カルト教祖と善知識の違い

 何度も言及しているが、カルト問題に取り組む大谷派僧侶某師はカルト的教祖を嫌がるあまり、善知識を毛嫌いし、迷ってる者同士が共に目覚める仏法などと説いている。釈尊が弟子の阿難に目覚めさせられるなどと説いているが、そんなことはありえない。釈尊は絶対的な善知識である。阿弥陀如来の本願は仏々相念の世界で、釈尊でなければ知ることも説くこともできないのである。そして、その教えの肝要を時機に応じて説き述べて下さった七祖・宗祖いまさずは、この私が迷いを出離し、浄土へ往生することはできないのである。

 釈尊・宗祖は教えの上では絶対であるがそれは信の上のことで、疑うことも誹謗することも許容しておられ、それどころかそれを縁として何とか真実に引き入れたいと願っておられる。そこが、カルトの教祖とは違うのである。命がけで活動せよと財産を布施せよとかビデオを売れとかは言われないのである。特に真宗は自力を否定した、絶対的な救済であるから、そのようなことはできない。お寺の建立も財産の寄付も、一切救済には役に立たないので、真宗の僧侶は涙目である。
 
 師主知識の恩徳を忘れ、迷っている者同士で目覚めていくなどということを説き出したらあぶない。凡夫同士でも未信のものは信を得たものに聞かなければ、信心はいただけないのである。信もあり教学をある人につくべきである。信を得ればあとは自由である。善知識に尽くさずとも念仏申せばそれで終わりである。

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