【弘】近藤重蔵による蝦夷探検地図
こんにちは。地理大好き人間のジオナリです。初投稿から大分時間が経ってしまいましたが、今回は私の家に眠っていた遺品を使った研究を少しご紹介します。私の家は最初の投稿に載せた様に弘前藩士の末裔であるため, 江戸時代の資料が沢山残っています。今回の古地図もその一部です。
蝦夷地図式 坤
今回ご紹介する地図は, 寛政年間に幕府の命で近藤重蔵が作成した千島列島(カムチャッカ半島~得撫島)の物です。正式名称は【蝦夷地図式 坤】なのですが、同じ絵で【チュプカ諸島之図】と呼ばれる物も有ります。私が所有しているのは, 後者の方の写しです。調べたら弘前藩も持っていた様なので, 先祖の誰かが何らかの目的で写したのでしょう。
薄い和紙に描かれていますが、驚くことに本物と見比べても島の形はほぼ同じでした。朱色の墨も使われていましたが、退色してきていてかすかに残っている感じでした。私が初めてこの資料を目にした時は昔の茶封筒に折りたたんだ状態で保存されていたので、折り目から痛みが出てきてしまっていました。現状を悪化させないために今もその封筒に入れていますが、やはり保存に難のある資料です。まぁ、保存に難のある資料って言っても他の古い資料(特に江戸時代の封書とか和綴じ本)に比べたらまだ綺麗に残っている方だと思います(笑)
近藤重蔵とは何者?
明和~文政を生きた徳川幕府の役人であり、探検家・文庫学者です。蝦夷地探検に赴いた際、択捉島に大日本恵登呂府の標柱を建てたとして知られています。江戸駒込に生まれ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾を開くという凄い人物だったようです。寛政7年(1795)には長崎奉行手付役という役人になっています。
👆地図と同封されていた近藤重蔵についての解説です。和紙に墨で書いてありますが、和暦の他に西暦も書かれているので明治以降に追加された資料だと思われます。参観文献として書かれている甲子夜話は、平戸藩松浦家34代清の随筆です。上に何とか文庫と有りますが、判りませんでした。以下は私なりに解読した文です。字の判別が出来なかった物は?にして有ります。崩し字には弱い素人なので間違っている箇所も多いと思います(笑)
徳川幕府の探検家且文庫学者。通称は重蔵、正斎と号す。明和8年江戸駒込に生まれる。寛政七年(西暦1795年)先手与力からより長崎奉行手付となる。同十年蝦夷地探検を試み、幕府として北防攻策の根底を育む。時の勘定奉行中川飛騨守はもと長崎奉行たりしとき、守重の用ふべきを知り推人し、勘定役とす。更に蝦夷地の探検を???む。守重之方寛政十一年(1799)春江戸を発し根室を経て国後に航り、??に渡来人とす。??に??に遅れて果さず、十二年春豪商高田屋嘉兵衛と辰悦丸に乗り択捉「タン ネモイ」に上陸し、夷人と交換し漁場を開き、郷村と分かち、足軽を留めて警備に充つ。又ロシア人の建てし十字架を撤し、「カムイワッカナイの高岡に標柱を建て?して大日本地名「アトイヤ」と云ふ(??文久の須仙?の藩士の??に在勘させる。これを再興せりと云ふ、??列?に標柱??す)名で享和元年、同二年及文化四年(1801, 1802, 1807)蝦夷地に出張し、探検するところあり。守重又邊要分界図を製し、或は北海警備の策を建て、松前を幕府に収めて奉行を置く利あると説き幕府遂にこれを認める。文化六年(1809)?を?りて小普請と去り、七年瀧の川の邊に己の戒装の石像を建つ(今王子正受院境内に在り)次に書物奉納に仕ぜてし。是小?て紅葉山秘?の書を?し、元棟の冊子?すざるは?。然るに文庫政策の事よりして時の執政と分はす大阪弓矢奉行に遷さる。守重墳し大に?行を文?り、同六年再び小普請に敗せらる。これより?を仕官に?ち、地を??村に賜い、子富蔵をして住せしむ。園中に富士山を築き、参詣人??しき。農半之助なる者?ふて庭を園側に開き、?食物を参詣人に?ぐ。然るに土地の事よりして富蔵半之助の石?と怒り、遂に半之助及家族を斬る。富蔵は八丈島に流され、守重も罪に坐して分部夷寧に預ける。文政十年(1827)夷寧の采邑近江大溝に赴き、藩の子弟を教育セルが十二年六月病で没す歳五十九後?延元寺北邊に印ありし故を?て罪を追赦せらる。著書四十余部あり、邊要図考、金銀図録 右文放事 外藩遍書号其の???をく???人
内容
図では左がカムチャッカ半島で右に行くほど日本に近づきます。⇩の画像はこの図に書かれていた名称を大日本帝國時代以降の物にした対応表です。
研究成果
私が所属している大学には歴史地理学を専門とする教授陣がいるので、昨年度に見てもらったら、一部にリキッドペーパーの様な物で修正した箇所があるとの指摘を頂きました。リキッドペーパーというのは、誰もが使用したことがあるだろう修正液のことです。また、元々有った地名を修正して数字に変えている点も気になった様で、軍隊式の振り方ではないかと仰っていました。しかし、リキッドペーパーが使われる様になったのは戦後で、一部だけ地名から数字に修正し、その他は初めから数字で書かれている点、戦後ならこの地図を写して使う意味が無いという点から私はリキッドペーパーでは無いと考えていますが、どちらにせよ成分分析や放射性炭素年代測定をしてみないとどんな素材でいつ作られ何で修正されたのかというが分かりません。
👆裏面をスキャンした物です。裏から見ると修正前の地名が見えます。赤外線センサーを使えば表からでも文字が見える(墨に反応)ので試してみようと思います。
修正前の地名や詳細は北海道立図書館が公開しているサイトで見ることが出来ますので、こちらと私の画像を比較してみては如何でしょうか?
地図作成エピソード
googleマップを見た人は気付いていると思いますが、この地図、実は実測図ではありません。近藤重蔵が行ったのは択捉島までで、そこから先は千島アイヌの人に米粒で島々の形状を作らせて紙に写して地名を質問して書き入れたと言われています。
おわりに
長くなってしまったのでこの辺で終わりにしますが、次回の記事では蝦夷地警備と弘前藩の関連について書きたいと思います。閲読して頂き有難うございました。宜しければフォローもお願い致します。
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