ひとりバンド「アルマが死んだ」1stアルバム『ユースフルデイズ』にみる自意識の肯定
前置き
みなさんお元気でしょうか。今年ももうすぐ終わりますね。
今年はギャ(主に夢烏)に出戻ったり、音楽についての文章をまた書き始めたり、楽しいことが結構多かったです。
悲しいことも多かったですけど。
そんな中で、今年いちばん「あ、私このバンド好きだな」と思った出会いがありました。
それが「アルマが死んだ」というバンドです。
アルマが死んだとは、KOHEISATOという人物のひとりバンドです。演奏はそれぞれ別の人間がしているのですが、作曲や作詞、ボーカル部分をKOHEISATOが担当しています。
どうやって知ったかというと、今年はScalet ValseのShianさんのツイキャス枠に結構顔を出していたんですが、そこでShianさんが『ユースフルデイズ』に収録されている楽曲の小説を読み上げて、そのまま曲をかけてくれたんですね。
「買おう」
決意した時にはぽちっておりました。
そういう、久々に「これは買わなきゃいけない」と思わせてくれた音源の話です。
なお、KOHEISATO(こと、こーちゃん)に事前に「レビューを書いていい? 書くとしたら歌詞とサウンドどっちに多めに触れて欲しい?」と聞いたところ、「歌詞の方が嬉しいかな〜」と言っていたので、歌詞に全振りでいきます!!
「SUPER NEW」
さて、このアルバム、KOTHEISATOが書いた小説が付属しております。
小説の内容をあまり詳かにしてしまうと多分クレームがついてしまうので、さらっと話します。
1曲目の「SUPER NEW」の小説は、かつての仲間やオーディエンスに見捨てられながらもロックを捨てることができず、路地裏で歌を歌っている男が主人公です。
彼は燻り続ける闘志と後悔の間にいて、その救いとして少女「ルーシー」が、彼の歌を称賛し路地裏に通い詰めるストーリーとなっております。
この構図なんですが、多分……全てのロッカー、創作者が夢見る構図なんじゃないかなと思います。
誰かに理解されたい自分と、それを理解してくれる誰か。
たったひとりの理解者がいるだけで、何もかもがうまく回っているように思える。
それは真実だし、そこを自分の核として創作している人間のなんと多いことか。
さて、この小説ではバッドエンドになるんですが(詳しくは買って読んでください)、小説を読んだ後にこの「SUPER NEW」の歌詞を読みながら聴いてみます。
この1Aメロ後半から、
このラスサビまでのかたまりは、「ああ、その“理解者”に呼び掛けてるのか」と小説を読むと思うんですよね。
でも、ラストのメロで
と、まるで第三者の語りかのように情景描写が入ります。
これは……主人公はロックを諦めてないですよね????
理解者がいなくなったことで折れるかと思われた(少なくとも小説ではそのように読ませていた)主人公が、新しい道を歩き出したことを書いているように受け取れます。
もちろん「こいつ音楽やめて街を出ていっちゃったんだろうな」という風にも読み取れるんですけど、この主人公だったら理解者のためにロックを諦めないで、最初の理解者のために理解者を増やす行動に出たんじゃないですかね。
そして、周りから落ちぶれて路地裏で歌っていた主人公だとは思われないほど成功した。
だから「それから彼を見た者はいない。」なのかな……と思いました。
そう考えると、ラスサビの部分、ものすごい闘志が溢れてますよね……!!
最初のサビの諦観なんかとはもう、完全に違うでしょ。
そしてなにがアツいって、この「見返してやる、闘ってやる」「誰かに理解されたい」という曲がアルバムの開幕なところですよね。
そう、このアルバム『ユースフルデイズ』、全部「見返してやる」「認めさせてやる」という闘志と、「認めて欲しい」「愛して欲しい」という哀切な願望、そして、「俺はそれを手に入れられなかったかもしれないけど、聴いてくれているあなたたちにはそれを与えたい」という希望がふんだんに詰まっております。
「遺言」
2曲目でいきなり「遺言」。なんちゅータイトルつけるんだ。
こちらも小説が付属しておりますが、こちらKOHEISATOの実体験となっております。ノンフィクションというか、プチ私小説ですね。
「死のうと思っていろいろ準備したけど、死ぬのをやめた」という内容です。太宰かお前は。
これに関しては、マジで小説をざっと読んでもらうしか伝える方法がないのですが、歌詞には触れていきますね。
私の特に好きな部分を抜き出してみました。
「遺言」というタイトルの割に、結構前向きな歌詞なんですよね、この曲。
曲調もストレートなロックで、展開もめちゃくちゃ暗いわけじゃないんです。
結局、「SUPER NEW」と同じように、主人公は自意識というものに悩まされているんですよ。誰かに肯定されたい、理解されたいという自意識。
それが「必要とされる」ということだと思い込んでるんですよね。
でも、ふと死ぬのをやめた時に、印象的なリフレインである“これでいいのだ”が“これがいいのだ”に変化するんです。
(ちなみにこの手法、サブカル先駆者大槻ケンヂの所属するバンド筋肉少女帯の「これでいいのだ」を彷彿とさせますね)
ここで言ってる「あなた」って、特定の人物じゃなくて多分、憧れ続けた「音楽」なんだろうなあ……というぼんやりとした理解も降りてきます。
小説の中で明かされた主人公が「生きよう」と決意したきっかけが、「新しい曲を一曲作ってから死のう」という創作者としては非常に真っ当な理由で、しかもそれが自身の救いになるという。
音楽で傷ついて、死のうとまで思って、音楽で救われて、また生きようと思う。
このストレートな自意識の変化を、小説と楽曲で遺して「遺言」ですからね。ちょっと頭おかしいんじゃねえか????(褒めてます)
「化物」
3曲目。折り返し地点です。
これはマジで歌詞カード兼小説をみないと伝わらないと思うんですが、小説部分ではとある言葉のリフレインを延々と書き続け、歌詞は一見「小説か?」というような書き方をしています。
そういった理由から、この曲に関しては歌詞の引用がしにくい。
とにかく自意識、自意識、自意識なんですよ。
認めて欲しい、見つけて欲しい、好きと言って欲しい自意識。誰かの「特別」になりたいという願望。
そういう自分を「自分は」変えずに、誰かが見つけてくれないかという、ちょっとわがままな望み。
どうせ俺なんか、誰かの特別になれないよね。でも、この歌を見つけてくれたあなたは、それを覚えていて欲しいんだ、特別じゃなくていいから。
こういった切々とした願望が、淡々とした演奏とは別にたっぷりと情感を持って歌い上げられます。
つまり「化物」とは「自分のエゴ」だったり「自意識」だったりするわけですね。時代を悪者のように書いていますけど、実際の敵は自分である、と。
小説では同じ言葉をずっとリフレインしていたのに、最後だけ違う一文が入ってるんですよね。それがこの「化物」を見つけた「あなた」なんです。
「あなた」がこの「化物」を見つけることによって、「化物」にはあなたの感じた心の動きの名前がつけられる。
それが、この「化物」を救う、光になるんです。
「青の日」
4曲目。アルマが死んだが放つ、ザ・青春ソング。
小説はずっと、主人公と「なにか」の会話文です。これを読んだ後にこの曲を聴くと、生きることは本当に難しいことなんだよな……特に、自分に素直に生きるっていうことは……としみじみしてしまいますね。
ちなみにバラードです。バラードなんだけど、ギターソロが泣き声みたいで本当……こーちゃん天才かな????
これBメロなんですけど、「君」って明らかに「自分」なんですよ。もうひとりの自分の意識。
なんでそう感じるかというと、小説の「自意識同士の会話文」があるからこそなんですよね。
こうやって自分のやりたいこと、嫌いな自分、好きだった自分を殺して過去のものにして押し込めて、それを「青い日々」と名前をつけて封じ込めても、ふとした拍子で心に後悔が湧き上がってくる。
でも、大人になるってのはそういうもんだって割り切っていかないと、暮らしていくことすらままならない。
だから、ここで歌われる「誰か」も多分、過去に殺した(そしてこれから殺さなければいけない)自分のことなんでしょうね……。
青春を自意識の肥大の日々だと言ったのは文学やサブカルの先人たちですが、それをここまでストレートに歌うひとは久しぶりにみました。
「THE END OF THE WORLD」
これは、小説ではなくて詩の後に歌詞が載ってるんですね。
この詩がさあ……KOHEISATO、これ、憧れのラブソング、自分には歌えないラブソングをテーマにしてない???
そういう、いわゆるポップスみたいな、映画みたいな、ストレートで美しいラブソングを描けない自分みたいなものを俯瞰でみてない?????
だから歌詞が
なんて内容になるんじゃないのか?????
これ、歌詞をなぞっていくだけだと本当に普通のラブソングなんですよね。
でもKOHEISATOの歌詞は常に「対人」ではなくて「対自分」なので、ここで歌われている歌はKOHEISATOの魂の歌だし、“ぼくらの愛”はそれに気づいてくれた誰かが自分の歌を聴いてくれているという表現なんですよね。
だからポップス的なラブソングが氾濫している街の中で、「自分の叙情的な歌を誰かが聴いていてくれていて、それが自分とリスナーの“愛”である」と言い切る。
音楽を聴いて誰かが胸を高鳴らせてくれて、その期待と興奮が最高潮に達した瞬間。それが人生のハイライトになるんだってはっきり断言してるんですよ。
私たちは誰しも音楽(あるいは創作物)に救われたことがあると思うんですけど、それって個人的な感情じゃないですか。
それを全て肯定した上で、それをハイライトだと思って生きていくことすら「愛」だと言ってしまう。
なのにタイトルが“世界の終わり”なわけですから、本当にひねくれている……。
「ブルーハーツが似合うこの夜」
ラスト。これに関してはね、小説がどうとかじゃないんですよ。もうね、これはKOHEISATOの人生そのものですよ。
アカペラで
と歌った後に演奏が入った瞬間の鳥肌よ。
KOHEISATOの頭の中で鳴り響いて離れない音楽が、私たちの脳内にも具現化される瞬間です。
この引用部分はラストの部分なんですが、正直ね、
「なんでこの歌詞、全世界に公開しないの!?!?! サブスクで聴いても読めるようにしなさいよ!!!!!」
って説教したいですね……。そのぐらい、刺さる人には刺さりすぎてしんどい歌詞だと思うんですよねこれ。
いや、マジでなんで全世界に公開してないの??? 公開しようよ????
だってタイトルが「ブルーハーツが似合うこの夜」で、実際にブルハの「僕の右手」の歌詞である
を引用してるんですよ???(あ、だから公開できないのか?)
「僕の右手」はブルハ初期の名盤『TRAIN–TRAIN』に収録されてるんですけど、この楽曲にはモデルがいるとされていて、そういったエピソードと共に「応援ソング」として名高い楽曲なんですよね。
それを引用して、アルマなりの応援ソングに仕立てている。しかも、対他人じゃなくて対自分で歌詞を書きながらも、この曲を聴いて励まされるのは間違いなくこれを聴いたKOHEISATO以外の人間なわけですよ。
この曲でアルバムを締めるの、ちょっと「天才か案件」でびっくりしちゃったな……。
創作者の「自意識」、それを肯定することの難しさ
創作者にとって「自意識との対話」というものは、常につきまとう問題です。
承認欲求の話題がTwitterではよく盛り上がりますが、承認欲求がゼロの人間なんていないんですよ。坊主ですら「仏様に認められたい」って出家するんですから。
私は結構自意識を強めに出している歌詞が好きな傾向にあるんですが(まず好きなアーティストに大槻ケンヂとMUCCがいる段階でおわかりかと)、アルマが死んだはかなりオーケンのような「ひねくれた自分」と「それを客体で見ている自分」を踏襲したバンドですね。
誰かに認められたい、愛されたい。
その願望こそが、「自分が自分を愛したい、認めてあげたい」という想いだということに気づく。
ただ「愛してくれ!」とぶつけるだけじゃなくて、「俺は無理だった、でもあなたのことは“俺が”愛するよ」と肯定する。
その「あなた」はリスナーであり、憧れ続けた「音楽」であり、肥大して凝り固まってしまった「自意識」なんですよね。
1曲目の「SUPER NEW」を聴いた時に既視感があり、ふとMUCCの「空と糸」を引っ張り出して聴いてみました。
MUCCは歌詞について大袈裟にフォローしないバンドですけれど、たぶんこの2曲は同じことを歌ってるんだろうなと感じました。
創作者としての命題である、理解者との邂逅。
それをどのように描くかはアーティストによりますけれど、同じテーマがこれだけ違う楽曲になっていると、ちょっとゾクゾクしますね。
アルマが死んだは、音乞食というイベントで「ブルーハーツが似合うこの夜」を開幕一曲目でぶつけてきて最大級のインパクトを残したバンドでもあるんですけれど、まあ、アルバムを組み立てる時にこの曲を一曲目に持ってくるかは悩みどころだと思います。
印象が強すぎて、他の楽曲が記憶に残らない可能性がありますからね。ライブなら掴みとして最強ですが、(もしくはラストナンバーとして最高ですが)アルバムを通して聴いた時に、果たしてこれをどこに収録するか? というのは難しかったのではないでしょうか。
でも、アルマには「SUPER NEW」があった。
ロックに憧れてロックを捨てられなくて、周りから見捨てられてもしがみつく男の歌があった。
だからこれが、開幕曲なんです。
これが1曲目だからこそ、ラストの「ブルーハーツが似合うこの夜」がより一層映えるんです。
「SUPER NEW」で描かれた捨てられなかった自意識は、アルバムを通して聴いたあなたが“理解者”となり、“最低な俺が唯一生きた証”として、あなたの人生のハイライトになる。
自分の本心と向き合うのは、とても難しいです。だから「化物」や「青の日」で自分を殺したり、自分を見つけて欲しいと願う。
でも、「あなた」がみつけてくれたから、この楽曲たちは、“歌は色褪せず2人の人生、照らすのです。”
さて、アルマが死んだは来年2ndアルバムを発売します。もちろん予約しております。タイトルは『生活』。今から楽しみです。