瓜生崇師の宗教論理の危うさ

 瓜生師は私による教義批判を受けたあと、「強い信仰」というタイトルの文章をブログに書いている。そこで彼は宗教についてこのように語っている。

「長く宗教をやってきて、信仰を武器に人が人を叩くのを数限りなく見てきた。この教えでなければ救われないという思いが、ときに人を残酷にさせる。あらゆる戦争の中で宗教戦争がひときわ凄惨なものになるのはこのためだ。十字軍でイスラム教徒を殺せと叫ぶ人は、一方で誰よりも経験なクリスチャンなのである。」

 というように宗教における信仰の絶対性のおそろしさ、残酷性を強調する。絶対性・超越性というのは宗教においてかかせないものであり、それが瓜生師のいうように自分の信仰と違うものの生命を奪うということにつながることもあった。しかし、絶対的信仰を持ったイエスは非暴力的であったし、また信仰が戦争反対や生命の尊厳を守る運動において、個をこえて多くの衆生のために尽くす力ともなってきたのも事実である。宗教者が自分が批判されている時に、このように絶対的な信仰の危険性を強調するのはいかがなものであろうか。狂信者はおそろしいという印象をつけたいのだろうか。

 瓜生師自身は僧侶でありインターネット対策に携わっておられたので、私の批判をよめば教義的な面における批判であって、人格攻撃や誹謗中傷ではないことはわかっておられるはずである。しかし、瓜生師によくない感情を持っている人が、私のことばを利用して、瓜生師の人格攻撃などにつかうことはネットの性質上おさえることができないことであり、そのことは瓜生師ほどの人ならよくわかっているはずである。それを批判と人格攻撃をあえて混同させるように誘導し強い信仰の危険性を強調して悪い印象を与えるというのはいかがなものであろうか。本当に宗教者なのであろうか。

 確かに世界史においては絶対的な信仰が戦争や虐殺の原因になってきたことは間違いない。しかし、日本においてはキリスト教、日蓮宗、浄土真宗と絶対的な信仰をもつものは弾圧され迫害されることの方が多かったのである。また、これから増えてくるであろうキリスト教やイスラム教を信じる外国の方への偏見を助長することにもなるであろう。日本においては信仰の絶対性よりも、共同体や世間にさからうことができないという集団心理によって多くの罪悪が行われてきたのではなかったか。戦後の多くの教団は社会を超えて批判原理とならなかった自身の信仰の超越性の欠如を反省してきたのであった。

 そして瓜生師の論理で決定的に危険なのは絶対的な信仰を個人に持たせないために、宗教的な絶対性を用いることである。瓜生師の法話においては宗教は救うものと救われるものを宗教が作ってきたと、人間同士の上下関係に矮小化される。かれの語る超越はまったく差別のない溶け合う世界とされる。その溶け合う世界からの喚び声が南無阿弥陀仏の名号である。このどんなものも差別しない南無阿弥陀仏が届いているのに、それを用いて救うものと救われるものの差別をつくっていくのはいけないと彼はいうのである。
「強い信仰とは本来厄介なものである。固いものはガラスのように割れやすい。なので信仰という城壁を築き、その外にいる人間を見下し、異なる信仰を攻撃し、同じ信仰を共有する仲間たちで頷き合って、共同幻想の中で信仰を守ろうとする。それが一居心地がいいのだ。」

 この論理で、私は救われた、私は信心を得た、絶対的な信仰を得たという人を否定するのである。瓜生師は人間は絶対疑いから離れることはできないと説く。疑いしかない人が、なぜ溶けあう世界と名号が信じられ、それが絶対化するのかが疑問である。そしてその論理で、信仰の危険性を指摘し、人を裁いていく、そんなことが許されるのだろうか。

 私は「疑心往生とは?」という動画の中で親鸞聖人が絶対的な信仰をもって生きられた方であることを説明した。親鸞教義は廃立を先とするといわれ、絶対信を確立するために、他の教えを廃捨していく。聖道門を捨て、浄土門内の念仏以外の善行を捨てる。そして自力のはからいを捨て他力信心を確立する。しかし、聖道門を滅ぼそうとか、それを行ずる人を殺すとかという教えではない。自分と違う信仰の人も異なることを嘆き呼びかけていく。
疑う人に対して批判したり、誡めたりするが、それは過去に疑ってきた自分のすがたである。ただ、呼びかけるだけである。この弥陀法の立場に親鸞はたち、当時の社会、仏教界を批判し、そして自分自身の虚仮不実さを告白していく。如来の絶対性に対してまったくごまかしがないのである。偏頗である、かたよっているという批判をうけつつ、親鸞聖人はたくましく生きられ、弥陀法の立場から信を勧め、疑いを誡め人々に呼びかけるということをつらぬかれたのである。法に背くものは自身の子どもであっても批判し、義絶されたのである。

 この親鸞の態度を思慕するはずの真宗僧侶が、自己に対する批判者の信仰の絶対性を危険視し強調するようなことをしていいのだろうか。救われた、信心をえたという人すべてが瓜生師のいうような疑城胎宮におちいっている人たちなのであろうか。相手の意見を確かめもせず、総論でこのようなことをいうことはきわめて危険なきめつけであるといえよう。

 瓜生師はSNS上で自分と意見があわない人や自分の批判者をブロックしたり、距離を置いたりして発言したり、批判したりできないようにした上で、相手を批判することが多い。かくいう私も、そのようにされた一人である。
瓜生師の方から距離を置きたいというメッセージがあって(スクリーンショットの証拠が残っている)、ブロックされたわけだが、今回批判をうけた時に、私にブロックされていて読めないなどと虚偽の発言をした。そして、その間違いを批判すると、私への応答の文章に小さくブロックされた事実はないなどと書く。彼のSNSでは彼を否定したり、批判したりする人はのぞかれているので、賛同者しかいないように見えるわけである。どちらが疑城胎宮なのであろうか。

 私もなりすまし被害を報告したが、瓜生師を批判した多くの人から同じような経験をしたという報告を聞いている。本人は関与せず、信奉者の方がされているのか、確認するすべはないが、私への書き込みの中に、きわめて上記の瓜生師の意見に近い発言があった。諸氏におかれてはネットの扇動にまどわされることなく、両者の意見を冷静に判断されることをのぞむ。

  「岡林さんの言われる本願寺派の教学の危機というのは、ご自身の信心
の危機なのだろうと思います」


 


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