厳しい言い方をする人の意見も全て聞くべきか?

「質問箱」という、匿名で質問を投稿できるサービスを利用している。
私に対して、質問や意見、苦情が寄せられる。
先日、このような質問が届いた。

匿名で寄せられた質問


私は、SNS上で何人かの方に「特性がある」と言われてきた。
どうやら私はASDという病気の人と似た傾向があるみたいだ。
そして、そのことについて
かなり厳しい言い方や、嘲笑が混ざったニュアンスで指摘する方がいる。
そういう方々の意見を聞いてどう思うか、というご質問。

私は、ネット上で厳しい言い方をされても、特に傷ついたりはしない。
(対面で怒鳴られるのはちょっと怖いけど。)

何に対しても、人によって考え方が違うのは当然だと思うし、
私の考え方と違う人がいて良い。
考え方が違うとか、相手の考えがおかしいと思った場合は
指摘することも当然あるだろう。

そのときに、優しく指摘することもあるだろうし、
嘲笑的に言うこともあるだろう。
馬鹿にしたような言い方をすることもある。

優しい対応だけ受けていても、人は成長できない。
ある程度厳しい指摘も受けなければならない。

世の中、
全員が優しければ良いわけではないと思う。
かといって、厳しい人ばかりでもいけないと思うが。

中学生の頃、
職場体験で介護施設に行ったとき、
職員に「この仕事に向いている人はどんな人ですか?」と質問したら
「いろんな人が居たほうがいいので、こういう人が向いている、というのは一概には言えない。職員が優しい人ばかりだと、入居者も甘えてしまって、あまり良い雰囲気にならない。厳しい人ばかりでも、萎縮してしまうし良くない。いろんな性格、役割の人が必要」と言われたことがある。

また、
高校の頃、
集会でいつも怖い顔でキレ気味に話している生徒指導の先生がいて、
ずっと怒ってる怖い人かと思っていたが
途中でその先生が担任になった時、
教室では打って変わってずっと優しかった。
「先生、集会の時いっつも怖いのにね~」という話をしている生徒に、
先生が「しょうがないじゃん…あれは役割なんだから…」と言っているのを聞いた。

このような出来事がきっかけで、
世の中、優しい人ばかりではいけないのだと学んだし、
厳しい言い方をしてくる人も
本当は優しい人かもしれないし
良い人かもしれない、ということを知った。

厳しい言い方だからダメ、ということはないんだ!と思うようになった。

たくさんの人が、たくさんの視点で、たくさんの言い方で指摘してくださることで、受け取った側は考え方を修正できるかもしれない。
または、全て聞いたうえで
「いや、これは絶対に自分が正しいだろう」とより自信がつくかもしれない。
優しい人も厳しい人もいるから社会は成り立つのだ。

だから、私は「ASDとか発達障害とか、言うな!あざ笑うような言い方もするな!!」とは思わない。


そして、何より私は
「人に悪いところがあったら指摘してあげることが善である」
という考え方で20年生きてきた。
だから、私に対しても
「noteのこの部分が変だ!」とか、
「君の考えはココがダメ!」とか、なんでも言ってくれて良い。
言ってくれる人は素晴らしいと思う。

各々が思ったことを指摘することで、
指摘された側が「ここは自分が悪かったな」と考え方を変えることがあるかもしれない。
そうすれば、指摘した側も今後は嫌な思いをしなくて済むようになるし、
指摘されて変えた側は今後人間関係が良くなるだろう。

誰も何も言わず
全員が薄っすら嫌な思いをしたまま時が流れていくのは最悪だ。

言わなきゃ何も変わらないが、
言えば変わるかもしれない。
じゃあ、言ったほうがいいじゃないか。

「指摘したら、嫌われるかもしれない」
という考え方もあるだろう。

黙って我慢することと、
勇気を出して指摘し、嫌われること。
どちらが良いのだろうか。

私は後者のほうが良いと思う。
「やらないで後悔するなら、やって後悔したほうが良い」という考え方だ。

嫌われたなら、そこから思考を紡いで、
嫌われた原因などを含め、また意見を表明すればよい。
嫌われても、
自分と同じ意見の人が
「よくぞ言ってくれた!」と助けてくれるかもしれない。
もしかしたら、
逆に指摘したこちら側が間違っていたという気づきもあるかもしれない。

意見を表明しても、
こちらがただ嫌われるだけで何の改善も見られないようであれば、
「この方は、他人の意見ひとつ受け入れることもできない、残念な方なんだな。人間として成長する気がなくて、向上心の欠片もなくて、周りにイエスマンばかり集めて小さいコミュニティで生きていきたいだけのクズ人間だったんだな」と思ってその人から離れればいいし、
それでも
「いや!コイツのことは好きだし、変えてやりたい。良くしてあげたい」と思えば、
根気よく説得を続ければ良い。 


人によっては、本人に直接言わず、周りで共感できそうな人を集めて愚痴を言って発散すれば良いと思う人もいるだろう。

しかし、僕はそれは嫌だ。
本人に言わなければ何も改善されることはないし、
本人に直接言えないような悪口なんて、外で喋るべきではない。
意見があるなら、堂々と、誰の意見なのか明確にして直接述べるべきだ。
陰口なんて低俗な陰湿なことはせず、
嫌われる覚悟を持って堂々と本人に訴えることが大事だ。
小さい頃、「陰口はいけない。本人に直接言えないような悪口は、外でも言ってはいけない」と習わなかったか?
私は、鍵垢で引用RTしたりする人はこの類いだと思うので、あまり好ましく思わない。
DMやリプライで直接文句を言ってくる人の方がありがたいし、素晴らしい人だと思う。


この考えで20年生きてきたが、
2か月ほど前、ネットで炎上したとき、
「他人を変えようとしてはいけない。変えたいなら、自分が変わるべき」
「他人を変えようとするなんて、傲慢だ」という意見を多数いただいた。

最初は、
せっかく他人が勇気を出して指摘してくれているのに
一切聞かず、いただいた意見について考えず、変わる気が無いなんて、そっちのほうが傲慢だと思った。
指摘についてよく考え、考えた末に「やはり自分が正しいと思う」ということを表明するのは良いと思うが、
「そんなこと言うな!赤の他人が俺を変えようとするな!」と一蹴してしまうのは良くない。

でも、よくよく考えると
人は誰しも未熟で、ダメなところもあって当然。
悪い部分を全て変えて真人間になろうなんて、無理な話だ。
多少悪い部分も、
大目に見てやらなければいけないのかもしれない。
「いやだ!そんな意見、聞きたくないよ~~」と逃げてしまうのも、仕方ないのかもしれない。
深追いせず、ある程度のところで
「まぁ、人間そんな完璧にはなれないか」とあきらめて
放っておいてやるべきなのかもしれない。

そして何より、相手には相手なりの正義もあるだろうし、
ある程度で折り合いをつけないと、
共同体はつくれない。
私は一度した主張はきちんと責任をもって貫くのが筋だと思っていたが、
そんなことより、
折り合いをつけないと、人間関係は、やっていけない。
私は今まで折り合いをつけてこなかったから、
誰とも人間関係が成り立たなかったのだ。

なんでもかんでも変えてあげようとするのは、
余計なお世話なのだ。

これが、20年理解できなかった。

だから私は、
私に対して
「病院に1回行っておいたほうがいいよ」
「カウンセリングを受けるべき」
「ASDだ」
などという指摘をする人の気持ちが、
よく分かる。

他人を変えてやりたい、という気持ち、めちゃくちゃ分かる。

私が指摘することで変わるかもしれない、
変えてあげなきゃという謎の使命感、
よくわかる。

優しい言い方だと伝わらなさそうだから厳しい言い方をしなければいけないな、と感じてしまうことも
めちゃくちゃ分かる。


だから、
私は
「そんな言い方するな」とか
「他人を変えようとするな」などとは言えない。


意見をくださる皆様には、感謝しかない。
反映させるかは別として、全てきちんと目を通して、聞いて、
全ての意見について熟考すべきだと思う。

20年間、
アドバイスは全てありがたく聞き入れるべきだという考えで生きてきたので、
やはりその考え方が身体から抜けきらない。

だから、
他人に「俺の意見を全て聞き入れろ!!」というのはやめたほうが良いと思うのでやめるけれど、
自分は、他人の意見を全てありがたく聞き入れようと思う。

そうすれば、
「他人の意見を全て受け入れる」ということをなぜ人はしないのか、
より深くわかるかもしれない。


このnoteを書いていると、Twitterの通知が鳴った。
私の最新のツイートに
「今日も発達障害」というリプライが来たようだ。

リプライをくださって、ありがとうございます。
発達障害の方と自分はどのように似ているのだろう。
もう一度、調べてみよう。

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しゅんき
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