってみたいと話したのを覚えてくれていて、その話をしている間にマホちゃんがテーブルを片付け、元彼をテーブルまでエスコートしてくれた。至近距離になった時、彼は私の方を見たが私はインストラクターさんと話をしていたので、気づいたけど気づかないふりをしていた。

というものの、やはりその時は来た。
彼が頼んだピザトーストとスープが出来上がったものの、マホちゃんの手が塞がっていて、私が対応する雰囲気になってしまった。

しょうがない。
こんなところで悩んでも、何も始まらない。

久しぶり、急にどうしたの?
珍しく東京に出張してきてさ、この間雑誌見てたらペリカンの特集を見て、シズの写真が載ってたから、びっくりした。で、来てみた。
すごいね、よく見つけたね。
すごいのはシズの方だよ。こんなにテキパキ動けるなんてね。なんか別人みたいだね。

大きなお世話だ。
だけど彼と話しているうちに、彼と付き合っていた頃を思い出してしまった。
シズって呼び方、されてたなー、とか、私に対してあまり躊躇せずに喋ってたよなー、とか、
なんか、居心地良かったよなーやっぱり、とか。

帰り、レジの時にもう一度話す機会があったものの、レジで他のお客さんも並んでいたので、たいした話はしなかった。今日の夕方に帰ること、また今度出張に来た時はご飯でも食べよう、と言われたこと、くらいだ。

私はボーッとしてしまい、次のレジ待ちをしたお客さんに不憫な顔をされ、あ、ごめんなさいと謝った。

なんだろう、もう数年前に別れたばかりなのに、帰宅してからボーッとしてしまった。いきなり来るんだもんな。心の準備とか、できてないよ。なにを話していいか、全く分からなかった。

iPadから、彼と付き合ってた頃の写真を見つけ、しばらく眺めていた。
ベッドに横になり、ロクに夕飯も摂らず、数時間が経ってしまった。

いや、もう好きではないんだ。やめよう、考えるの。

冷蔵庫には季節外れのところてんが入っていた。
去年の夏、気まぐれに買ったものだ。私はそれを食べずに捨てた。ごめんなさいところてんを作った人。

翌日、ペリカンカフェでマホちゃんから、昨日の話を聞かれた。あの後何かなかったのか、など。
私は、連絡すらしてません、なにしろ数年前に別れた人ですしそこから多分一度も連絡してませんので。昨日はたまたま東京に出張してきて、たまたま私がここで働いていることを知っていたから、会いに来たんだって。それだけ。話に尾ひれとか、付けてないからね、と締め、店の準備に取り掛かった。

仕事に没頭することで、そういう、あまり、良いなぁと思わない気持ちって消えるというか薄らいでいくものなんだと分かった。

多分、考えないことでその人を忘れていくのだと思うけど、それがいわゆる「時間が解決する」ことのような気がする。
あれ以来、マホちゃんに言った通り元彼とはほとんど連絡を取らず、ここまでやってきたんだと思う。

一度、Facebookの友達かも?に出てきたことがあり、共通の友達がいると出てくることがあるそうだけど、それが当てずっぽうのように感じず、私は怖くなってFacebookをやめた。
なぜそこまで、私が毛嫌いするか分からない。
だけど、彼とは別れても友達にはなり得ないと私は思っている。

カフェがランチの繁忙期を過ぎ、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した頃、また彼が顔を出した。
今度はオーナーに話をし、私を外に連れ出したいと要望したようだ。
ちょうどお昼休憩を取ろうとしていた時だったので、オーナーは私に目配せをした。
私は首を振った。それをチラッと見たオーナーは、まだ仕事中ですので、と彼からの要望を断った。
彼は仕方なく諦め、店を後にしようとした。

私は、なぜ彼を追いかけたのか、分からなかった。
その時はなにも考えていなかったんだが、多分、

彼の背中が寂しそうに見えたのと、
彼の腕にもう一度包まれたいと思ったからだった。

ちょっと、なに、なんなの急に、

彼は戸惑いつつ、私のことをきちんと抱きしめてくれた。

本当はもう好きじゃないんだけどさ、私、あの柴犬の仲間だからさ、私のことを好きになってくれている人には従順になってしまうのかもしれない。

うん、本当は、会いたくなかったの、私、もしかしたら好きかも、と思う気持ちに気付いてしまうかもしれないから。

だけど、やっぱり好きだったんだと思う。仕事とかあったからだいぶ忘れていたけど、多分、忘れてなかったんだと思う。人間って不思議だよね。言葉にしてなくてもこういうのって無意識に考えたりしてるんだねきっと。

気持ち悪い、もう30だよ私、なんでこんな純愛ぶってんの、10代じゃないんだからそんな受け入れられないって。

彼に抱かれながら、いろんなことを考えていたけど、

実は出張なんて嘘でさ、雑誌で君の顔を見てたら会いたくなってしまって、連絡せずに来てみたんだ。
迷惑だったよね、ごめん。
もう、新幹線の時間だから、俺、行かないと。

だめ、行かないで、私は彼をギュッと強く抱きしめた。
なんだろう、泣けてくる。
まだ仕事中だった。

店の前で、こんなことしてたらダメだ、戻らないと、と我に返った。
幸いなことに店はあまりお客さんがおらず、オーナーがペリカンに行っていて、マホちゃんだけが状況を知っていた。

しずさん、今日はもう帰っちゃってくださいよ。私、レジできるし。オーナーには急に体調が悪くてなったって言っておきますから。大丈夫ですよ。
その代わり今度、シフト代わってくださいね。夏、彼と旅行に行きたくて〜。
と素晴らしいフォローをしてくる。
マホちゃん、ありがと、きっと君は良い奥さんになるよ。

私はエプロンを脱ぎ、汗臭い身体だったけど店を後にした。

彼は少し離れたところで待っていて、私を見つけると立ち上がった。
背中には1泊分の着替えが入ったリュックがあり、本当にこの人は私に会うためにこっちに来たのかと思った時、また少しだけ泣けてきた。

柴犬って、自分と同じ仲間だって分かった時にはその人とずーっと仲良くなろうと思うんだって。帰属意識というか。
多分、あなたも柴犬の仲間なんだと思う。
私ね、ずっと忘れてたのあなたのこと、けど、昨日、久しぶりに見た時から、なんか同じ仲間だっていうのを感じたんだよね。
多分、あなたも同じようなことを思っていらんじゃないかな、と思う。
違う?

彼は少し照れる。

終わり。


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