逃避

「おお、あなたは勇者様だったのでしょうか? 噂通りのお人だ。」
「先程、貴殿から道案内の感謝は受け取った。頭を下げる必要はない」
 それを聞いた老翁はゆっくりと頭を上げ、再び歩き始めた。
 私は最期の旅の寄り道を楽しんでいた。今まで寄り道など、ただの一度もしたことはなかったのだ。もっと早くこのことに気づいていれば、あるいは別の。
「行き着いた」
「まさか勇者様に道案内なんぞ頼むことになるとは、この盲目な身が情けなく……。いえ、では、良き旅路を。」
 あの老翁に気づかれただろうか。この身体のことを。この旅の目的を。

 青年はまだ苔も生えていない墓石の前に立っていた。空っぽの目をとじて祈る。祈る。祈る。
 数時間続けると目をあけ、十歩ほど横に歩く。そうして同様の祈りを行った。
 そこは最寄りの街から馬車で2週間を要する無人の土地、”勇者の山”。世界の仇敵たる魔族の最終掃討作戦が勇者単独で行われた山である。
 青年はその大嶽にいた。彼の目の前、そこには魔族の最後の生き残りの少女が立てた墓石が木々の隙間を縫うように所狭しと並べられている。だが、その全てに一切の装飾がない。ただ名前が書かれているだけの真っ新な石、それが大量に並んでいる。しかし、空っぽの目は何も映してはいなかった。これを一人が一瞬でたてた、と聞いて信じる人間はいないだろう。いや、「そもそも、この墓地の存在を知る人間すら限られているのだがな……」
 死者の眠りの妨げにならないように、青年は小さく呟いた。しかし、その声色からは激しい後悔と強い自責の念があった。
 ここにあるすべての墓石は残虐な性格といわれている魔族のものである。彼らは人間の英雄――勇者によって討たれた。いや、殺されたのだ。
 彼らは決して残虐な性格ではなかった。赤子は親の愛を受けて育ち、友を持つ。いつしか運命の相手と出会い、愛を育み、子を産む。その子には自分が受けた以上の愛を与える。そうして、秩序付けられた幸福の循環がそこにはあった。そう、誰であっても壊す権利など持ちえない社会がそこにあったのだ。勇者が破壊するその瞬間までは。しかし、そんな真実を知る人間は青年を除くと人間の王やその親族のみである。だから、残虐である魔族の生き残りが同胞を弔うために墓をたてたりなどしない、というのが一般論なのだ。故に、この何もない土地に偶然たどり着いた旅人は、この山景を魔法的な自然災害と考えるだろう。
 その場所での祈りを終えた青年は歩き出し、数歩で止まると正面を墓石にし、祈りを始めた。
 この墓をたてた少女は死者たちが眠りの中で豊かな自然を感じたいだろうと考え、木を避けて墓をたてた。そのため、墓は等間隔に並んでおらず整備された道もない。ただの墓参りですら一苦労である。しかし、これまで墓参りをする者などいなかったため、問題は起こらなかったのだろう。そして、おそらく今後もそれは変わらない。
 少女の直接の死因は墓地を作り上げるために残った力を使い切ったことである。しかし、そこまで追い詰めたのは勇者であった。
 勇者はたった一人で魔族を屠った、千年後も語り継がれる英雄である。世界を滅ぼし得るほどの強大な力をもちながら、人々の笑顔を守った象徴的存在なのだ。
 青年こそが、勇者と呼ばれた男である。使命を終えた勇者は暫しの休息を終え、最期の旅を始めた。
 使命を終えてからは以前みた景色を、視界を度々思い出す。魔王を倒す旅の途中で助けた村娘、そこで初めて無辜かつ無垢な人々と直接触れた。
「ありがとう、勇者様」
 そうして、満面の笑みと心からの感謝を勇者に向ける。
 『勇者』とはいったい何なのか、人々に尋ねた。彼らは、愛を知らず人々の命を奪う邪悪な魔王を討ち、人々の愛と笑顔を守る象徴的存在と答えた。無論、中にはあなた様のことです、とだけ答える者もいた。
 彼には家族も友もいなかった。そして魔族を滅ぼしたのだ。私はいったい何なのか。私こそが滅ぼされるべき『魔王』ではないか。彼は人の笑顔を見れなくなっていた。笑顔を見たとき、同じように笑う魔族の顔が思い浮かぶ。そのたびに、それを奪った自身の所業が脳裏をよぎった。
 考える時間だけは大量にあった最期の旅の道中、『勇者』という言葉は呪いの言葉となった。彼にとって”勇者の山”とは、勇者が死んだ山であった。
 それだけではない。人を助け幸福を感じた自分を許せなくなった。贖罪と幸せが同じ方向にあるとは思えなかったのだ。汚れた己が幸せになってよい理屈など、彼の中にはない。
彼は”英雄の山”での墓参りが不毛であることに気づいていた。そうでありながらも、ここまでたどり着いてしまったのは、耐えきれなかったからに過ぎないのである。
 その後も自分の身体を壊すための過酷な祈りは続いた。しかし、彼は途中で気絶し、懐かしい夢をみた。

壮大な墓標の前。地に膝を付け、肩で息をする魔王に問われた。
「勇者よ、おぬしは正義を成したか」
「ああ。数分後には、無辜なる人々の夢が叶うだろう」
 黒を基調としたシルクのドレスが汚れることを厭う余裕すらない、魔王の虚勢は明瞭であった。
「ならば、おぬしは何のために戦ったのだ。”無辜なる人々”など言うでないぞ? 今際の際に腹芸などされては死に切れん。」
 私は何も言わなかった。何も言えなかった。
 少女は目を閉じ旅立つ準備をしながら告げた。
「思考からは逃げよ。されど、視界に映るものからは決して逃げるな」
 言っている意味がわからなかった。何も考えたくはなかった。
「青年よ、生きなさい」

 その直後から、視界に映るものは美しい墓標と物言わぬ骸のみになった。されど、これは青年が見る最期の景色となった。彼は目を永遠に閉じることを選んだのだ。全ては耐えることができなかった、弱さの証である。その瞬間から、彼にとって勇者とは自分ではなくなった。
 初めての暗闇で思い浮かんだことは、まだ平和だったころの笑顔に溢れていただろう魔族たちの姿である。それがひとしきり続き、最後には直前に自分の目でみた光景。視界を埋めつくす山のような墓標と高貴なる少女の。

 目を覚ました勇者はすぐに祈りを再開した。墓石への祈りを終えて、近くに生えていた一輪の花を添える。そして、次の墓石を目指して歩く。彼の鍛え上げられた勇者としての肉体は光を失ってさえ、この苦行に耐えた。研ぎ澄まされた感覚によって草木が生い茂る環境であっても、自在に歩くことができた。
 自分の罪はただ生命を奪ったことでは収まらない。何百年とかけて作り上げられた循環を崩壊させたのだ。一生とは太く長い糸のようなものである。社会とはそれが縦に並び、横に並んだ網である。自分自身の長い一生ですら、あくまで一本の糸にすぎないのだ。網を壊していい理由などどこにあるのか。
 彼は山の頂上へとたどり着き、最後の墓石に花を添えると、自分の人生を思い返していた。
 たまたま生じた争い、その結果、まだ幼かった彼は家族を失った。家族を失った悲しみから逃げるため魔族を恨み始めた。
 泣き崩れる幼い魔族にとどめを刺したことがあった。その時に感じた強烈な違和感、それから逃げるため「魔族は残虐な性格である」という決めつけを妄信した。
 魔王との対話の後、理解することから、現実から目を背けた。それでも逃げ切れないことに気づき、この場所に帰ってきた。もちろん、逃げるために。
 人生のあらゆる選択はすべて現実逃避の手段であった。
 鞘から剣を抜いた。多くの魔族を討った勇者の剣である。多くの幸福を奪った悪魔の剣である。
 己を暗闇へ導いた凶器、その剣先は前回より少し下を向いた。


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