機の深信とは救済の自覚である(閲覧注意!宗教的に厳しい内容あり)

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。      (『教行信証・信巻』)

 一念一刹那という時間の極小の積み重ねとして兆載永劫という超大な時間、衆生と法蔵菩薩が向き合っている。私の罪業の一つ一つに如来の清浄業が積み重なる。
 機の深信とは単なる罪業の自覚ではなく、如来と共に歩んできた救済の自覚である。私が六道輪廻してきたどの瞬間、どの場所にも如来の慈悲は存在する。それは、また自分1人を極めることによって、他者ともつながることである。生き物のありとあらゆる苦しみは私が過去世において経験してきたものであり、すべて如来の慈悲がかかっているのである。一切の有情は世々生々の父母兄妹である。

自分の救いという安心と自己の罪業の消滅という邪見驕慢の心のために如来を利用するなどもっての他である。死後に地獄に落ちるのではない、今の一念一刹那に地獄へと落ちつつあるのだ。香樹院徳龍師も死んでから極楽と地獄へと分かれているように思うのは間違いだとおっしゃる。足下を見よ、そこに如来のはやく来い、我にまかせよとの南無阿弥陀仏の仰せは轟いている。

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