深読者Vol.3
Seen4 「パウダースノウ」「ゲルニカ」「FOLLOWER」、(「Analyze chat 『FREAKS』」)「FREAKS」
Seen3で、今まで《ENEMY》と認識していたものが自分の力であることに気づいてしまった《僕B》。
彼はこの<混乱>という単語で括られた四曲で、非常に重要な動きをする。
シングル時の「パウダースノウ」と「FOLLOWER」の中で《僕B》が遭遇する「戸惑い」はほぼ同質のものだが、この『PRIVATE ENEMY』に収録された「パウダースノウ」は楽曲を大幅にアレンジして歌詞の切れ間を変えることにより、キーワード自体を変化させた。
シングルのカップリングとしてのキーワードは
もっと憎み切って 存在をせめて君の中で生きていかせて
(「パウダースノウ」作詞:キリト)
だったのに対し、アルバムの中でのキーワードは
増えた傷跡を眺めながら 堕ちた自分に酔いしれるのだろう
(「パウダースノウ」作詞:キリト)
となっている。
ここで《僕B》は明らかにシングル時とは違う意思を持っており、前者は「どんなことがあっても自分の運命を貫く覚悟」と共に、「それによって《君》を傷つけても、それは仕方のないことだ」という諦め、そして「しかし《僕》は《君》に対して消えることのない愛情を持っており、それは憎まれようと消えるものではない」「《僕A》とは違う接し方しか出来ない自分だからこそ、傷つけることで《君》の中に存在を残したい」という葛藤が描かれる。
後者ではすでに《僕B》は自らの敵が自分自身だということに気づいてしまっており、そこには《君》へ哀願する様な愛情を「持ってはいけない」という自戒、そしてこれから先歩んでいかなければならない「AGITATOR」としての生への皮肉が込められている。
「ゲルニカ」ではまさに《僕B》が自分自身の運命に自暴自棄になっており、灼熱の地獄を作り出す。
肌に感じ始める破滅のバイオリズム
白いキャンバスに書きなぐった記録
羽の裂けた天使が立っている
途方に暮れながら
派手に焼けた街を眺める
まばたき出来ずに
(「ゲルニカ」作詞:キリト)
これは《僕B》が犯した過ちにより<ユートピア>の人々が打撃を受けている様子である。
「ゲルニカ」というタイトル自体がピカソの描いた大戦の絵画であるが、《僕B》が作り出した地獄もまたそれに等しいものであろう。
“白いキャンバス”は「パウダースノウ」のようなやわらかで冷たく、自らを拒絶しながらも包み込んでくれる(と自分が思っている)過去──《君》の記憶──である。
この楽曲で《僕B》は《ENEMY》と認識していた《CREATIVE MASTER》が望んでいた行動を取ってしまうことになる。それは《僕A》が『FINALE』で「MAD SKY〜」の際に《CREATIVE MASTER》の望むように力を行使してしまったのと同じだ。
幻想の愛情ですら持て余す時代の君へ
「それは何も救わない」
喧騒に掻き消された僕のメッセージは君に
伝わらないで風になる
燃え盛る感情の糸が切れそうなんだ
早く君に何もかも伝えなきゃ Ah
罪に染まったこの身体も朽ちていくんだ
君の住む世界がこのキャンバスに描き出されて
(「ゲルニカ」作詞:キリト)
“幻想の愛情ですら持て余す時代”──それは《君》の抱いている《僕A》の記憶であり、《君》に愛されたい、赦されたいと思っている《僕B》の、「(<ユートピア>での)正しい煽動者」としての足枷となる。
産まれた時から罪の烙印を押されていた《僕B》は、あくまで《CREATIVE MASTER》の仕組んだシナリオから抜け出せず、世界ごと──《僕》と《君》が存在するすべてのものごと──心中を図るのである。
それは『FINALE』で《僕A》が見せた不屈の精神とは真逆であり、ここにも対比がきっちりと描かれている。
そんな、<ユートピア>全土を巻き込むような大罪を犯した《僕B》に対し、「FOLLOWER」たちはこう言う。
君がその手を振りかざす度、
後光が射して見えたものさ
君がいなけりゃ僕もあの場で
死んで逃げてしまってたのかもね
(「FOLLOWER」作詞:キリト)
すべてと心中しようとした《僕B》。性悪説の体現者である《僕B》。
しかし彼に救われたと、<ユートピア>の住人である「FOLLOWER」は《僕B》を慰める。
それは《僕B》が欲しい赦しとはまったく性質が違う(《僕B》が赦して欲しいのはあくまで《君》である)が、《僕B》の「煽動者」としての気力を奮い立たせるのには十分なきっかけとなる。
中途半端に決意まげないで開き直ればいい
大衆はすぐに飽きるからナマエトカカエレバ
(「FOLLOWER」作詞:キリト)
という、「悪魔の囁き」までして、「FOLLOWER」は《僕B》をもう一度「AGITATOR」として祭り上げることに成功するのである。
自らが力を求め、自らの意志で力を行使した《僕A》。
自らが望まない力を、祭り上げられた煽動者として行使するしかなかった《僕B》。
ここまでの三つの楽曲で《僕A》と《僕B》のシナリオの対照を描くことにより、この後の「Seen」に行われる世界の転換がより鮮やかなものとなる。
一方、性善説の世界──《僕A》が何度も《君》に受け入れられ、また《君》の価値観である世界──では、《僕B》のとる行動は尽く異常なものとして反映される。
「更正」が目的なら 殺すことも出来ないだろ
(「FREAKS」作詞:キリト)
少年犯罪をテーマに描かれた楽曲だが、この前に挿入されている「Anaryze chat『FREAKS』」で客観的な視点を描き、なおかつ「FREAKS」=未成年犯罪者本人の視点を綴ることにより、《君》の持つ価値観が私たちリスナーとほぼ同質であり、「この楽曲は快楽殺人者のものなのだ」という固定観念を植え付ける。しかし
はやく見つけて この息の根を止めて
あの娘にまで牙を向ける前に
十字を切れば誰でも救われるの?
反吐が出るね
黒い棒線で消された目が笑うバケモノさ
はやく見つけてこの息の根を止めて
人格は変わる訳がないから
聖書を読めば誰でも涙するの?
反吐が出るね
(「FREAKS」作詞:キリト)
と、まるでその犯人本人が助けを求めているかのような終わりとなっている。これは《僕B》が<ユートピア>の価値観で生きていくしかできないことを受け入れ、自らが性悪説の主人公であることを受け入れ、《君》と自分の距離がこのままだと永遠に近づかないことをはっきりと理解した部分なのだ。
「ゲルニカ」で《君》とも<ユートピア>とも心中できなかった《僕B=FREAKS》は、その中でどうすれば自分が《君》に受け入れてもらえるかを一考する。
Seen5 「ATENA」、「THE LAST CRY IN HADES(NOT GUILTY)」
この二つの楽曲を表した言葉は<確信>だった。これは一体、誰に向けての言葉なのだろうか。
「アテナ」はギリシャの女神の名前であり、知恵、芸術、工芸、戦略を司る守護神だ。同一視されている女神に「ミネルヴァ」がおり、こちらは戦争の女神とされている。二つの性質が、ここでもまた織り込まれているのだ。
「知恵」と聞くと、我々はすぐにアダムとイヴが食べた「知恵の実」を連想する。これは禁断の果実でもあり、リリスの誘惑によりこの実を食べたイヴは、自らが裸であることに気づいて「恥」を覚え──アダムと共に楽園から追放される。
禁断のカプセルを奥歯で噛み潰し編み出した
独自の理論
君は腕の中 目を丸くしてこの光景にとまどい見せている
鼓膜へと注ぐ劇薬のメロディーは
君の持つ価値観すら蹴散らすだろう
(「ATENA」作詞:キリト)
ここで書かれた「禁断のカプセル」とはすなわち「禁断の実=知恵の実」であり、「独自の理論」とは3rdアルバムで描かれる「SUPER STRING THEORY」である。(これについては後述するかもしれない)
ここで《僕B》は、《君》から赦しを乞う存在ではなく、自らと同じ価値観に《君》を貶める存在となっている。
それは《僕B》を祭り上げていた<ユートピアの住人>と同じ価値観でもあり、ただひとり性善説の価値観を持ち続けていた《君》が、ついに陥落する場面なのだ。
もうすぐさ 仕組みを暴いたエルドラド
聞こえるかい?覚醒を祝う鐘の音が
疑心暗鬼の君を抱き寄せ 理解不能の向こう側へ
つらぬかせて異常なスタンス
降りかかる非難の雨をぬけて
どんな終わりが来ようとも
君だけがここにいればいいさ
(「ATENA」作詞:キリト)
“エルドラド”とは《CREATIVE MASTER》の作り出した<ユートピア>、シナリオ通りに進む世界のことであり、“覚醒”とは、《君》の性質が性善説から性悪説に変化すること。
《君》はそのことを理解できておらず、《僕B》の示す行先を信じることができない。“カプセル”は明らかに《君》の意志で飲み下されたものではなく、《僕B》と<ユートピア>の住人によって服用させられたものだ。
この段階で《僕B》も<ユートピア>の住人も、この“エルドラド”=<ユートピア>が異常であることを知っており、それを受け入れている。
しかし“非難の雨”を受けようとも、その“異常なスタンス”をつらぬくという宣言をしているのだ。
強引に自分の性質である性悪説に《君》を連れてきてしまった《僕B》だが、彼はそのことにより自らの性質をより<確信>し、もともと《CREATURE》であったことをもう一度自認する。
鼓動がまだ脈を打つ
吐き気のする夜明けは僕を許してはくれていない
いつになったら眠れるの
望みもしない未来は容赦なく足首に繋がれたままで
窓に映る亡霊が
罪に罰は免れはしないと諭すように見つめている
それなら早くここへ来て
この喉笛を噛み千切ればいい できるなら今すぐに
(「THE LAST CRY IN HADES(NOT GUILTY)」作詞:キリト)
《僕B》本人はこの世界──<ユートピア>──自体を受け入れはしたものの、その中で暮らしていくことに自らの罪を感じている。
それは<ユートピア>を灼熱の地獄に突き落とした過ちや、《君》を無理やりに同じ性質にした行動、《CREATIVE MASTER》の思惑から逃れられないという、生命を受けたことそのものへの罪悪感である。
“窓に映る亡霊”は《僕B》の良心の存在であり、それを殺してまで今の人生を歩むことに《僕B》は苦痛を感じている。
自らを《CREATURE》だと認め、その用意されたシナリオを歩む決意をした《僕B》には罪の意識があるのに、タイトルに冠されているのは「NOT GUILTY(無罪)」である。
それは《僕B》の行ったこと、歩んできたシナリオの全てが《CREATIVE MASTER》の用意したもの通りであり、なおかつ<ユートピア>の住人が称賛するものであったことがうかがえる。
また、<確信>は《僕B》の中にだけ生まれた感情ではない。
創生神=《CREATIVE MASTER》は
手に汗を握る位の「裏切り」を待っている
(「CREATIVE MASTER」作詞:キリト)
のだから、このままでは彼の描いたシナリオ通りでありながら、期待通りではないのだ。
彼は《僕B》をそのままに、またしても舞台を転換させる。
《僕B》の歩んだストーリーは一度ここで終了し、このあとはまた違うシナリオとなるのだ。
Seen?? 「神経がワレル暑い夜」
さて、『PRIVATE ENEMY』に収録されていながらも、PIERROTが提示する<精神的外傷>や<混乱>、<確信>などのワードに定義されなかった楽曲が存在する。
それが「神経がワレル暑い夜」だ。
アルバムリリースの直前シングルとなっていたこの楽曲は、同じメロディでありながらまったく違う楽曲が収録されていると前述した。
この楽曲たちが『PRIVATE ENEMY』でどういった役割を果たしたのか。
あくまで両側面を描き続ける彼らは、それまで『FINALE』で描いてきた性善説のシナリオが《Newborn Baby=CREATURE》の誕生により、別のシナリオに変化したことを告げていた。
そして性悪説のシナリオを描いた『PRIVATE ENEMY』をリリースする前に、《僕A=性善説の体現者》と《僕B=性悪説の体現者》の両方の視点を描くことにより、「本当の敵とは、悪とはなんなのか?」という疑問を提示したのだ。
『FINALE』と『PRIVATE ENEMY』の世界が並行世界であり、根元はまったく一緒なのだという種明かしでもあった。
「内なる敵」とはすなわち、自らの悪心と良心、表裏一体のものであった。
Ⅶ.選ばれた者のみが体感できる「逆説」という名の記念日
2001/05/06、渋谷公会堂で行われたFC二周年を記念するイベントは、なんと「上映会」だった。それもバンドらしくフィルム・ギグを行うのではなく、『PARADOX』という映画の観賞会である。
『PRIVATE ENEMY』を深化した形で映像化したというそのフィルムは、<自らに下す審判>がキャッチフレーズであった。
もちろん『PRIVATE ENEMY』は一曲目が「THE FIRST CRY IN HADES(GUILTY)」というタイトルであり、最後のナンバーが「THE LAST CRY IN HADES(NOT GUILTY)」であることは誰しもが知っていた。自然、《僕B》の行動をなぞり、それが有罪か無罪かというものが自らに下す審判の基準となる。
同日渋谷タワーレコード限定でリリースされた、インディーズ流通のシングルが「PARADOX」である。このシングルは販売店舗も限られている上に、「1万枚限定」のリリースでもあった。
FC会員という限られた者から、さらに1万人を選出し、それら両方を体感できた者が「自分こそが選ばれた人間である」と錯覚させるにたりうるこの日のアクション。
一部の人間しか体感できない「記念日」を設定することにより、それを体感したものはより熱狂的に、漏れてしまったものは意地でPIERROTに食らいついていくこととなる。
それは人間の本性を剥き出しにすることであり、<FORETELLER'S-MUTATION FINAL
THE GENOME CONTROL>と<PROGRESS BODY>で行われた実験がまさに“進化”──“深化”──したものであった。
タイトルでもあり、限定シングルの名称でもあり、フィルムのエンド・ロールにも使用された「PARADOX」。一体PIERROTは何のメッセージをこの楽曲に込めたのだろうか。
*“逆説”が導き出す虚構と現実*
リリースの形態も特殊なれば、曲の持つ役割もまた特殊である「PARADOX」。
上映会で示されたキーワード<自らに下す審判>からわかるように、「PARADOX」が持つ役割は<選択>である。
《僕A》は自らの運命を<選択>し、《CREATIVE MASTER》のシナリオに乗っているフリをしながら《君》を待ち続けることを選んだ。
《僕B》もまた<選択>し、《君》を傷つけ自らが罪悪感を抱くことになっても<ユートピア>で暮らすことを選んだ。
『–CREATURES–』収録時の「GENOME CONTROL」ではあくまで選択する権利は《僕B》と《CREATIVE MASTER》──つまり「物語」を提示する側──にあり、《君》──そしてピエラー──側には存在しなかった。「GENOME CONTROL」=遺伝子操作により我々は<FORETELLER'S-MUTATION>=突然変異を余儀なくされ、《僕A》の歩んできた世界から突如《僕B》の歩む世界へと放り出され、自らの中に潜む本性=《CREATURE》=怪物、を引き出された。
今回の「PARADOX」ではそういった操作はなく、あくまでも自らが進みたい方向へ<選択>することが求められている。
このシングルでPIERROTが引き出そうとしているのは、前述の体験を踏まえた「意識した『無意識』の明確化」である。
人間の無意識、深層心理にまでPIERROTは疑問を投げかけるのである。
動物は生きる上で、物事を<選択>して生きていく。
目覚めたあと、朝食は食べるのか。会社には行くのか。誰と恋をするのか。休憩中に飲むのはコーヒーか、お茶か。
些細なことから人生へ重大な影響を及ぼす(と思われる)すべての物事を私たちは<選択>し、その通りに生きていく。
しかし、その<選択>は果たして、本当に自分がその場で選び取ったものだろうか? 「無意識」のうちに、我々は自分の認識していないなにかによってその<選択>をしているのではないだろうか?
「意識した『無意識』の明確化」とはつまり、すべての物事に疑問をもち、すべての行動に「自らが選んだのだ」という自覚をもち、「もし自分が自分の意識でそれを選び取ったのでなければ、そこにはなにかの影響があるのだ」という認識をもつことである。
これは当時まだメジャーではなかった理論である、「バタフライ・エフェクト」を個人個人に認識させる手段でもあった。
そのうちに自らが<選択>したものは、誰かから<選択>させられたものとなり、主体というものは輪郭をなくしていく。主体は客体であり、主観は客観であり、性善説は性悪説であり、「PARADOX」となっていくのである。
規則的にめぐる朝 変わることなくシナリオは続く
疑わずに演じきれば 何事もなく美しいエンド・ロール
計算されつくした 生と死が交錯する物語
流れに身を任せて キャストでいることがもう出来ないなら
噛み合わない記憶から 答えを探すのさ
全てを知りたければ 逃れられないパラドクス
絡みつくトラウマから 欠片を探すのさ
目を伏せたくなるような パズルを完成させようか
(「PARADOX」作詞:キリト)
『PRIVATE ENEMY』のSeen1の二曲は、<精神的外傷>=トラウマという単語で括られていた。
“疑わずに”いられるのは、<ユートピア>の住人だけである。
しかし<ユートピア>の住人の中には「FOLLOWER」のように、大いなる意志=《CREATIVE MASTER》の存在に気づいており、《僕》を偶像に祭り上げるような人々もいる。
どこまでいってもこの世界は「PARADOX」なのであり、なにが正しくてなにが悪なのかは、今までストーリーをなぞっていた皆さんにはもう理解できなくなってしまっていることだろう。
耳鳴りが鳴り止まない 「終わりからまた始めよう」
(「PARADOX」作詞:キリト)
入れ替わる側面。無意識からの呼びかけはすなわち“耳鳴り”である。これは「僕の中の《僕》」でもあり、一人の人間の中の両面性を示している。
PIERROT=《CREATIVE MASTER》の綴るストーリーは時々驚くような展開を見せるものの、描きたい内容はあくまで普遍的だ。ヒストリーは繰り返され、遺伝子の二重螺旋のように一部を交わらせながら繰り返していく。
『FINALE』で彼らは最初から告げていた。「なにかを始めるということは、何かが終わるということ」だと。
PIERROTは「PARADOX」がリリースされた後に敢行されたツアー<PARADOXICAL GENESIS>の初日、2001/07/17に、日本武道館ライヴの開幕曲として「FINALE」を演奏した。